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五郎左衛門が登場する部分の抜粋
濡れ衣
(一)
築地の八丁堀は、北を円本橋川、南を京橋川、束を亀島川、西を楓川にかこまれている。
もともとこの地名は、船を通わせるため京橋川と楓川の合流する地点から海際の鉄砲洲まで掘りぬかれた長さ八丁(872メートル)の掘割を意昧した。それが正徳2年(1721)、北岸に町奉行の与力・同心たちの住む組屋敷が建てられたため、「八丁堀の且那」といえば町奉行所の与力を指すようになったのである。
与力たちには、いくつかの特典が認められていた。毎朝、廻り髪納いがやってきて理髪剃毛をしてくれること。四つ刻(午前10時)前に近くの湯屋へゆけば、客足の遅い女湯にひとりで人浴できることなど。
対して与力の妻は、気転の利く如才ない女でなければ務まらなかった。一般の武家の妻と違って、与力の妻だけは夫の不在中に不意にやってくる客と応対する必要があった。不意の来客の用向きは頼みごとがほとんどたが、できないことを引き受けてしまったり袖の下をもらったりしては剣呑なことになリかねないので、しっかリ者であることが第一の条件とされたのである。
南町奉行所の詮議役与力安藤源吾の妻お年もその例に洩れなかったが、そのお年が天保12年の残暑のきびしい日に応対した客ははなはだ奇怪であった。紹の夏羽織を着け、両刀をたばさんでやってきた初老の男は、髪を丸醤に糾って眉を剃ったお年が玄関の式台上に正座して川作を問うと、
「姓名の儀は、名のるのを遠慮つかまつる。ただし、さる筋よりのおたずねと思われよ」
と、初めから高飛車な態度を示したのである。
「さる筋とは、御公儀ということでございましょうか。それならばわたくしにはわかりかねますので、お奉行所におたずね下さりませ」
ぴしゃりとお年が答えると、
「いやいや、それほどのことでもないのでな」
にわかに腰を屈めた男は、慌て気昧につづけた。
「実はちと用があって、先頃まで南町奉行所の同心を務めておった化久間伝蔵の妻女おかねを探しているのじゃ。おかねが今どこに住んでおるか、知っていたら教えて下さらぬか」
佐久間伝蔵とは、矢部定謙がこの四月末に南町奉行に就任してまもなく、奉行所内の詰め所で同心見習いの堀口貞五郎を刺殺し、同僚の高木平次兵衛に手傷を負わせて切腹した人物である。
「さあ。あの刃傷沙汰のございました直後に組屋敷を立ちのいたことは存じておりますが、どこへゆかれたかまでは心得ておりませぬ。まずは佐久間様の菩提寺はどこかをお調べになり、そのお寺の御住職にうかがえばよろしゅうございましょう」
お年がたんとお白粉を塗った顔をまっすぐむけて答えると、
「それもそうじゃな。いや、これは失礼つかまつった。今のやりとりはどうか御内聞に願いたい」
と応じた男はそそくさと去っていった。
むろんお年は、「御内聞」になどする気はない。夫の安藤源吾が帰宅するとすぐにこのことを伝え、源五は翌日のうちに矢部定謙の耳に人れた。
しかし、この時点では定謙も、
(だれが、なんのためにおかねを探しているのか)
と不思議に思いはしたが、さほど気には留めなかった。
(もしもおかねが零落して佐久間家の親戚たちとも音信不通になっていれば、体面をはばかって姓名はあかさず行方を追おうとする者があらわれることも大いにあり得る)
と考えたためである。
だが、定謙としては珍しく、この発想には前提からして問題があった。定謙がそうと気づいたのは、ようやく秋風の立った一夜、前任の南町奉行筒井政憲が日本橋名代の料亭「ますほ」にかれを招いて耳打ちしてくれたからであった。
筒井政憲は受領名を紀伊守といい、すでに64歳の老人である。定謙が南町奉行に就任すると同時に西の丸留守居という閑職についていたが、町奉行在任期間はに20年にもおよんだ。 定謙が文政11年(1828)から天保2年(1831)まで先手頭と火付盗賊改を兼ねたころには「部屋頭の三之助」と異名をとった博徒の元締めから袖の下を受け取ったとの風聞があった。しかしその後、定謙が注意して眺めていても、その裁定にはひとつとして行き過ぎがなかった。いわば筒井政憲は先任の町奉行として一目置くに足る人物だったから、三方領知替えを中止に追いこんで一息ついていた定謙は喜んで招待に応じることにしたのだ。
若き日に昌平坂学問所に学んで頭角をあらわした政憲は、目付、長崎奉行なども歴任したことがあるだけに人柄が練れている。定謙が仲居に案内されて二の間つきの離れにゆくとすでに下座に座っており、固辞するかれに上座を強いて血色のよいまろやかな顔だちに笑みを浮かべた。
酒と料理が運ばれてくると女将が挨拶にあらわれ、脂粉の香の濃い芸者もふたりやってきて酌をする。すると定謙に後継ぎのこと、妻のことなど当たり障リのないことをたずねていた政憲は、
「これ芸者衆、この料亭の名は「ますほ」だ。これはどういう意味か知っておるか」
と話題を変えた。
芸者ふたりはそろって島田髷を揺らし、小首を傾げる。
