佐藤雅美「立身出世」官僚川路聖謨の生涯      トップ                    

第4章左遷
 川路が小普請奉行に任ぜられてすぐのこと、突如矢部駿河守が町奉行を罷免された。 なぜ? なにゆえ?
 誰もが耳をそばだて、営中ではかしましく噂が流れた。
 噂によると、御改革に協力しなかったからということのようだった。だが、だったら遠山左衛門尉もそうで、矢部駿河守だけがなにゆえと、不審が解けないまま年が暮れ、明けて間もなくだった。矢部駿河守が評定所の審理を受けるらしい、という報が営中をかけめぐった。
 噂は事実で、お掛りは大目付の初鹿野美濃守、町奉行の遠山左衛門尉、御目付の榊原主計頭(かっての町奉行榊原主計頭の係累)に決まった。
 川路の実弟井上新右衛門は、川路や、離縁した妻やすの父市川丈助らの世話で評定所の書物方に採用され、評定所留役助から寺社奉行吟味物調役へと、それほど苦労することもなく、川路とおなじ司法畑を歩んでいた。
新右衛門がこっそりたずねてきてはひそひそささやく。川路も、もとは評定所の留役である。なにかと耳に入ってくる。
大 目付というのは、いまでは飾り物のような役だ。町奉行の遠山左衛門尉は、職掌柄顔を並べているが、我関せずを決め込んでいる。
 審理は、もっぱら御目付の榊原主計頭が、水野越前守殿の指示を仰いであたっている。
矢部の後任の町奉行には、かの、悪名高き、その名を聞いただけで身震いしてしまう、このころ甲斐守を名乗り、耀蔵の甲斐をつづめて"妖怪。と恐れられるようになっていた鳥居甲斐守が任ぜられていて、鳥届も背後で手を籍している。
 榊原主計頭は、矢部駿河守殿を陥れるため、どうもとんでもない事件をほじくりだしている。
 矢継ぎ早にそんな嘩が洩れ聞こえてきたと思ったらすぐだった。矢部に、改易、他家に御預、という重罰がくだされた。理由はというと、これがふざけていた。
 飢鐘のあった6年前の天保7年、町奉行所の市}御救米取扱掛だった仁杉五郎左衛門という与力が、一手に扱っていた米の買上げについて不正を側いた。不正といっても、叩けば挨がでるといった程度の不正で、目をつむればつむれる。目くじらを立てるような不正ではなかった。いや、だから天保13年のこの時点まで見逃されてきた。
榊原はこの"不正"を暴き、吟味中に獄死していた仁杉に「存命ならば死罪」という判決をくだした。
 矢部は、この"不正"とまったく閑わりがない。ただ"不正"がおこなわれていた当時勘定奉
行で、若干の調査をした。その後、西丸留守層という閑職に逐われていたときもまた若干の調査をした。
 榊原は、矢部のこの筋違いの調査を問題にし、あとは、こじつけをこねくりまわし、根拠はまるでいいかげんなのに、矢部に、改易、他家へ御預という重罰を申し渡した。
 もちろん、幕閣の最高実力者水野越前守の了解がなければおこないえないことである。なにかは分からぬが、水野は矢部駿河守と感情的な行きちがいが生じ、冤罪をおっかぶせて重罰を科した……。
 これは容易に推測できることで、謹もが"ひどすぎる"と思った。そして水野に強い不信感を持つにいたった。川路もだ。
 水野には、微妙な感情というものが人格から欠落している。もちろん、人間にとってとても大切な、仁愛とか人情の機微とかも欠落している。さらにいうなら、人間が本来もっている、人間らしいもの、人間くさいものも欠落している。
 このころになると、川路にもそうはっきり見てとれた。だからたとえば、股肱ともたのまなければならない町奉行を、心服させることより、非難することに黙中してしまう。
そしてあろうことか、矢部を奈落の底に叩き落としてしまう。そのことを人がどう思うかという心配りも欠落しているのであるが、このようなことではとても"御改革"などおぽつかない。大事をなすことはできない。
 川路はそう思うようになっていた。
 とはいえ批判する立場にない。いわれたことを忠実に実行するのが役人の本分である。川路はそう思っている。命ぜられるまま仕事に打ち込んでいた。
矢部は伊勢桑名松平家に預けられることになった。
 町奉行が、罷免されてすぐ、罪をかぶせられて他家に預けられるなど例がない。他家に預けられるというのは、永牢を申しつけられるようなもので、この世での望みをすべて断たれるということでもある。
 よほど悔しかったのだろう。きれものと評判をとり、また自身もそう自負していただけに、矢部は絶食して果てる。