□「平成27(2015)年ブログ」NO.1  平成27年1月1日〜3月31日   ♪BGM 
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  • ■「新しい畑を開墾」
    平成27年3月26日
    「新しい畑を開墾」
     今年で6年目(6回目)となる借用している畑の更新手続きを2月8日に済ませた。30uのこじんまりとした畑だが、この5年間友人の"松ちゃん"と晴耕雨読を気取るには適した広さだった。...続きを読む
  • ■「シスター中村寛子の講演を聴く」
    平成27年3月21日
    「シスター中村寛子の講演を聴く」
     国連WFP応援団の勉強会を兼ねた連続講演会が企画されている。その第1回の開催に「シスター中村寛子」さんをお招きして「コンゴ民主共和国 貧困、飢え、病気との闘いの中で」と題した講演を頂いた。...続きを読む
  • ■「八・八会というOB会」
    平成27年3月6日
    「八・八会というOB会」
     二月の上旬に会社OBのさる先輩から「八八会例会」なるものの案内状が届いた。趣旨によれば、本会では会員が順次米寿に達した時、皆でお祝いする、となっており、今年は3月6日に開催されることになっていた。...続きを読む
  • ■「ご隠居の三浦海岸散策」
    平成27年3月5日
    「ご隠居の三浦海岸散策」
     ご近所のお仲間「ご隠居(グループ名)」からレクレーションの案内が2月下旬に届いた。三浦の河津桜を愛で、三崎下町を散策しマグロの食事をするという計画になっており、...続きを読む
  • ■「わが友の入院」
    平成27年2月21日
    「わが友の入院」
     わが友”松ちゃん”との付き合いは古くなった。だからお互いの健康状況についは、赤ちょうちんで杯を挙げた瞬間に分かるようにまでなっている。...続きを読む
  • ■「ホイッスラー展」
    平成27年2月14日
    「ホイッスラー展」
     横浜市民ギャラリーあざみ野のお声掛りを受け、お仲間たちと横浜美術館で開催中の「ホイッスラー展」を観に行った。担当学芸員から事前のレクチュアーで、この芸術家のことを初めて知った。...続きを読む
  • ■「火宅の人」を読む
    平成27年2月10日
    「火宅の人」を読む
     随分前に有名(偉大)な作家が父である女優の檀ふみさんと、エッセイストでタレントの阿川佐和子さんが対談した記事を何かで読んだ記憶がある。親子の関係を譬(たと)える慣用表現に「鳶が鷹を生む」や「蛙の子は蛙」とか「親子鷹」といった表現があり、どちらかが著名、有名になると、その関係を穿(うが)つ下世話な話が創られる。...続きを読む
  • ■「久々のラグビー観戦」
    平成27年2月8日
    「久々のラグビー観戦」
     今シーズン(2014年度)は、諸事が重なりラグビー観戦にはほとんど行けなかったが、昨年8月23日の対クボタ戦に好きなお仲間と秩父宮に出かけたのが今シーズン唯一の観戦であった。...続きを読む
  • ■「田村緑のピアノコンサートを聴く」
    平成27年2月1日
    「田村緑のピアノコンサートを聴く」
     横浜市民ギャラリー「あざみ野」主催による「田村緑のピアノコンサート」に出かけたが、会場に入って失敗したことに気付いた。...続きを読む
  • ■「今年最初の国連WFP活動」
    平成27年1月17日
    「今年最初の国連WFP活動」
     この日、神奈川新聞社主催の「神奈川新聞ちびっこ駅伝大会」が日産スタジアムで開催された。小学生の駅伝大会で、参加費の一がWFPに寄付されることになっているが、会場に募金コーナを設置して、来場者に国連WFPの活動を訴え、募金活動を行うことでWFP活動へのご理解と効果を高めようと企画されたものである。...続きを読む
  • ■「新しい年を迎えて」
    平成27年1月1日
    「新しい年を迎えて」
     昨年は、新しいボランティアに挑戦するなど、あれやこれやに手を広げ過ぎ、結局「二兎を追う者は一兎をも得ず」を地でいって しまった。やる事なす事、何もかもがちぐはぐ・中途半端になってしまい出るのは愚痴ばかり。惨めな気持ちを存分に味わわされた1年となった。...続きを読む

