高橋義夫「天保世直し廻状」  玄関へ戻る
五郎左衛門に関連する部分の抜粋
(前略)
小川は膝をすすめて、膝がつきそうなほど近寄った。
「ちよいと気になることがありまして、御奉行に戯に申し上げるのもはばかられるので、狩野さんのお耳に入れておこうと思いまして」
と、秘密めかした口調でいう。定謙の身にかかわりのあることらしい。
「なんでしょう」
晋助は居ずまいを正した。
「御目付が古いことを蒸し返して、探りを入れているようなのです」
小川が晋助を見つめた。古いことといわれても思い当たることがなく、晋助は黙っていた。
「五年前、八丁堀で騒動がありましてね、佐久間伝蔵という同心が、堀口六左衛門の倅を斬り殺して自分は腹を切ったのです。両方とも南町の者で、当時は奉行所は天地がひっくり返ったような騒ぎでした」
小川は知らぬかと問いたそうな目を向ける。騒動の噂は耳にしていたが、その当時は定謙が大坂から戻って勘定拳行になったばかりで、飢鰻の対応に追われていたころである。
「堀口六左衛門というのは、五十過ぎのいい爺さんですよ。同心の勤めが長いから、とかくの噂がありますが、倅を殺されてがっかりしてしまっています」
それが定謙とどういうつながりがあるのだろうか。
「堀口六左衛門の件を殺して切腹した同心の佐久間伝蔵には、おかねという女房がいまして、八丁堀の同心屋敷を追い出されて、暮らしに困っているのです。この話は、御奉行所の内情にかかわることですから、必ず内密に願いますよ」
と、話を中途で切り、小川が念を押す。晋助がうなずいた。
佐久間伝蔵の女房が暮らしに困っていることは、容易に想像できる。江戸町奉行配下には南北合わせて与力五十騎、同心百二十人がいる。与力の禄は二百石で、侍二人、小者六人を養う。同心は禄高蔵米で三十俵二人扶持である。与力は百坪ほどの建坪がある玄関式台つきの家に住み、同心は長屋に住んでいる。禄だけでは暮らしが苦しいばかりでなく、役目も充分に果たせないから、余禄を求めてさまざまなことに手を出すのである。
町奉行所の与力、同心は、罪人をあつかうので、格式以下に見られる。しかも同心でありながら刃傷事件をおこした佐久問伝蔵の女房が、同心長屋から世間に出されて、温かく迎えられるとは思えなかった。
「佐久間伝蔵の女房は親戚に泣きついて、伝蔵の雪冤を訴えているらしいのです。たしかに人を殺したのは亭主だが、それは公慣というもので、ただの喧嘩の果ての刃傷沙汰ではないというわけです。
悪いのは堀口六左衛門と上司の与力、仁杉五郎左衛門の二人だというのです。御奉行所では亡夫のいいぶんをまともにとり上げてくれないといい、御目付に密訴したらしいのです」
「堀口六左衛門と佐久問伝蔵の問に、どのような確執があったのか、あなたは御存知なのですか」
「天保七年の飢麓の際に、お救い米の勘定のことで、ごたごたしたようです。おそらく与力の誰かが勘定をいごまかして着服したということでしょう。わたしは盗人を捕えるほうで、銭勘定にはうといもので、事情は良くわかりませんが」
「五年も前の話ではありませんか。前任の御奉行が決着をつけたことでしょうに。佐久問伝蔵の女房と親戚が不満をもらしているというのも、昨日今日の話ではないでしょう」
「ええ、それがいまさら蒸し返されそうなので、わたしどもは首をかしげているのです。御目付の手の者が、仁杉、堀口の身辺をかぎまわっています。どうやら、本気でやるつもりらしい。わたしどもとすれば、御目付に奉行所の中に手をつっこんで掻きまわすような真似をされるのは心外です」
小川は矢部定謙から事前に手を打ち、鳥居耀蔵が南町奉行所の与力、同心に手を出すのをやめさせて欲しいといいたいらしかった。