「この店に呼ばれるなら、心得ておけよ」
と前置きした政憲によると、「ますほ」は漢字を当てれば「真赫」であり、歌語として用いられる「真緒の薄」といえば丈一尺ばかりの薄のことだという。
「これはそれがしも知りませんでした」
定謙が正直に頭を下げると、
「ああ、よかった」
「知らないのはあたしたちだけじゃなかった」
芸者ふたりは手を打ってはしゃぎ、二の間で舞をひとさし舞ってつぎの座敷へ移っていった。 筒井政恵は、茶漬をさらさらとかきこんで煙管に一服吸いつけてから本題に人った。
「お手前、拙者が西の丸留守居に移ってまもなく白刃して果てた同心佐久間伝蔵のことは覚えておいでであろう」
政恵は吐月峰に煙管の雁首を打ちつけながら、口調を改めたのである。
(また、佐久間伝蔵の名前が出るとは)
内心意外に思いながらも、忘れてはおりませぬ、と定謙は両手を仙台平の袴の膝に置いて答えた。
「では、おかねという名のその妻女のことはご存じか」
という第二の問いにも、存じております、と定謙は隠す必要もないことだから即座にうなずいてみせた。
あの日、非番のため屋敷にいた定謙は佐久間伝蔵の凶行と自殺を注進されるや南町奉行所へ急ぎ、追ってあらわれたおかねにこうたずねたものであった。
「それにしてもそこもとの夫は、いずれは与力に昇進しようかという切れ者の同心であったと聞きおよぶ。その佐久間伝蔵に、いったいなにがあったのだ。本日、同心詰め所に居あわせた者たちは不意に発狂したと感じたようだが、堀口貞五郎を一突きで討ち留めたことといい、みごとな最期といい、覚悟あってのふるまいとしか考えられぬ。思いあたる節があれば、ありていに申し述べよ」
すると血の気を失っていたおかねは、手巾で-頭をぬぐいながらもきっぱりと告げた。
「数年前に大飢饉が起こりましたとき、夫は与力の仁杉五郎左衛門さまの下でお救い米の掛をいたしました。組仲間の堀口六左衛門さまほか四人のお方も、夫とおなじ掛に任じられておりました。ところがお救い米を諸方から買いつけます際、仁杉さまにはなにか不正があった由にて、堀口さまも仁杉さまと気脈を通じておりましたとか。これらおふたりがその不止を隠すため、夫の側にこそ不正があったかのごとくに申し立てますので心外でならなかった、と夫が怒るのを聞いたことがございます。
あれからもう五年も経つと申しますのに夫がそのことをまだ面白からず思っていたとは気づきませんでしたが、夫は堀口六左衛門さまがその間にお亡くなりになったため、その跡取りの貞五郎さまに対して恨みを晴らしてから死のうと思いつめたように感じられてなりません」
5年前、天保7年といえば定鎌が勘定奉行勝手方を務めていた時代であり、幕府の仰御用達商人仙波屋太郎兵衛ほか2名がお救い米とする越後米を安値で買いつけたことはよく知っていた。
ところが、定謙が仙波屋から提出された買い値と売り値の勘定書を見ると、運送中の損失として計上された米の量や雑費がいやに多く、不正のおこなわれた可能性が感じられた。 そこで評定所の同心たちに命じて仙波屋太郎兵衛と仁杉五郎左衛門ら南町奉行所お救い米掛とのかかわりをひそかに調べさせたところ、つぎのような風聞のあったことがあきらかになった。
仁杉は仙波屋と親しい廻米問屋から袖の下200両を受け取り、この分を雑費にくりこませた。また仁杉はほかにも廻米問屋から鰹節一箱と65両、盆暮の挨拶として自分と妾に2両2分ずつ、公用で大坂に出張したときには餞別として50両を受け取ったらしい。
堀口六左衛門、佐久間伝蔵もこれを真似し、越後米の買いつけ価格を偽らせて差額をふところに納めたようだ。
そこで定謙は仁杉、堀口、佐久間を順に屋敷に呼び、噂が真実かどうかを聞きただしてみた。 しかし三人はいずれも嫌疑を強く否定したし、定謙は水野忠邦と争ったことから天保9年2月に西の丸留守居役に左遷されたので、それ以上この件の捜査はできなくなったのであった。
そのような前段があったため、定謙はこの4月未に南町奉行に就任したときにも、
(またあの一件をほじくり返しては前任者筒井紀伊守さまや後任の勘定奉行殿たちの顔をつぷすことになりかねぬ)
と思い、事件を再吟味しようとは考えなかった。旬日にして佐久間伝蔵が奉行所内で刃傷沙汰を起こして白刃沙汰を起こし自刃したのには驚かされたが、もし伝蔵が本当に袖の下を受け取っていたとしても、三ねい人といわれた林忠英、水野忠篤、美濃部茂育や中野碩翁と較べれば罪は軽いといわねばならない。
そこまで考えて定謙は伝蔵の死を狂死として処理することにし、水野忠邦からも、
「その方がそう考えるなら、それでかまわぬ」
という気のないことばではあるが、ともかく許しを得たのだった。
定謙がそんなことを思い出していると、筒井政憲は六つ星紋を打った羽織につつんだ上体を乗り出し、声をひそめて告げた。