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  • ■ 「新しい畑を開墾」
    平成27年3月26日
  • 「荒畑を前に絶句」
    「荒畑を前に絶句」
     今年で6年目(6回目)となる借用している畑の更新手続きを2月8日に済ませた。30uのこじんまりとした畑だが、この5年間友人の"松ちゃん"と晴耕雨読を気取るには適した広さだった。もっとも我ら二人の信条は、どちらかといえば晴飲雨飲に傾いているので、この程度の広さでも持て余し気味だったのだが・・・。

     ところが今年の更新時に、「もう1枚借りてくれないか」と世話人から強引に頼まれ、やむなくお引き受けすることした。近年、畑に精を出していたお仲間が高齢になり契約を解約するものが続出したらしく、このまま放置すれば、我々町内に優先して貸し出しをしてくれているのを止めにして、数多いる新たな借り手に契約替えするとのことであった。そうなれば、折角晴耕雨読に馴染んできた生活が破壊されてしまいかねず、無為の生活に舞い戻らなければならない侘しさに耐えかねないと思い、後先も考えずに引き受けてしまったのだ。

     現地で引き渡しを受けた畑を見て、あまりの荒れように二の句が継げられず絶句。荒畑を開墾しなければならないのなら、無為の生活を甘受しても良かったのではないか・・・。そんな思いがよぎったが、「本格的な晴耕雨読を極めたわけでもなく、中途半端にしか取り組んで来なかった俄か農夫への、農神(ノウガミ)様からの痛烈な試練なのかもしれない」との、"松ちゃん"のつぶやきに、今年1年心して農業に精を出し、文字通り晴耕雨読に邁進していく決意を新たにした。



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  • ■ 「シスター中村寛子の講演を聴く」
    平成27年3月21日
  • 「シスター中村寛子の講演を聴く」
    「シスター中村寛子の講演を聴く」

     国連WFP応援団の勉強会を兼ねた連続講演会が企画されている。その第1回の開催に「シスター中村寛子」さんをお招きして「コンゴ民主共和国 貧困、飢え、病気との闘いの中で」と題した講演を頂いた。

     プロフィールにもあるように、1978年にアンゴラに派遣されたのを振り出しに、コンゴなどアフリカに長く滞在して内戦等で被害の直撃を受ける一番弱い立場にある幼児、女子に寄り添い自立支援に生死をかけながら活動されてきたことを淡々と語られた。反政府軍に捕らえられたこともあったようだが、悲惨な目に遭遇している多くの子供たちのために、その恐怖を乗り越え、信念を貫き通してきた利他の崇高な精神に敬畏の念を禁じえなかった。

     キリスト教に帰依した方の真の人類愛の拘りを垣間見た気がし、心が洗われる思いがした。貧困、飢え、病気で悲惨な目に合っている被災・避難民への人道支援はこれからも続けていかなければならないのだろうが、確固たる利他の精神を忘れはならない。そんなことを改めて気づかせてくれたシスターに敬意を表したい。



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  • ■ 「八・八会というOB会」
    平成27年3月6日
  • 「八・八会というOB会」
    「八・八会というOB会」
     二月の上旬に会社OBのさる先輩から「八八会例会」なるものの案内状が届いた。趣旨によれば、本会では会員が順次米寿に達した時、皆でお祝いする、となっており、今年は3月6日に開催されることになっていた。会社のOB会員の年齢幅は60歳から90歳近くまでと広がっているが、この例会の会員は70歳からとなっているようで、70歳に到達したものに新規会員として迎え入れる為の趣意付の案内状が届く。

     趣旨に賛同するも何も、昔ご指導を頂いた先輩方が米寿に達することは誠におめでたく、一後輩として米寿を寿(ことほ)げる機会を与えて頂けたことを嬉しく思った。今年は「八八」に達した方は2名。小生達新人会員2名を含む24人の会員が集った中、会長(当日参加の最長齢者)から、お祝いのお言葉とお品を差し上げ、特別の決まりも制約もない本会の趣旨 "元気なお顔を見ながら放談するだけ”に則り、例会は進められていった。