    中略
南町奉行所の与力の話が気になり出したのは、古屋のとりこわしがすみ、庭木を通して御徒町のほうが眺められるようになってからだった。
晋助はいつもの柳橋の船宿に目明しの仁兵衛を呼び出した。川風が身に沁みる季節になったので、船には乗らず宿の二階の障子をしめきって、仁兵衛と向かい合った。膳の用意はしなくてよいと、女将にはことわってある。人払いの意味があった。
「南町奉行所の仁杉五郎左衛門という与力と堀口六左衛門という同心を知っているか」
と晋介が訊ねると、へいと仁兵衛はうなずき、
「よく知っていますよ。お二方とも年がわたしと近い、長いつきあいですよ。」
と答えた。
「五年前、八丁堀で刃傷沙汰があったが、なにか裏があるのなら、話してくれぬか」
仁兵衛はとまどいの表情を浮かべた。仁兵衛は、晋助が奉行の定謙の命を受けて、部下の行状を探ろうとしていると誤解したのではないか。晋助はそれに気づき、
仁杉さんや堀口さんのことを調べているわけではない。話しにくいことなら、あえて話すにはおよばぬ」
と、いった。
「お二人とも、悪い人じゃないんですよ。とくに仁杉の旦那は、御当人はいい人なんですが、御子息が悪い」
「それで金が要るのか」
と、晋助がいうと、仁兵衛は苦い顔をした。
鹿之助というもう三十近い息子がいるんですよ。これが16,7のころからぐれて、深川一色町の藤助長屋というところへ入りびたって家に帰らなかった。藤助長屋というのは博突打ちの巣ですよ。
一度は仁杉の且那の頼みで、目明し連中が深川に晋こんで、首に縄をつけてつれ帰って、与力見習いにしたんだが、すぐに逃げ出して深川に舞いもどったんです。深川に情婦がいるんです。鹿之助がこしらえた借金のとりたてが、且那のところに来る。親馬鹿といやあそれまでだが、息子の命をとるか金をとるかと責められたら、金を出さないわけにはいかないでしょう」
仁兵衛は仁杉に同情する口ぶりだった。
「それで金に困って、お救い米の勘定をごまかしたか、お救い米の買いつけに当たって出張のお手当をごまかしたか、わたしはよく知りませんが、そんなことがあったようで。堀口の且那と、佐久間伝蔵という同心の旦那は、仁杉の且那の部下でしたが、なんで刀を抜いて暴れる騒ぎになったか、そのへんの事情はわからないんですよ」
「佐久間伝蔵の後家は、佐久間は公憤にかられて刃傷に及んだので、非は堀口さんたちにあるといいふらしているそうだが」
「ずっと前に、そんなことをいっていたようですが、負け惜しみですよ。公憤にかられたなんて嘘で癇癪ですよ。佐久問という人はもともと癇癪持ちで、怒るとなにするかわからないと、評判がよくなかったんです」
と、仁兵衛は話したが、ふと晋助の顔を見て、小首をかしげて見せた。
「昔の話じゃありませんか。下手人の佐久間伝蔵が切腹して、一件落着になっていますよ。堀口の且那は逆恨みかなにか知りませんが件を殺され損です。なぜそんな古い話を知ろうとなさるんです」
「みどもが知りたがっているわけではない。どうやら昔の騒動を蒸し返そうとする向きがあるのだ」
と、晋助がいう。仁兵衛は腋に落ちない顔つきだった。
晋助は仁兵衛を船宿に残して、一人で表に出た。女将が送って出て、「きれいな夕焼けですよ」
と、声を出した。西空に浮かんだ雲が赤と紫に染まっている。晋助は立ちどまり空を眺めた。女将は晋助に身体を寄せた。
「お気をつけなさい。仁兵衛さんのあとをつけて来た男が、横町の角にかくれていますよ」
と、ささやいた。
「わかった」
晋助は女将の肩に乎を添えていい、歩き出した。
