インドネシアで
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インドネシア バリ島の夕日の光景

インドネシアで(1) 「インドネシアで」の目次

(1)「住めば都」、「季節のない国?」、「南国の花」、「南国の果物」、
(2)「インドネシア語」、「ブロモ山」、「庭の草花」、「食事の話」、「新聞」
(3)「女性Caddieの話」、「物書きが好き?」、「西ジャワの海辺で」、「日本の歌」
(4)「選挙戦」、「小さなことにくよくよするな」、「最後の麻雀」、
   「インドネシア最後の日」

インドネシアで(2)
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前書き

大型発電所の建設のプロジェクトで1998年から1999年にかけてインドネシアに滞在中に、
しかも1999年になってから、徒然なるままに書き綴った拙文を整理した。
特にテーマを設定したものではなく、その都度頭に浮かんだことを書き記したに過ぎない。



女性Caddieの話

 インドネシアの数少ない貴重な祝日であったが、ゴルフのために使ってしまった。ゴルフは、日本に帰っても何時でも出来るから、インドネシアにいる内にもっと有意義な時間の使い方を考えたほうがよいとは思いながらも、なかなか実行できない。観光地まで足を延ばす時間も無いし、政情不安のため気楽に何処へでも出かける状況にないこともあるが、ゴルフに関連したことしか情報が無い。

 数年前までは、インドネシアのゴルフ場のほとんどで、Caddieは男性であったが、最近の新設のコースでは若い女性に変ってきている。重いクラブのキャリーバッグを担いでの重労働であったのが、手引きや乗用のカートが発達して女性でも容易になったことも大きな要因であろうが、ゴルフ場側の客寄せ目的もあるように思われる。小生もこの傾向は大歓迎である。男性Caddieのなかにはボールや小道具を抜き取る不逞の輩もいて、気が抜けないことが多かったが、女性に変ってからそのような事も無くなり、雰囲気も何となく和らいできたように思う。

 小生が通っているスラバヤ郊外のコースでもCaddieは全員女性である。Caddieの年齢は20−28歳位がほとんどで、既婚者が半数以上を占めているようだ。この国では、女性が実によく働く。男性よりも、むしろ女性のほうがよく働くと言っても過言ではない。小生の現場事務所で、事務職として採用している女性の多くが既婚者であり、また最近結婚した女性の全員が結婚後もそのまま働き続けている。企業のトップは別として、多くの職場で男性よりも女性が重要な役割を担っている例は数多く見られる。

 この国では、一般的に結婚年齢も低く、Caddieの多くが既に子持ちで、一家の家計を担っていると思われる。そのため、仕事振りも真面目で手抜きがなく、馴染みの客の好みも心得てまめに働く。グリーン場のラインも一生懸命勉強しており、日本のCaddieの場合よりも頼りになることも多い。

 何よりも、若い女性Caddieと一日中一緒にコースを廻るというだけでも、楽しめるものがある。小生が毎週通ってゴルフ場でも、多くの客が(Caddieに左右されることはない、と言いながらも)それぞれ好みのCaddieを指名し、馴染みとなっている傾向が見られる。一日に2ラウンドも廻れば、約10時間も行動を共にすることになるから、出来れば好みのCaddieであって欲しいのが人情であろう。小生も大体同じCaddieを指名していて、あまり変えることはない。時折気分転換に指名を変えると、指名された本人が「どうして、あの子でなくて私なの」と言われるくらい周囲に知れ渡ってしまったようだ。

 小生は、この10時間をもっぱらインドネシア語の勉強に使っている。ほとんどのCaddieが英語は全く話せないないから、こちらがインドネシア語を話さないと会話が続かない。メモ帖なしでしかもインドネシア語以外は全く駄目な相手との勉強のため、非効率でなかなか成果が出ないが、この10時間は貴重である。少しでも英語の単語を理解するCaddieを探し出せれば、もっと効果的とは思うがなかなか巡り会えないものである。
                
<1999年3月18日記>

もの書きが好き?


 この2ヶ月余り夕食後は殆どの時間を「もの書き」につかった。

 何故これほどまでに熱中したのか、自分でも容易に説明できない。本来メモ好きであり、小さな手帳に隙間無く種々の情報を書き込む習慣はあって、何年分かの記録が残されている。ただし、後で読みかえしたという記憶は少ない。読みかえす気を誘うほど綺麗に整理されていないというのが、その原因であろう。パソコン入力と言う手段を用いれば、整理も、後で検索するのも容易であること、書き直し書き足しも苦にならないことなど、書くと言う欲望を簡単に満たしてくれる条件が揃ったので、今まで溜まっていたものが一気に噴出したというようなことかも知れない。そういう気分である。