「そのおかねのことだがの、近頃ある目付が居場所を探し出して身柄を自分の屋敷に引き取ったばかりか、伝蔵に対するあの裁定は納得しかねるから再吟昧してほしい、と自訴させおったのだ。その目付が四、五日前から西の丸にちょくちょくやってきおって拙者にあれこれ聞くのでそうと知れたのだが、どうやら拙者はいずれ評定所に呼び出され、南町奉行拝任中のことにつき審問されそうな雲行きでの。 となるとお手前も拙者につづいて審問されるかも知れぬが、なにせお手前は、三方領知替え中止の台命を引き山した御仁として世の評判になっておる。それを面白からず思っている先方は、寄席でいえば拙者をただの前座、お手前を真打ちと見てなにか企んでおるような気配ゆえ、充分に御注意なされ。 本日は、このことをちと耳に人れておきたいばかりに御足労願った次第での。」
「お心遣いのほど、まことに痛み入ります」
一揖した定謙は、つづいてたずねずにはいられなかった。
「だれでござりますか、その目付とは」
「例の悪名高い男、と申せばおわかりだろう」
「蝮の耀蔵といわれている男でござるか」
再度の問いに、筒井政憲は黙ってうなずいてみせた。定謙には、中庭から伝わってくる弦歌の音がにわかに高まったような気がした。
(ニ)
蝮の耀蔵こと目付の鳥居耀蔵といえば、2年前の天保10年師走、幕政批判の罪を犯したとして三河田原藩家老渡辺華山に国許蟄居、町医者高野長英に永牢を命じた酩吏として世に知られていた。 耀蔵はまず、配下の小人付小笠順貞蔵の息のかかった花井虎一から華山ら蘭学を好む「蛮社」に無人島渡航の企てあり、と根も葉もないことを訴えさせ、いわゆる「蛮社の獄」を引き起こしたのである。
三方領知替えの中止によって水野忠邦が一度は将軍家慶に進退伺菩を提出せざるを得なくなった以上、耀蔵がなおも忠邦に媚を売って出世を図るなら、忠邦が恨みをふくんでいる矢部定謙を失脚させるのが早道、と考えたとしても不思議はない状況になっている。
(それにしても耀蔵め。おかねを指嫉して自訴させるとは、花井虎一を使ったのとおなじ策を弄しおったな。蟹はおのれのからだに似せてしか穴を掘れぬというが、あやつも蟹の類のようだな)
定謙は帰りの駕籠に揺られながら苦笑したものの、焦りや不安は感じなかった。老中首座たる者の顔色を失わせ、前代未聞の幕命撤回にまで追いこんだからには、忠邦が陰険な意趣返しを企むのは覚悟の上である。
(しかし)
と、かれは思った。
耀蔵がおかねに自訴させた内容が、夫の佐久間伝蔵は狂死したのではなく、仁杉五郎左衛門と堀口六左衛門に不正の罪をなすリつけられそうになったのを怒り、六左衛門のせがれ貞五郎を殺害して恨みの一端を晴らしてから自刃したのだ、とするものであることは容易に察しがついた。となるとおかねはまだ仁杉五郎左衛門には恨みをふくんでいるわけだから、まず耀蔵に筒井政憲より前に仁杉を再吟味してほしいと願ったのではないか。
仁杉五郎蕎門の収賄の噂は妙に具体的で信憑性が感じられたが確たる証拠があがらなかったため今もかれは南町奉行所与力の職にある。
(そうか。やはり耀蔵は、おかねをすでに取リこんだからには近々、仁杉に手をつけるに違いない。南町奉行所の与力に不審の筋ありといえば、それだけで南町奉行の職にあるおれに揺さぶりをかけることができる、と耀蔵は踏んでいるはずだ)
定謙は、ようやく耀蔵の魂胆を見透かしたように感じた。だが、その一方で、
(まずはお手並拝見とまいろうか)
という気分も動いた。佐久間伝蔵と堀口貞五郎の葬儀に定謙の名代として出席した阿部公介の報告が、にわかに頭に浮かんできたからである。
公介は堀口家の親戚たちのひそひそ話を聞いたといつて、意外なことを告げた。佐久間伝蔵は定謙が南町奉行に就任するや落ちつきを失い、夜な夜な貞五郎の家を訪ねては、
「死んだ親父殿とおれたちのしたことは、いっさいしゃべってくれるな」
と頼みこんでいた。なんのことかさっぱりわからなかつた貞五郎がけんもほろろに扱ったため、伝蔵はこやつ、おれを売る気だなと考え、貞五郎を殺して自分も死のうと思い立った、というのが親戚たちの見立てであったと。
この見立てが正しければ、伝蔵は仁杉五郎左衛門の悪事の仲間だったことになる。とすれば、仁杉を悪者、佐久間を汚名を着せられようとした者と頭から信じこんで審間したところで、仁杉が容易に口を割るとは思えない,
とつおいつそんなことを考えながら定謙が自邸の玄関へ入っていったとき、大刀を受け取った玄関番の若党を押しのけるようにしてまろび出た阿部公介が珍しく泡を食ったように報じた。
「ああ、お帰リなさいませ。お立ち寄り先をうかがっておりませんのでお知らせできませんでしたが、一刻(二時間)ほど前、八丁堀から与力の仁杉さまの奥さまが駆けこんでまいリまして、このような口上でございました。 本日七つ半(午後5時)頃帰宅した主人を萌黄縮緬の羽織を召した方ひとりと黒絹無紋の羽織の方ふたりが訪ねてき、人払いして書院の間で何事か密談したあと主人と連れ立ってゆきました。主人はしばらく帰れまい、お奉行さまにさよう伝えよとのことばを残しましたのでこの段申し伝えます、と」
これを聞いて、
(耀蔵、すでに動き出しておったか)
と定謙が思ったのは、萌黄縮緬の羽織といえば小人目付組頭の衣装、黒絹無紋の羽織といえば小人目付のそれだからであった。