仁兵衛は近ごろ南鍋町の風月堂に出入りする鳥居耀蔵の家来の本庄茂平次という男の動向を探っている。晋助はあまりその男を甘く見ないほうがよいと忠告したが、危慎した通りに、逆に尾行されていたのかもしれない。
まずいことになったと、舌打ちしたい思いだった。晋助が目明しを使って風月堂を探らせていることが、鳥居耀蔵に知られてしまう。
橋を渡りかけて、晋助は顔は動かさずに、全身の注意を向けて背後から何者かが尾行する気配を探ろうとした。
っけて来る者はいない。少なくとも気配は感じられない。このまま二長町にもどらず、どこかに宿をとらねばならないと、晋助は考えた。
        (中略) 

九月なかばに、定謙ははじめて与力の仁杉五郎左衛門をひそかに南町奉行所の居問に呼び、事情を訊くことにした。 仁杉とともにとり沙汰されている同心の堀口六左衛門は病臥していて、奉行所まで歩くのは困難らしかった。
仁杉は江戸の米問屋の台所の隅々まで知っているとさえ評される経済通だった。代々の町奉行も米問屋のことは仁杉に任せきりだった。
丙申(天保七年)秋の飢麓のおり、定謙は大坂からもどって勘定奉行に新任したばかりだったが、町奉行が救い小屋を各所に設けて貧民に粥をほどこしたり、浅草の蔵米を分け与えたりしたのにたいして、幕閣中ひとりその施策を批判し、浅草の米蔵を開いて米三十五万石につき四十二両と値を定めて大量の米を問屋に放出して、米価を下落させることに成功したのだった。当時の南町奉行は筒井紀伊守政憲だが、実務をとり仕切っていたのが与力の仁杉である。
施し米の買い上げは、与力と米問屋との蛾の話し合いで決まるものだから、当時からそこになにかの不正が介在するのではないかという噂はささやかれていた。
仁杉は不安そうな表情で、居間に入って来たが、定謙の質問が飢饅の際の施し米のことだと知ると、はっと肩の力を抜いた。
「御承知の通りあの時分は天明以来の大災害でございました。六月のころから、奥羽一帯が大飢麓となり、幾千、幾万の餓死者が出ていると伝えられておりました。江戸も米穀の不足がはなはだしかったところ、七月十八日、八月一日と、あいついで大嵐となり、大水が出ました。江戸で食が尽きたならば、餓死者の数は数万ではきかぬのではないかと、肌に粟を生じたのです。御奉行の御下命で、ともかくお救い米を集めろと、われらは必死に米屋を駈けまわり、とにもかくにも筋違橋外、和泉橋外にお救い小屋を設けて窮民に粥をふるまうだけの米はかき集めました。それはあとからかれこれ申す者は、米の買い値が高すぎたのではないか、公金の使い道が不明朗ではないかと申していることは存じておりますが、なにしろ、非常の時でした。七月に一両につき六斗五升買えた米が、八月の大水の後では、一両につき二斗五升しか買えない。それでもなかなか手に入らないのですから、われらはもう米さえ手に入れば金はいいなりに出すという心持ちになっておりました」
と、仁杉は説明した。
「みどもも当時勘定方に任じていたから、米価騰貴の凄まじさは、よく覚えている。しかし、そのことではなく、米の値が下がった後のことを訊きたい」
と、定謙がいった。
「はつ」
仁杉は警戒の色を顔に浮かべた。
勘定傘付だった{心淋が、蔵米に安い値をつけて大量に放出したために、一時の危機を切りぬけた後の米価は劇的に下落したのである。 仁杉たちが買い付けた米は、危機のさなかの米価だったが、現金取引ではない。 値は口約束、代金は後払である。 そこに疑惑が生じる隙がある。
古い話を蒸し返されて、仁杉はいかにも迷惑そうな顔になった。
「値はともかく、町人たちを飢えさせぬよう米を集めるという御奉行の御下命で、われらはいわれた通りに働いただけで---」
