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五郎左衛門が登場する部分の抜粋 三田村鳶魚なる、とうに故人になられている市井の歴史学者がいて、「矢部はすこぶる陰の暗い人で、大いに探偵根性が突っ張っている」と書き記したあと、こうつづけている。 「それから、矢部がすっかり探偵好きになってしまって、探偵を盛んに用いて人を排斥したり、立身出世の道具にしたりしたので、えらい騒動を惹き起こすことになった」 矢部は火盗改の時代、陰険な奇策を弄して博突打ちの親分三之助なる者を引っ括ったことがあり、三田村鳶魚が「それから」というのは三之助を引っ括ってからということだが、矢部はその後も「探偵根性」を発揮した。 飢鐘のあった天保七年、町奉行所の御救米取扱掛だった仁杉五郎左衛門という与力が、一手に扱っていた米の買い上げについて不正を働いた。 不正といっても叩けば挨がでるといった程度の不正で、目をつむろうと思えばつむれる。いや、だから、このときまで見過ごされていた。 この不正を「すっかり探偵好きになってしまったL矢部が、勘定奉行時代のことだがこっそり内偵した。西丸留守居に追われた後もだ。仁杉五郎左衛門の下で働いていた、年番下役の堀口六左衛門という同心を抱き込んだうえでだ。 堀口六左衛門の同僚に佐久間伝蔵なる男がいた。 佐久間は堀口と矢部が接触しているのを知った。矢部が仁杉の不正を掴もうとしていることもだ。 その矢部が事もあろうに白分たちの職場南町奉行所に長(奉行)として舞い下りてきた。 佐久間伝蔵は仁杉五郎左衛門の部下で、命ぜられるままあれこれやった。なかには不正もある。 その不正を同僚の堀口六左衛門が、奉行となって舞い下りてきた矢部定謙にあれこれ吹き込んでいるのではないかと気が気でならない。人一倍神経が過敏だったこともあり、ついには堀口が白分のことを矢部に謹言していると思い込み、ノイローゼ気味になって、あの男堀口は生かしておけぬとなった。 二人はともに年番下役。おなじ部屋で働いている、おなじ部屋で働いている。朝一番に出勤して堀口がくるのを待った。堀口はいっかなやってこない。そこへ、見習い、堀口の伜貞五郎がなんの用があってかやってきた。 「きた」 佐久間は父六左衛門と取り違えて伜貞五郎を討ち果たした。そこへ同僚の高木平次兵衛がやってきた。佐久間は錯乱していて、高木にも斬りかかって疵を負わせ、もはやこれまでと柱に寄り掛かり、喉を突いて自害した。矢部が奉行になって二ヵ月後の六月二十九日のことである。 奉行所内での思わぬ不祥事で、奉行として矢部はなんとか片をつけなければならない。そもそも白分がきっかけをつくっている。背景はよく分かる。突き詰めていくと、仁杉の買上米不正の一件までいきつく。ただし、目くじらを立てて暴くような不正ではない。それでも不正は不正だ。処分しないですませるわけにもいかず、仁杉を「御暇、押込」に処するということでけりをつけた。もちろん事件は水野の耳にも入った。矢部がおかしな風に関わっているというのも水野は知った。 矢部を罷免したあと、憤激がおさまらない水野は評定所一座に命じた。 「仁杉五郎左衛門の一件を再審せよ」 一件は三手掛といって、大目付初鹿野美濃守信正、御目付榊原主計頭忠義の立ち会いのとに、いま一人の町奉行遠山景元が扱うことになった。 遠山は事件の背後を調べて仁杉にこう判決をくだした。 「御救米取扱掛は重立ち候身分。にもかかわらず公儀を欺く致し方。右始末不届きにつき死罪」 ただし仁杉は牢死していたから判決文はこうなった。 「存命ならば死罪」 もとよりそれで一件落着とはならない。遠山景元は一件を調べて、もと同役の欠部定謙が微妙に関わっているのを知った。それは、 「町奉行仰せ付けられる以前、支配違いの者どもと申し談じ、穿磐に及び侯段は、筋違いのとりからいに之あり」 ということになる。 その後、矢部は町奉行になった。であれば、過去内偵していたことを暴かねばならない。しかし暴くといまや身内の、南町奉行所内の部下全員から顰蹙を買う。暴けない。それにもともと暴くつもりで内偵したのではない。探貞好きがこうじてのことだ。放っておいた。佐久間伝蔵の刃傷一件も、自身も絡んでいることとて突っ込んで追及できない。穏便にとりはからうようにと指示した。 これらのことはこうなる。 「町奉行仰せ付けられ候以後は、却って取り繕い候とりはからい振りに之あり」 町奉行になってからは、かえってごまかそうとした。それはつまり、 「不審」. しかも矢部は遠山の一度目の取り調べで一切を、 「覚えがござらぬ」 と否定した。遠山は、しからばとあらたに証拠を集めて再度尋問した。矢部は返答に窮して、「相違ござらぬ」 と白状した。以上のことは、 「彼是御後闇敷致し方」 となる。矢部はまた審問中懇意にしている者に、 「このたびの儀は冤罪である」 と手紙を書き送った。また、おこなわれている水野の改革を非難する文書も方々へ書き送った。 これらもまた、 「人心を証惑致させ候手段に相聞え、更に身分に似合わず、心底不届きの至りに候」 ということになる。よって主文はこうなった。 「松平和之進一伊勢桑名の大名、松平定信の曾係一に御預け仰せ付けられ候もの也」 矢部が評定所でそう申渡されたのは罷免されて三ヵ月後の天保十三年三月二十一日。「御預け」は遠島とおなじくらい処分は重い。判決文は「彼是御後闇敷致し方」辺りからは水野が手を入れたようだ。よほど悔しかったのだろう、桑名松平家に預けられた矢部は絶食して果てる。 |