目付が旗本たちを監察糾弾する役職なのに対し、その配下の小人目付はお目見以下の者たちの素行を隠密裡に調べあげる。 町奉行所の与力はお目見以下だから、耀蔵は仁杉五郎左街門を吟昧すると決めるや小人目付にかれを伝馬町の牢屋敷の揚がり屋に連行させたに違いなかった。
(昨日の今日ということばはあるが、まさか今日のうちに急な動きがあるとは)
定謙は城中で何度も見かけたことがある耀蔵の猜疑心の強そうな鼬に似た面構えを思い出し、口中に苦い唾が湧いてきたような気がした。
(三)
牢屋敷の揚がり屋入りを命じられた者に対しては、町奉行所から吟味方与力が出むいて取り調べをおこなう。ときには牢屋敷見廻りと称して小人目付も立ちあうが、仁杉五郎左衛門は南町奉行所の与力だから、取り調べ役には北町奉行所の吟味方与力が指名された。
北町奉行遠山景元と南町奉行矢部定謙は、かつて腹を割って話しあった仲であるばかりか、どちらが月番でもつねに事務連絡をするよう定められている。そのため仁杉がなにか白状すれば、おのずと定謙の耳にも入るはずであった。
しかし、遠山景元がなにもいってこないうちに天保12年は残り少なになってゆき、その間も水野忠邦は相変わらず禁令を濫発しつづけた。
10月29日、市谷門から牛込門までの間のお堀で魚釣りすることを禁ず。
11月22日、医師が病家に療治に行った際、酒料ないし弁当代として金銀を受け取ることを禁ず。
11月26日、頭巾に面体を隠して歩行する者は奉行所のお尋ね者にまぎらわしいので、従来からある丸頭巾、角頭巾以外は一切かぶらぬこと。
11月29日、寺社の富突興行の札売りを門前茶屋などが取リつぐことを禁ず。
月が変わった12月11日、三頭左巴の家紋を打った麻梓を着用した定謙は、五つ半(午前9時)過ぎに長棒引戸の乗物に乗り、和田倉門内竜の口の訴定所におもむいた。 この月かれは非番にあたっていたが、毎月12日は評定所の式日とされておリ、寺社・町・勘定の三奉行のほか月番老中、大目付、評定番目付、評定所最上席の留役勘定組頭が全員一堂に会して公事訴訟に関する重要事項の確認をおこなうのである。
広間に居流れての会議はさしたる話題もないまま昼前にはおわり、定謙は隣りに座っていた遠山景元に、
「ちと別室でおうかがいしたいことがござリまして」
と囁きながら立ちあがった。 仁杉五郎左衛門が揚がり屋入りしてからもう二ヶ月以上になるので、この機会に調べがどのようにすすんでいるのか聞いておきたかった。
だが、そのとき、
「矢部左近将監殿と遠山左衛門尉殿、しばらく」
と上座から声がかかった。定謙が切れ長の目をむけると、やはり麻裃姿の大目付初鹿野信政がふたりを差し招いていた。
そのかたわらに、評定番目付の榊原忠義の控えていることが定謙には気に入らなかった。主計頭の受領名を持つこの猟首赭顔の小男は、蝮の耀蔵の提灯持ちとして知られていた。
「では、こうおいで下され」
評定所留役組頭が廊下を玄関へむかう人々に背をむけて先に立つと、やせぎすの初鹿野信政は定謙にその後につづくよう促してから、遠山景元、榊原忠義とともに最後尾につく。
(ははあ、図りおったな)
と思った定謙の第一感に、間違いはなかった。
評定所においては、三奉行のいずれかだけでは裁断しにくい問題に対して三手掛、四手掛、五手掛の裁きをおこなうことがある。三手掛は担当奉行が、四手掛は担当奉行ほかひとりの奉行が、五手掛は三奉行がそれぞれ大目付、目付とともに臨席する布陣である。
定謙が請じ入れられた奥まった一室こそは、これらの裁きに使われる詮議所にほかならなかった。
無表情な初鹿野信政、驚きを隠せない遠山景元をはさんで上座に正座した榊原忠義は、評定所留役組頭に指示されて定謙が下座に着くや、
「本日は三手掛にてたずねたいことがあるにより、これよりことばを改める」
と口をひらいた。
それを待っていたかのように黒羽織姿の評定所書役とその見習いが入室し、文机にむかって口書きを記録する姿勢をとる。赭顔を左右に動かしてそれを確認した榊原忠義は、懐中から取り出した紙を見ながら審問を開始した。
「ことは、つい先頃までその方の下にて与力を務めていた仁杉五郎左衛門の収賄の件である。同人がこのほど北町奉行所吟味方与力に白状いたしたところによれば、同人儀はさる天保七年にお救い米掛に任じられたおり、町方御用達仙波屋太郎兵衛ほか二名より挨拶料として反物類を受け取ったのを手はじめに、仙波屋の米の買いつけが遅れるや詫び賃として届けられた金子入りの菓子折をも受納いたしたそうだ。その方、この件をどこまで承知しておる」
「初めて知りました。よくぞ教えて下さった」
定謙が平然と受け流すと、むっとした目つきになった榊原忠義はふたたび紙に目を落としていいつのった。