と、仁杉は前任の南町奉行筒井政憲に責任を押しつけようとする。定謙は鋭い眼光を仁杉に向けて、
「御奉行、御奉行と申すが、実際の差配は貴公ではないか。みどもは責めようというのではない。非常のときには、あとからつじつまの合わなくなることもある。それをどうしたか、金勘定はどうなったのか、それを知っておけばよいのだ」
と、しずかな口調でいった。仁杉は堪えられぬように視線をそらせた。居問には火鉢を置くほどの気候だが、仁杉の額にはうっすらと汗が浮かんだ。
「御奉行は米問屋のことにはお詳しいから、いいかげんな申し開きでは納得なさらぬでしょう。たしかに、つじつまの合わぬことはございました。たとえば、東国米をあっかう米問屋に、路用の金を米価に上乗せして払ったことがございます。また越後米をあつかう米問屋に、相場違い不足金の名目で、あとから追い銭を払った例もございます。しかし非常のときに裏金を使わねば、米が集まらなかったので、やむなくそうしておいて後から帳面上のやりくりをしただけのことでございます」
「それだけか。息子に金を使ったのではないか」
と、定謙が問うと、仁杉の表情が凍りついた。
「古い話だから、みどもは目をつぶるつもりだ。正直にいえ。お救い米は使い切ったわけではあるまい。実はみどもは勘定方の役目上、その当時調べたのだ。お救い米は余っただろう」
「は、余りました。おそれいりました。五百俵ほど残りました」
「帳面上は使い切ったことにして、米問屋に引きとらせたか」
「いかにも仰せの通りでございます。しかし息子にその金を使ったということはありません」
仁杉は顔を赤い赤くした。
「それではなにに使ったか」
と、定謙は追及したが、仁杉は答えなかった。
「申しわけございません」
と、詫びるばかりである。おそらく、五百俵の米を売った金は仁杉が一人占めしたのではあるまい。与力、同心たちに分配されたのだろう。堺、大坂の町奉行を歴任して来た定謙には、そうした裏金を与力が作ることは知っていた。
「おおよそは察する。しかし五百俵といえば、与力二人分の禄にも当たる。多いといえば多い。いざというときに申し開きができるように、帳面をととのえておけ」
と、定謙はいった。仁杉は、
「早急に、帳面を御奉行に御覧に入れます」
と、額を畳にこすりつけて、いった。
「それには及ばぬ。前の奉行の落ち度となる。二度と痛くもない腹を探られぬように、慎め」
と、定謙は諭して、仁杉を引きとらせた。

仁杉が目付に呼び出されたのは、定謙が事情を訊いた二日後のことだった。仁杉一人ではなく、病床に就いていた同心の堀口六左衛門まで無理につれて行かれた。
晋助がその事実を与力の小川忠之進から知らされたのは、翌日のことである。
「堀口は年だし、病気も重い。無理な吟味を受けたら、死んでしまいますよ。御目付も無茶なことをするものです」
小川は憤然としていった。
さきを越された、とうとう来たかと晋助は思った。 ふと腕を見ると毛が逆立っていた。
「どうかしましたか」
小川が心配そうな顔をした。よほど晋助の態度が、異常に見えたのである。
「御目付の御吟味の様子を知ることはできぬものでしょうか」
と、晋助が訊ねると、小川は首を振った。
「それは無理でしょう。同じ与力が疑いをかけられているのですから、わたしらもしばらくはおとなしくしていなければなりません。なに、仁杉さんも堀口も、すぐに疑いが晴れますよ。堀口にいたっては、自分が下手人でもあろうことか、逆に息子を殺されたほうですから」