     本来は、米寿の「八八」に鑑み、8月8日に開催することになっていたようだが、年齢を勘案し日中に例会を開催するには、酷暑の8月は会員にとって厳し過ぎたので、途中から3月に前倒し、今年で11回目を迎えたとのことである。昔は口を利くのも恐れ多かった先輩会員からお声をかけられ緊張感がいや増したが、それ以上に、会社が一家(家族)であった時代に籍を置いていた者には、口も利けない兄達が時々垣間見せていた弟をいじる特別な愛情の表現が思い出され、一家の親愛感もいや増しに増していった。

     会社が一家であったことを、いいとか悪いとか云う積りはないが、我が国を世界有数の大国にしていった原動力であったことは否定はできないであろう。日本文化の象徴とも言われていた。ややもすれば経済優先だったと揶揄されるが、今日では、平和でどこよりも住みやすい国(パラダイス)になったことを、外国の方々が指摘している。先輩方の矜持はまさにそこにあるのだろう。特別の決まりも制約もない趣旨に則り、これからも 本会は"元気なお顔を見ながら放談するだけ”を継続し、先輩方の矜持を語り繋いでいかなければならない。と、思った。



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  • ■ 「ご隠居の三浦海岸散策」
    平成27年3月5日
  • 「ご隠居の三浦海岸散策」
    「ご隠居の三浦海岸散策」
     ご近所のお仲間「ご隠居(グループ名)」からレクレーションの案内が2月下旬に届いた。三浦の河津桜を愛で、三崎下町を散策しマグロの食事をするという計画になっており、いつもながら、年金生活者のご隠居達に、健康促進や経済的支弁に配慮されたものになっていた。

     当日は、たまたまその日が空いていた(最近の隠居達は忙しいらしい)6人が参加し、3月5日に出かけた。 好天にも恵まれ、三浦海岸の小松が池公園の河津桜は今が盛りと満開で我々を迎えてくれた。ピンクの濃い桜から元気を頂いたようで、染井桜の花見に比べ大分早い花見だったが大いに満喫した。それにしても木曜日でありながら何と人出の多いことかと感心しきりだったが、よくよく見れば老人ばかり。彼らを見るたびに彼らの仲間には入っていないとの自負心がもたげ、まだどこか遠い存在の方々と決めつけていたが、思いつく行動がここまで合致していると、この自負心が脆くも崩れ落ちてくる。

     年には抗えないのだから素直に受け入れなければならないのだ、と言い聞かせつつ三崎口を回ったのだが、三崎港での昼食では、老人がこんなに飲み食いするのかといった健啖ぶりを発揮し、お店の人を驚かせてしまった。自負心が崩れ落ちつつある心理の裏返しの行動なのだろう。まだまだ素直にはなれていないお仲間とともに、三崎下町を散策し帰途についた。

     もちろん、恒例となっている反省会を、地元の蕎麦屋に戻って延々と繰り広げたことは言うまでもない。 老化の受け入れを拒否するお仲間とのレクレーションはまだ緒に就いたばかり、これからも全国を駆けずり回りながら、裏返しの行動を続けていくに違いない。

  • 「三崎港での昼食」
    「三崎港での昼食」
     自負心が崩れ落ちつつある心理の裏返しの行動を象徴する三崎港での昼食。

  • 「三崎下町を散策」
    「三崎下町海南神社に参詣」
     まだまだ素直にはなれていないお仲間とともに、三崎下町を散策し帰途についた。



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  • ■ 「わが友の入院」
    平成27年2月21日
  • 「わが友の入院」
    「わが友の入院」
     わが友”松ちゃん”との付き合いは古くなった。だからお互いの健康状況についは、赤ちょうちんで杯を挙げた瞬間に分かるようにまでなっている。2年ほど前から病巣が悪化し始めたらしく椅子の座り方、歩き方にその兆候が見えた。小生も42歳の時手術を受け、完治するまでその辛さを経験したことがあるので、飲む度に早く切るべし、とお節介を焼いてきたのだ。