「そればかりではない。仁杉はおのれの勝手な存念をもって深川佐賀町の又兵衛を仙波屋に引会わせ、この者を手代という名目で越後表へ差し遣わした。追って又兵衛が買いつけた米の代価を為替で持参したときには、なぜか公金で買い上げず、仙波屋に一万両もの立て替えを命ずるという策も弄した。なにゆえかような策を弄したかは、一方で仁杉が廻米問屋のうち本材木町の孫兵衛ら2名に内々に米500俵を買いつけさせて、仙波屋には越後表から廻漕されてきたお救い米をしばらく売り控えさせたことでわかる。仁杉は米相場が上がってから孫兵衛らに500俵を売りに出させて、その見返りに200両を受領したとも白状しておる。すなわち仁杉はまず仙波屋に1万両立て替えさせた分についても米価が上昇に転じてから買い上げ、差額を仙波犀と折半したに違いないのだ」
「その額面はいかほどか」
定謙が榊原忠義の緒顔をひたと見つめて□を挟むと、
「黙って聞かれよ」
忠義が噛みつくように答えたことから、そこまではつかんでいないことが察せられた。忠義は、にわかに早口になってつづけた。
「その後仁杉は、孫兵衛らが正式な町方御用達になることを願って鰹節一箱と具足料として六十五両を差し出すとこれを受け、以後は毎年の盆暮におのれと妾とで祝儀二両二分ずつを受領しつづけたばかリか、大坂へ出張いたす際には饒別として五十両を贈られておる。また仁杉の倅で武州瀬戸村の藤肋方へ家出しておった鹿之助にしても、金に困って孫兵衛から借金を重ねていたことがはっきリいたした」
これまで見ていた紙をここで懐中にもどした榊原忠義は、帯から白扇を抜き取るとその白扇を畳に突いて詰問口調に変わった。
「そこで矢部左近将監に相たずねる。その方、当時は勘定奉行勝手方を務めておった職権により、仙波屋太郎兵衡らからお救い米の買い値と売り値の勘定書を差し出させたそうだな。その結果、今申したところをしかと把握いたしたのか」
「ある程度までは察知いたしたが、確たる証拠をつかまぬうちに西の丸お留守居役をうけたまわったと思われよ」
と答えながら、定謙はようやく榊原忠義の意図を悟っていた。忠義の背後で糸を引いているであろう蝮の耀蔵と水野忠邦は、仁杉五郎左衛門の収賄一件を蒸し返すことにより、なんとしても定謙を町奉行という顕職から追い落とす肚なのである。
たしかに榊原忠義のいうところはかつて定謙が調べたところより具体的で、なによりも仁杉白身の自白したことだという点に説得カがあった。
しかし、勘定奉行勝手方だった定謙は、天保7年の時点で一石につき金5.2両まで急騰していた米価を8年2月には2両まで下げることに成功した立役者であり、その手腕のほどは「お救ひや飢饉の矢部にして米価を安く駿河かんじん」と世に調われたものであった。
もちろん定謙はそんなことを鼻にかける件格ではないが、これらのことなどすっかり忘れたように仁杉の収賄鯉を解決できなかった責任のみ問われては、腹立たしさを禁じ得ない。だがかれは、
「そもそも仁杉五郎左衛門は、勘定奉行たりしそれがしの配下の者だったのではござらぬぞ。南町奉行筒井紀伊守さまの下で働いていた者であることは存じておられよう。その仁杉の不行跡をあらためて咎めだてなさるのであれば、まず紀伊守さまがどこまで調べをすすめておいでだったか確かめてからのことにされよ」
と、居直ろうとしてためらった。
筒井紀伊守政憲は秋風の立ったころ定謙を日本橋の料亭「ますほ」に招き、蝮の耀蔵が佐久間おかねを使ってなにか企てているらしいから注意せよ、と教えてくれた恩人である。自分よリも恩人に聞いていただきたいといった論を構えることを、定謙は潔しとはしなかった。
そこからくる沈黙を、忠義はかれがことばに詰まったものと感じたらしく畳みこんできた。
「その方、申ひらきをするのであれば、つぎの問いにもありていに答えよ。その方は追って南町奉行を拝任いたした以上、早速その時点で仁杉らを厳重に吟味することもできたではないか。しかるにまったくその儀なく、結果として佐久間伝蔵が掘口六左衛門の倅貞五郎を刺殺したばかりか高木平次兵衛にも手傷を負わせて自刃に及ぶという、奉行所内にあるまじき凶箏を防ぎ得なかった。しかも伝蔵は狂死したと申し立てるばかりで、佐久間おかねが夫は仁杉と掘□六左衛門に不正の罪をかぶせられそうになったため犯行に及んだのだ、と申し立てても耳を貨そうとはしなかったではないか。さらに申せば、その方がいち早く仁杉らの不正を糾しておりさえすれば、伝蔵の刃傷沙汰など起こり得べくもなかったのだ」
つづいて榊原忠義は、決定的なことばを投げつけた。
「これすなわち、その方が大事な役職をなおざりにしてまいったということだ。覚えがあろうが」
このことばに定謙はぴくりと右の眉だけを上げ、切れ長の双眸で興奮しきっている忠義の赤ら顔を見据えて低い声をしぼり出した。
「よく聞かれよ。それがしは確かに才薄き身ではござるが、連良く官途につきまして堺奉行、大坂町奉行から今日の町奉行職までを歴任させていただく間に、いつしか御奉公の心構えを一首の歌に託すようになっておりました。拙い歌なれど、それはこのようなものでござる」
榊原忠義の左右に正座している初鹿野信政と遠山泉元をちらりと見やった定謙は、目を閉じるとなおも低い声で誦じた。
違へしと心のみこそ痛まるれ罪をただすも神ならぬ身は