と、小川は楽観視していた。あくまでも堀口六左衛門の息子を、同僚の同心佐久間伝蔵が殺害して切腹した五年前の事件の再審がはじまったと、小川は思っているのである。
しかし一目付の鳥居耀蔵が狙いをつけているのは、定謙だと晋助は感じた。いいがかりに近い嫌疑を、強引に断獄にもちこむ手法は、渡辺華山たち洋学者を弾圧した事件で、示されている。
晋助はおびえに似た気持ちを抱いた。

天保十三年の正月は、二長町の屋敷はひっそりとしていた。年始客も長居をせず、まるで病家を見舞うように、声を低くして挨拶をするとそそくさと帰って行く。向かいの屋敷で祝いの謡曲を謡う声が、いっそう寂しさをきわだたせた。
三日の昼過ぎに、裏門から青竜寺が挨拶にやって来た。青竜寺は前掛をかけ、酒樽を携げて、商人が年賀に歩くような風体だった。晋助は青竜寺を自室に通した。型通りの年賀の挨拶をしてから、
「実は仁兵衛に頼まれて来ました。仁兵衛はさしさわりがあつて、お屋敷には挨拶に参上できませんからな。正月早々、悪いことをお耳に入れますが、仁杉五郎左衛門と堀口六左衛門が死にました」
と、沈痛な面もちで語った。
「死んだのか」
晋助はきき返した。青竜寺はうなずいた。
「与力の小川忠之進殿から、ぜひ狩野殿の葺に入れてくれと、仁兵衛が頼まれたそうです。堀口六左衛門は病身ですから、冬の牢内の寒さに耐えることができなかつたとしても、無理はありません。だが仁杉五郎左衛門は、まだ五十二で、御目付に呼び出される前は、元気でした。おそらく…」
と、いいかけて、青竜寺は晋助の目を見た。一服盛られたかという言葉を口には出さず、晋助は顔をしかめた。
仁杉と堀口が目付に呼び出されて、調べを受けてから、五カ月目である。鳥居耀蔵は御役御免になった定謙の後釜で南町奉行となっている。仁杉と習の口供書は、鳥居の手中に握られているだろう。
口供書の内容がどうであれ、死人に口なしで、そんなことをいつた覚えがないと反駁することはできないのである。
「小川さんはどうしておられる」
晋助が訊ねた。累が及ばぬかと気がかりだった。
「年の暮れに、新しい御奉行にさっそくいろいろ訊ねられたと申しておりました。首を洗って待っていると、笑っていましたよ。どうやら、火消与力あたりに左遷されそうだと、ぼやいていました」
「そうか」
鳥居耀蔵は奉行所を洗い上げ、自分の色に染め直さなくては気がすまぬらしい。
「つぎからつぎへと縁起の悪い話で気が引けますが、これも小川殿からのことづてですから、お耳に入れておきます。蘭学者の渡辺畢山が切腹したそうです。与力の中島嘉右衛門殿が田原へ赴いて検死して、さきごろお帰りになったそうです」
「切腹……」
晋助は思わずその言葉を口に出した。十一月ごろ、華山が亡くなったという噂は耳にした。だがどのように死んだかは知らなかったのである。
華山は去る天保十一年正月に江戸を発ち、故郷の田原にもどっている。幽囚の身とはいえ、平穏に故郷で余生を送っているものと、晋助は思っていたのだった。
姐橋で練兵館という剣術道場を開いている斎藤弥九郎に、華山を救うために定謙の力を貸してくれと頼まれ、いささか尽力した縁がある。中島嘉右衛門は当時華山の取調べに当たった吟味与力である。
「どうして切腹したのだろう」
「国元でさまざま生き辛いことがあったようです。中島殿の話によれば、へそ下左から右へ六寸ほど引きまわした傷と、右喉から左耳の脇まで突き貫いた傷の二ヵ所、みごとな最期だったようです。中島殿は検死のおりには毛皮を敷いた床几に腰かけ、沈香を焚かせてその煙の中でなさったそうです。中島殿は華山を敬愛しておられたから、敬意を表したのだといいます」
晋助は目を閉じて、しばらく沈黙した。すると、その沈黙の意味に気がついた青竜寺が、