     ところが、切った張ったにはなかなか踏ん切りがつかないのが常で(小生の場合もそうであった)、小生のお節介は馬耳東風、少しも聞いてはもらえなかったようだった。それで、小生の決断(踏ん切り)が、「悪化して「人工の出口」になってもいいのか?」という、さるお節介屋の一言だったことを思い出し、このことをそっくりそのまま彼に伝え、究極のお節介を焼き上げた。

     「人工出口」のお節介が効いたのか、それとも、もう耐えることに限界を感じたのか、彼は手術を受ける決断をしこの日入院した。小生のとは異なる種類で、治療方法も異なり入院期間が少し長くなるようだが、今までの痛・辛さから完全に解放される訳だから少々の我慢は甘受しなければならない。その間、小生は彼と飲めなくなるのでその我慢を今日から覚悟しなければならないのだ。

     日本人成年男子の7割が罹患している、いわば国民病のようなものと言われている。今では生活様式が様変わりしてきているので罹患者は減少しているのかもしれないが、早めに治療することがどれだけ楽になることかを、経験者の一人として彼の入院を切っ掛けに申し上げておきたいと思った次第である。



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  • ■ 「ホイッスラー展」
    平成27年2月14日
  • 「ホイッスラー展」:絵画はパンフレットから引用
    「ホイッスラー展」
     横浜市民ギャラリーあざみ野のお声掛りを受け、お仲間たちと横浜美術館で開催中の「ホイッスラー展」を観に行った。担当学芸員から事前のレクチュアーで、この芸術家のことを初めて知った。解説と案内パンフによれば "画家ジェームス・マクニール・ホイッスラーは、アメリカ・マサチューセッツに生まれ、21歳で画家を目指してパリに渡った。画面における色と形の調和による視覚的な喜びを目指す「唯美主義」を主導した"、と。そしてさらに彼は、日本の浮世絵や工芸品からインスピレーションを得たジャポニズムの画家としても知られているとのことであった。

     展示された130点の絵画を見て、特に「白のシンフォニー」No2(小さなホワイト・ガール)、No3(パンフ表題の絵:白のシンフォニーと画家自身が名称をつけたのは本作が初めてとのこと)は、白が際立つ何とも清楚な絵で、思わず画面に引き込まれてしまった。これが唯美というものなのか、唯美が人の心を打つ魅力に陶酔した。

     これらの絵の中に団扇が描かれている、さらに「紫とバラ色」や「ノクターン:青と金色−オールド・バターシー・ブリッジ」等々の作品の背景に、日本の浮世絵の雰囲気が見える。ジャポニズムから影響を受けた一面を垣間見た気がした。彼だけではなく、近世ヨーロッパで浮世絵に影響を受けた著名な画家が幾人もいたことを思い出し、日本の美術の奥深さを改めて感じさせられた。

     絵画展を見るようになって、ヨーロッパの巨匠が日本の美術から学んでいたことを知り、その視点から「マネ」や「ゴッホ」の作品を改めてじっくりと鑑賞したいと思うようになった。縁遠かった巨匠がとても身近に感じられるに違いない。堪能した本日の展覧会を振り返りそう思った。

  • 「ホイッスラー展」:絵画はパンフレットから引用
    「ホイッスラー展」

     「紫とバラ色」や「ノクターン:青と金色−オールド・バターシー・ブリッジ」等々の作品の背景に、日本の浮世絵の雰囲気が見え、ジャポニズムから影響を受けた一面を垣間見た気がした。

    「ホイッスラー展」


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  • ■ 「火宅の人」を読む
    平成27年2月10日
  • 「火宅の人」を読む
    「火宅の人」を読む
     随分前に有名(偉大)な作家が父である女優の檀ふみさんと、エッセイストでタレントの阿川佐和子さんが対談した記事を何かで読んだ記憶がある。親子の関係を譬(たと)える慣用表現に「鳶が鷹を生む」や「蛙の子は蛙」とか「親子鷹」といった表現があり、どちらかが著名、有名になると、その関係を穿(うが)つ下世話な話が創られる。さしずめ、彼らの関係は「親子(父娘)鷹」であろう。誰もがそう思っているに違いない。