座に静寂が満ちた数呼吸後、ふたたび切れ長の目をひらいた定謙は、忠義に静かにいった。
「これは、公事訴訟に長くたずさわるうちに裁きを誤ったこともあっただろうと考えて作った腰折れでござる。しかしながらそれがしは、不肖の身ではござっても大事なお役目をなおざりにしたことは片時もあり申さぬ。たとえお目付であっても、『覚えがあろうが」などという一方的な決めつけはお控えいただきたく存ずる』
その声音は、抑えられているだけにかえって気迫が感じられる。
「くっ」
と忠義が喉を鳴らしてなにか言い返そうとしたとき、これまで沈黙を守っていた二枚目役者のような顔だちの遠山景元が脇から口を挟んだ。
「いや、これは良い歌を教えていただきましたぞ。奉行職たる者はこうでなければならぬ、と感服つかまつった」
そこで上体を屈めた景元は、忠義の向こう側に座っている初鹿野信政に提案した。
「ところで美濃守さま。仁杉なにがしの一件は筒井紀伊守さまの南町奉行在任中に出来したことでござりますから、紀伊守さまにも当時の事情を問わねばなりますまい。本日の審問は、この辺でよろしいのではござりませんか」
「うむ、そういたそうぞ」
と初鹿野信政が答えたことから、ようやく定謙は帰宅を許された。
しかし、水野忠邦および蝮の耀蔵と結託している榊原忠義は、この程度では定謙の追及を諦めたりはしなかった。筒井政憲も評定所に坪ばれて三手掛の審問を受けたという話しが聞こえてきた翌日の12月20日、忠義はわざわざ南町奉行所にやってくると、使者の間に定謙を呼びつけて居丈高に命じたのである。
「大目付初鹿野美濃守さまよりの御命令である。明21日の四つ刻、大目付さま御用部屋に参上いたすべきもの也。以上」
江戸城本丸表御殿の大目付御用部屋は、町奉行御用部屋からは新御番頭の詰め所を挾んで中の口寄りにある。
「これはなにかある」
と察した定謙が指定の日時に登城して大目付御用部屋を訪ねると、やはりというべきか、鳥居耀蔵も黒紋付の羽織に真麻のかたびらという目付特有の衣装に身をつつんで同席していた。
「矢部左近将監、そこに控えよ。これより上意を申しわたす」
つと立ちあがった初鹿野信政は、すでに小袖の襟のあわせ目にはさんであった大高檀紙の封筒から書面を抜き取って高らかに告げた。
「はっ」
と下座に正座して頭を下げた定謙に、信政は無情につづけた。
「その方儀、職務に適わざる儀これあるにより寄合を命ずるもの也。また、なおも御詮議これあるにより、当分の間、謹慎を命ずるもの也。以上」
寄合とは数人をひとまとめとしたなかに置くということで、これまでの職を奪って非役とするという意味でもある。
「下」
と書かれた上書きを初鹿野信政が掲げるのを頭をあげて食い入るように見つめた定謙は、目の端に映った鳥居耀蔵の鼬に似た顔がにやりとしたのを見逃さなかった。
桑名まで
(一)
寄合に落とされた矢部定謙には、本高である440石のみが与えられることになった。税率は四公六民だから、実際に受け取るのは178石。町奉行は石高3千石の役職、しかもお役金として2千両を使うことができたから、これは大変な減収であった。
町奉行が自分の家臣たちから10人を内与力に指名して奉行所の仕事をさせるのに対し、4百石級の家では若党中間とを3、4人ずつと下男下女あわせて10人程度しか雇う余裕かない。40人に達していた家臣と奉公人のうち30人に暇を出さざるを得なくなった定謙は、お新と相談した結果、その30人にあらたな奉公先を世話することにした。
具体的にはつぎのような書面を諸方に送り、採用あるいは奉公先の周旋を乞うたのである。
「不意に乱筆にて一書を呈する御無礼の段、平に御容赦下されたく候。陳ぶれぱ下拙(小生)儀、このたび申すも愚かなことにより免職のうえ謹慎を命ぜられ、長年当家につかえおりし者らを召し放たざるを得ぬところと相なり候。ついては尊公、幾人かをお抱え下さるか、人を求めておられる家を御教示下されば、まことにかたじけなく存じたてまつり候。お手数ながら御返書賜ればありがたく、この段お頼み申しあげ候。胸中お察し下さるべく候」
中略
松の内まで外出を慎んでいた定謙は、松が取れてからは日が落ちてから黒一色の忍び駕籠に乗り、内藤七郎太・馬場勘斎、松下内匠らを訪ねた。矢部家に中間奉公をしていた者をふくむ元家臣たちを拾ってくれたことに礼をいい、あわせて鶴松の指導をあらためて頼んでおきたかったためである。
どこへ行っても話は定謙が今後どうなるのかということになり、
「さあ、「なおも御詮議これあるにより」と大目付殿は仰せでしたが、今のところはなにもいってきませんな」
と定謙が答えると、決まって話題は妖怪のことに変わった。だれしもが新任の南町奉行を蛇蝎のように忌み嫌っているのは、その口調からもあきらかであった。
定謙が妖怪といわれる男の鼬に似た面構えを思い出し、
「あやつ、そこまでやっておったか」
と思わず吐き捨てたのは、内藤道場に稽古に行った鶴松が七郎太から手紙を託されて帰ってきた月中旬のことだった。内藤七郎太が小伝馬町の牢屋敷で同心をつとめる門人から聞いたところによれ牢屋敷に入れられていた仁杉五郎左衛門はまだ松の内に獄死したという。