「旦那は大丈夫ですよ。この前西丸留守居役から呼びもどされたように、またすぐお役につきますよ。且那ほど世の中の仕組みをよく御存知の人はいませんよ。人が放っておくものですか」
と、いった。
「それはそうだ。心配はしていない。奉公をやめた青竜寺にそういうことをいわれたくはないものだな」
晋助は気持ちを引き立たせるために、ことさら冗談めかした口調でいった。青竜寺は笑おうとしたが、かえって不器用に頬をひきつらせた。
青竜寺の訪問を最後に訪れる者は、出入りの魚屋や八百屋くらいになった。彼らの話によると、二長町の通りと御徒町の辻に、目つきの鋭い二人づれの武士が立っていて、定謙の屋敷のほうへ曲がろうとすると、用向きや名前を問い質すのだという。
鳥居耀蔵の支配する南町奉行所の同心たちらしい。ついこの前まで人情奉行ともてはやされた定謙を、かつての部下が見張るのである。屋敷そのものが、檻のない牢獄となった。
そんな重苦しい日々が二ヵ月余もつづいた。その間、定謙は二度にわたって評定所に呼ばれ、目付の榊原葺諦勲の審問を受けた。南町奉行所の与力、仁杉五郎左衛門と同心、堀口六左衛門が、定謙が南町奉行所に就任する前におこした不祥事が問われた。それは本来、前任の筒井政憲の責任に帰すべきことだったので、定謙は知らぬといって押し通した。
三月二十一日が処分の申し渡しの日だった。前日までに家の中を塵ひとつないほどに掃除していた。
定謙は朝早く、妻や腰元、晋助たち用人を座敷に集め、
「お召しにより、ただいま参る。どのようなことがあっても、とり乱さぬように、心静かに役所よりの知らせを待て。もしものことがあれば、後のことは狩野に任せる」
と、静かにいった。二長町の屋敷はお上からの預かりものである。処分によっては明け渡さなければならない。
定謙はみなに見送られ、馬で評定所に赴いた。前後に、少し距離をおき、目付の配下がついて来た。
評定所で、大目付初鹿野美濃守、北町奉行遠山左衛門尉、目付榊原主計頭立ち会いの下で、桑名藩の松平和之進へお預けとすると申し渡された。
定謙はその席から、ただちに神楽坂の桑名藩中屋敷に引き渡され、幽閉の身となった。同時に、養子鶴松には、改易の処分が下された。
二長町の屋敷では、みながしわぶきひとつ立てないほど静かに評定所の知らせを待っていたが、処分が伝えられると、うめきに似た声やしのび泣きの声がもれた。
晋助はしばらく腰が立たないほどの衝撃を受けた。家名断絶というべき、きびしい処分である。まさかそれほどの処分が下るとは、予想していなかった。
夕方近く、桑名藩中屋敷から使いが来た。定謙のことづてだというが、白い絹布に包んだ短冊が一つあるだけで、
うつし見る鏡なければ妻子かは吾が影さへに逢はで過ぎぬる
と、和歌がしたためられていた。
しばらく時をおいて、松平和之進の屋敷から、評定所の申し渡しの写しが届けられた。使者がいかにも気の毒そうな顔つきで、ものもいわずに去って行くと、晋助は同僚の用人と額をこすり合わせるように、文面に見入った。どちらの手がふるえるのか、写しの紙がふるえる。同輩が小声で読み上げた。
「寄合矢部駿河守、そのほう儀、町奉行あい勤め候節、組与力仁杉五郎左衛門、同心堀口六左衛門外五人、去る申年市中御救い米とりあつかい係あい勤め、晶々不正の取りはからいに及び候始末、巨細の儀はあいわきまえず候とも、さいぜん御勘定奉行勤役中、町方御用達仙波太郎兵衛より右御救い米勘定書控、内々差し出させ、あるいは西丸御留守居勤役中、堀口六左衛門へ申し談じ、内々取調べさせ候由につき、おって町奉行おおせっけられ候わば、さっそく厳重に取りはからいこれあるべきところ、その儀これなく、右六左衛門伜堀口貞五郎を、同心佐久間伝蔵殺害におよび、高木平次兵衛へ疵負わせ、伝蔵自害いたし候節、同人妻かねへ心当たりの有無そのほうあい尋ね候ところ、御救い米勘定の儀につき、六左衛門等その身の不正を覆さんため、伝蔵重立ってとりはからい候よう申しなし、