 家系的に、「もの書き」が好きな者が揃っているということもありそうだ。

 父は忙しい仕事の合間に、懸賞論文の募集があると寝る間も惜しんでチャレンジしていた記憶がある。それで、入賞を果したことがあるかどうかは定かでないが、ひたむきな父の姿に尊敬の念を抱いた幼少の頃の思い出はいまでも鮮明に残っている。最後の仕事として「町長」を3期12年間努めて現役を退いた後、町の「園芸史」を自費出版して国会図書館にも収蔵されているということを多少得意げに話していた父の姿も今はもう遠い昔となってしまったが。

 教職にありながら「郷土史家」として、ひとかどの名を馳せていたオジ(父の兄)もかなりの記録魔であったようだし、教職を退いた後も県立図書館の顧問を勤めるなど、ものを書くことに携わっていた。

 小生の妹は、「編集人」、「代筆業」、「出版代行業」らしい(いづれが正しいか、小生が正確な仕事の内容をよく理解していない)仕事を自営しており、「もの書き」専門であることは間違いない事実である。

 何はともあれ、「書く」ことで頭の中で雑然としていた考えが整理されるという利点が一番大きいように思う。あれこれ迷っていた考えを一つに収束させることが容易なのである。文字にしたことで、自分にも納得させ易いという思いもある。とくに、高齢になってきて「ものわすれ」現象が心配される年になれば、事故防衛の意味合いも出てこよう。
              <1999年4月12日記>

西ジャワの海辺で

凡そ2年ぶりに、西ジャワのチレゴン地区の海辺のリゾートホテル(Marina Hotel)に宿泊した。CAPCのエチレンプラントの建設がピークの頃には足繁く通った場 所で、懐かしさが蘇った。

 昔、ここへ宿泊した時は、夜に到着し朝早く出かけるという生活の繰り返しで、ゆっくりとここの良さをあじわうことも少なかったので、昨夜到着時と今朝も海辺を散歩した。海に近いといいながらもパイトンの宿舎では、決して味わえないリゾート雰囲気を十分に堪能できた気分である。

 椰子の林の中に点在するバンロー風の家の前に海が広がる長閑なリゾートホテルで、ホテル敷地内には大型のクルーザーが停泊するマリーナもあり釣りに対する憧れがまた頭を持ち上げてくるが、それよりも小生の気を引いたのは地元漁民の2人乗り位の小型カヌーである。雑誌の写真でよく目にする、丸太を繰りぬいただけの船に転倒防止のサイドをつけた簡素な造りのものである。小笠原諸島でも使われているようだが、南太平洋の島々でよく使われているものをもっと小型化したものである。パイトンの海辺でも見かけるが、ここでは数10艘が一同に集められており、圧巻である。このような小船に揺られて釣りをするのが長年の夢であったが、果して実現する日が来るか。

 インドネシアの治安が改善されれば、ここも老後を楽しむ格好の場所の一つであることに間違いないのだが。今は多くの場所を見て、多くの情報を入手しておくことである。
            <1999年4月23日記>

日本の歌

 今年(1999年)1月19日のNHK 歌謡コンサートは、「夫婦(めおと)演歌」と題して夫婦間の情をテーマにした歌を取り上げて放映された。共通点がなく、かなり矛盾があると思われるが、小生は元来、「演歌」と「ディスコ調ダンスミュージック」が好きであり、興味を持って耳を傾けた。そのなかで、大津美子の「ここに幸あり」も大津本人によって歌われ、実に、約25年前に香港のダンスホールで中国語(香港の歌手)で歌われているにを聞いて以来の懐かしい歌声に感動した。

 日本にいる時に、歌謡番組を観ることは全然ないわけではないが、殆どないといってよい。シェラトンホテルのディナーショウには時折出かけたが、自らチケットを買い求めたわけではなく、年に2回ほど招待状を頂いたからである。日本を離れて外国で暮す時間が長くなると、つい日本の歌も懐かしく感じられ、NHKの国際放送で「二人のビッグショウ」も欠かさず観るようになってしまった。日本語恋しさでというほど、仕事場でも宿舎でも日本語から遠ざかっている訳でもない。ただ他に観るべきものも少ないという単純な理由が一番かも知れない。

 週末に片道2時間半かけて通うゴルフ場までの車中は小生のコンサートホールである。自分で日本から持ち込んだテープ、誰が残したか不明のテープを交えて約8割が日本歌謡である。毎週末の往復5時間繰り返し、イヤというほどに聞く羽目になった。テレサテン、谷村新司、堀内孝雄、五輪真弓など数少ないテープを数十回も聞いていると、感動も薄れるというものだ。それでも他に代替がないので、毎回この繰り返しである。
                  
<1999年4月13日>



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