仁杉は、天保7年に定謙が勘定奉行勝手方として収賄につき詮議した際には、頑として嫌疑を否定したものであった。ところがかれは、咋年秋にまだ目付だった妖怪の命令によって北町奉行所の吟味方与力に再吟味されるや、町方御用達仙波屋太郎兵衛らから反物、金子入りの菓子折、それとは別の200両などを受け取ったことを認めた。
(仁杉も古株の与力だから、吟味方与力の手口はよく承知している。というのに北町奉行所の吟味方与力は、どうしてそこまで自白させることができたのか)
という点が、定離はこれまで頭に引っ掛っていた。
しかし、吟味方与力が妖怪の命令によって仁杉を石抱き、海老責めなどの仮借なき拷問にかけた、その苦痛に堪えかねて白状に及んだ仁杉は責め傷の癒えぬまま獄死する運命をたどった、と考えれば辻棲があう。しかもこの惟量が正しいとすれば、妖怪は定謙を失脚させるという大目標のためには仁杉を責め殺すこともためらわなかったことになる。
中略
大目付初鹿野信政は昨年12月21日に定謙を寄合に落とすと宣言した時、
「なおも御詮議これあるにより、当分の間、謹慎を命ずるもの也。以上」
と結んだ。「当分の間」とはいつまでのことなのかはっきりしないにせよ、その詮議の納果、矢部家が危殆に瀕するであろうことはもはや掌を指すよりもあきらかであった。
はしなくもこの予感の正しさを裏づけてくれたのは、矢部家の前庭の紅梅白梅が花ひらいていたニ月下旬に投げこまれた投げ文であった。朝一番にこのところひらかれたことのない門のまわりの掃除に出かけた門番が、油紙につつまれて門内にころがっていたのを発見して定謙に届けたのである。
霜におおわれていたことから前夜のうちに投げこまれたらしいその投げ文には、端正な文字でつぎのように書かれていた。
「御壮健にわたられ候や。お気の毒筆舌に尽くしがたく候えども、またも面白からざる動きあり。美の字、主の字は来月再度の三手を画策中、御他行はよろしかるまじ。御存知」
「御存知」というからには、投げ文の主は定謙のよく知っている人物、しかし親族縁者ではないので謹慎中のかれを訪問するには差し障リのある立場にある者、と推察できる。
丹前姿のまま火桶の種火を火箸で掻き起こしてから書院の間でこれを読んだ定謙は、
(三手とは、またおれを三手掛の審問にかけるということだな)
中略
こくりとうなずいた妻にむかってほほえんだ定謙は、またいった。
「だからそなたは、これからなにが起ころうといたずらに哀しみ嘆いたりして醜態を見せてはならぬ。天道是か非か、ということばもあるように、お上のお裁きがつねに正しいとは限らぬものだ。まだ鶴松は十三歳だから、このようなことを申しても腑に落ちぬだろう。いずれもののわかる年になったら、おれがそういっていたと伝えてくれればよい」
後段には、もうこの屋敷には帰ってこられないかも知れない、という意味合いがこめられている。
お新は切れ長な目を愁いに翳らせながらも、
「はい、うけたまわりましてございます」
と、気丈に答えた。
「それでは、これからこのようにしたいのだが」
と、定謙はさらにことばをつづけた。
鶴松の父、松下内匠が肩衣半袴を着用し、若党十名を従えて矢部家へやってきたのは、一夜あけた21日の朝五つ刻(八時)のことであった。
実に3カ月ぶりに門扉がひらかれて一行が請じ入れられると、書院の間へ案内された小柄細面の松下内匠は紋羽織姿で下座に出迎えた定謙に告げた。
「本日、足下に御用の筋これあるにより、それがしが付き添って評定所へまかり出でよとのお達しがござった。されば、これより御同遣いたしたい」
「お役目まことに御苦労に存じます」
淡々と答えた定謙は、阿部公介を呼んで大小と着更えを持ってくるよう命じる。公介が去るのを見計らっていた松下内匠は、にわかに親身な口調になって囁いた。
「ありていに申して、本日の御詮議が一日でおわるとは思われませぬ。すると足下がこの御白宅に帰ってこられるのは早くとも3、4日先のことになりましょう。出頭の刻限は四つ刻(20時)なれば、まだ余裕がござる。しばらく休息されて、奥さまに後事を託されてはいかがかな」
「かたじけない仰せでござりますが、当家のことはすでに荊妻に申し伝えてありますので、あらためて言い残すことはござりません」
そのことばには、鶴松のこともお新に頼んである、という意味がふくまれている。
「少々お待ち下され」
とつづけた定謙は、白分も肩衣半袴に着更えてくるために立ちあがった。
しかし、「本日の御詮議が一日でおわるとは思われませぬ」という松下内匠の読みは、二重の意味で誤っていた。
水野忠邦の意を体した初鹿野信政と榊原忠義に、定謙をより詳しく吟味して真実を究明しようという気はまったくなかった。そのため、このふたりに遠山景元を加えた三手掛の審問は、
「仁杉五郎左衛門の収賄など、取るに足りぬことではござらぬか」
との遠山発言を無視するかたちで進行し、定謙を、血再吟味するというよりもむしろ一方的に断罪する場と化したのである。