心外のよしかねて話しきき候あいだ、右遺恨をふくみ刃傷に及び候儀にてもこれあるべき段、書面をもってあい答え、伝蔵変死も五郎左衛門そのほかの者、兇年の危急陸救い候場合、格別骨折り候とて、寛宥の御沙汰を希い候心得をもって、役儀など等閑の趣意にて、御暇、押し込め等申し付け候方に、内意申し開き候につき、吟味を遂げたるところ、品々不とどきの始末白状に及び、五郎左衛門は死罪、そのほかそれぞれ御仕置おおせつけられ候、右一件そのほう町奉行おおせつけられ候以前、支配ちがいの者どもへ申し談じ、詮索に及び候段、筋ちがいの至りにこれあるところ、町奉行おおせつけられ候後は、かえって取りつくろい候取りはからいこれあり…」
そこまで読んで、同僚の用人は口を閉じ、顔を上げた。唇がふるえる。こんな申し渡しがあるものかと、晋助も思わず叫び出しそうになった。
すべて前任の奉行、筒井政憲の時代の不祥事である。そのことを定謙が西丸留守居役の時代に、独自に調べて察知していたにもかかわらず、町奉行に就任してからあえて手をつけなかった。それが罪になるというのか。責任を負うべき前任の奉行は、御役御免、差し控えという軽い処分にとどまっているのである。感情をおさえかねて鳴咽をもらしはじめた同僚に代わって、晋助があとを読み上げる。
「かつまた右吟味巾は別して万端慎みまかりあるべきところ、みだりに懇意の者どもへ、このたびの儀は宥罪の体に自書をもって申しやり、または御政事向きならびに諸役人の儀等、品々誹講せしめこれまた同道の者をもって所々へ申し触れさせ候段は、人心狂惑いたさせ候手段とあい聞こえ候。さらに身分柄に似合わぬ心底、不とどきの至りに候、これにより松平和之進へ永御預けおおせつけらるるものなり」
前段の仁杉、堀口にかかわる部分は、まったくのいいがかりにすぎない。しかし再審を申し出ようにも、二人はすでに死んでいる。晋助は二人の死を、口封じのために目付が牢死させたと確信していた。
結局のところ、定謙を有罪とすべき罪条は、後段の「身分柄に似合わぬ心底、不とどきの至り」という文面にあらわれている。三方領知替えの決定をくつがえし、十組問屋の解体に反対して通貨の改鋳を批判した定謙にたいする水野忠邦の報復である。
誰もが定謙に罪がないことを知っている。しかし、水野忠邦と鳥居耀蔵をはばかり、表立って口をせつ乏ん出すことができない。この期に及んでは、辛抱強く雪冤の時を待つしかなかった。
晋助は定謙の預かり先の松平家にたいする折衝は同僚に任せ、屋敷の引き渡しにそなえて、準備をはじめた。家具、什器は道具屋を呼んで引きとらせ、襖を外し、畳を上げて、家人総がかりで掃除をする。定謙の妻は実家で預かってもらうことにし、腰元や使用人に暇をとらせた。
書類を庭で焼き、家財がすべて片づくまでに、三日を要した。屋敷には晋助のほかに用人が一人、門番、中間が二人ずつ残るだけになった。
明け渡しの期日を翌日に控え、晋助は縁側に坐り、ぼんやりと隣地の庭を眺めていた。隣地の庭に桜の老木があり、花が満開になっていた。桜の木があったことも、花が咲いたことも、晋助はいままで気がつかなかった。
       
(後略)                                        戻る