おもに榊原忠義が作成した定謙の罪状書は、つぎの四点を柱とするものであった。
1.勘定奉行拝任中、組与力仁杉五郎左衛門、同心堀口六左衛門らが天保7年中にお救い米につき不正を行ったと聞きつけ、内々に取り調べたにもかかわらず、町奉行となってから は厳重なる取調を怠りつづけたこと。
2.同心佐久間伝蔵が堀口六左衛門の倅貞五郎を殺害し、高木平次兵衛にも切りつけて自殺した直後、伝蔵の妻おかねは、夫が仁杉五郎左衛門と堀口六左衛門に不正の罪をかぶされそうになったためこれを恨み、犯行に及んだと申し立てた。にもかかわらず、その後仁杉の吟味を行わず役儀をなおざりにしたこと。
3.そもそも町奉行所の与力・同心たちを支配するのは町奉行の職務であるのに、勘定奉行が町奉行所お救い米掛りの不正を取り調べるのは筋違いもはなはだしいこと。
4.さる12月21日に寄合入りのうえ謹慎を通告された以上、諸事万端慎むべきであるのに、みだりに懇意の者の家へおもむき、あるいはみずから認めたる書状によってこのたびの儀は冤罪であるかのように主張いたし、御政道ならびに諸役人を誹謗いたせしこと。
これらの4項は、いずれも難癖といってよいものばかりであった。
第1項・第3項で言及されているお救い米については、米価抑制をはかるのが勘定奉行の職務であるからこそ、定謙は仁杉らの動きを内々に調査する必要に迫られたのである。
第2項・南町奉行になってから仁杉を吟味しなかったのは、仁杉が収賄常習者であればいずれ馬脚をあらわすと踏んだからで、「役儀をなおざリにした」とは言い掛かりに過ぎない。
第4項、寄合入りのうえ謹慎を通達されたことを「冤罪であるかのように主張」し、「御政道ならびに諸役人を誹謗」したとは、阿部公介が小人目付に読まれた書簡に「下拙儀、このたび申すも愚かなことにより免職」云々とあったことを針小棒大に表現したものとしか思えなかった。
しかし、猪首赭顔の榊原忠義が得々と読みあげたいやに長い罪状書は、末尾近くで第4の論点にもう一度言及し、こう結ばれていた。
このたびの儀は冤罪の体に自書をもって申し遣り、または御政事向き、ならびに諸役人の儀等、品々誹謗せしめ、これまた同意の者をもって所々へ申し触れさせ候段、人心をきょう惑いたさせ候手段に相聞こえ、さらに身分に似合わず、心底不届きの至りに候。これによって松平和之進へお預け仰せつけらるるもの也。
右の通り今日評定所において、大目付初鹿野美濃守殿、町奉行遠山左衛門尉殿、お目付榊原主計頭殿お立ち合い、仰せわたされ、畏みたてまつり候。よって件のごとし。
天保13年3月21日
松平和之進とは、伊勢桑名11万石のまだ九歳の藩主のこと。お預けとは、座敷牢のうちに終身禁錮されるという、意味である。
どうだ、というように榊原忠義は、罪状書を、裏返して文面を定謙に見せた。ついで、下座に正座していたかれの前へ白足袋の爪先を見せてやってくると、評定所留役勘定組頭もすすみ出て筆硯と朱肉を差し出した。
これは、罪状書の末尾に記名捺印せよ、という意昧である。
「その前に、二点ほどうかがいたいことがござる」
定謙が眼裂の深く切れこんでいる双眸を間近から忠義にむけると、短躯の忠義はかれが脇差でも抜くと思ったのか、
「ひっ」
と叫んで上体をのけぞらせた。それが錯覚だとわかった忠義は、
「な、なにが聞きたい。早う申せ」
衣紋を繕いながら先をうながす。
「天保7年当時、南町奉行であった筒井紀伊守さまも昨年師走のうちにこの評定所に呼ばれたと聞き申した。その後、紀伊守さまについてはどのような評決が下ったのかをうけたまわりたい」
定謙が筆硯と朱肉には目もくれずにたずねると、忠義は手短に答えた。
「本日、筒井紀伊守は西の丸留守居を免じられ、差し控えを命じられた」
筒井政憲も責任を問われたわけだが、終身禁錮を宣告された定謙と較べれば天と地ほど相違のある処分に過ぎない。しかし、それをとやかくいう気になれなかった定謙は、つぎに問うた。
「さようか。では、すでに獄死したと聞く仁杉五郎左衛門の遺児たちは、いかが相なりましょうや」
これに忠義は、あっさりと答えた。
「仁杉五郎左街門については、存命ならば死罪、との評決がすでに出ておる。従ってそのせがれ2名のうち1名は八丈島へ、もう1名は三宅島へ遠島となる」
この時代の刑罰は縁座制であり、死罪を命じられた武士の子は遠島に、遠島を命じられた武士の子は追放に処されることに決まっている。定謙の桑名藩預けに縁座して、鶴松にも苛酷な評決が下されることは、もはや聞かずともあきらかであった。
それにしても、仁杉五郎左衛門が収賄をおこなった当時その直属の上官だった筒井政憲が役職を追われただけなのに対し、その後任となった定謙が終身禁鋼を通告されるのは、あまりに釣りあいが取れない。定謙としてはそこを突いて激しく抗弁するという手もないではなかったが、すでにこのことあるを予期していたかれは、その気にはなれなかった。
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