     他人様のことだからどうでもいい話なのだが、両人とも、理知的で聡明、清楚でありファンとして惹きつけられてやまない上に、偉大な父上殿との葛藤が基調となった対談だったので、父上であるこの作家たちに特別な興味をもった。

     阿川さんの場合は親子であることを知る前に、阿川弘之氏の本を何冊か読んでいたので、作家の印象が既に出来上がっていた。とても厳しい父君であったらしいことは想像できたし、偉大な親を持つ子供の葛藤も想像できたが、「親子(父娘)鷹」の印象は外れていないと思う。だが、彼女の抜きんでた軽妙洒脱さの部分は、「鳶が鷹を生んだ」のかもしれない。

     一方で、檀さんの場合は、その対談まで父君のことを知らなかった。その時、著名な作家 檀一雄であることを知ったが、氏の本を1冊も読んでおらず、印象の持ちようもなかった。ファンとしては、「親子(父娘)鷹」を納得いたしたく、以前から気にしていた「火宅の人」を手に取ったのだ。

     この本は作家自身の体験が材料になっているようで、私小説の印象を受ける。だから、読んでみて主人公(作家自身)のあまりの破天荒な生き方に凡人の思考は停滞。この作家から、どうして、あの清楚な女優が育ったのか? 読後直後の素直な感想だった。

     「火宅」とは、仏教説話の用語で、苦しみと煩悩に満ちた現世を、燃え盛る家に例えた語となっている。ウイキペディアによれば 「燃え盛る家のように危うさと苦悩に包まれつつも、少しも気づかずに遊びにのめりこんでいる状態」を指す、ということである。 小説家として一家(病弱な息子のほかに4人の子供を持つ)を構えながら、女優を愛人にして放浪を続ける。のが筋書きになっている。まさに「火宅の人」であるが、なぜそのような人生を選んだのか。著名な作家による喧しい解説に納得するしかないが、女優の父上殿に対する葛藤は理解できる気がした。

     下世話な話に突っ込み過ぎてしまったが、彼女の1ファンとして、まだまだ父上殿の本を読まなければならなくなってしまった。読み込むうちに「親子(父娘)鷹」が鮮明に見えてくるに違いないと思うからだ。「火宅の人」がそれを暗示している気がする。この本は、そんなことを思い巡らせる1冊となった。お暇があれば、是非お読みいただくことをお勧めしたい。



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  • ■ 「久々のラグビー観戦」
    平成27年2月8日
  • 「久々のラグビー観戦」
    「久々のラグビー観戦」
     今シーズン(2014年度)は、諸事が重なりラグビー観戦にはほとんど行けなかったが、昨年8月23日の対クボタ戦に好きなお仲間と秩父宮に出かけたのが今シーズン唯一の観戦であった。掲載のスナップはその時の模様である。この日は24対3で快勝した。久々の応援と勝利の美酒に酔いつぶれ「この調子でいけば今シーズンはトップ4入りも夢ではない!」、と妄想まみれの快哉を叫んだことを思い出す。

     それなのに、今シーズンは負けが込み、妄想まみれの快哉者には不機嫌な日々となっていたが、日本選手権には出場できるとの朗報を受け、今シーズンの鬱憤を晴らすには絶好のチャンスが到来したと心が躍った。そして本日その大事な第一戦の相手が、学生チャンピオンの帝京大学となれば、何を置いても応援に参上しなければ申し開きはできまい。いやがうえにもボルテージは高まった。

     現役のT君からのお声がかりもあり、いつものお仲間3人と合流し、種々(くさぐさ)の応援グッズ(巷では酒類と呼称しているらしい)をしこたま用意し、秩父宮の杜に出かけたのだが、あいにくの雨模様で一瞬不吉な思いがよぎった。雨を避け、いつもは決して入らない南側の屋根付きの席に陣取り応援にかかったが、周りは判官びいきのファンが多く、学生応援の一団に取り囲まれ落ち着きを無くしていった。応援が冷え込み、アルコールを流し込んでも追いつかずオロオロと狼狽を呈していった。

     それはここ数年、日本選手権でトップリーガーは学生には負けていないので、勝利を信じてはいたものの、試合の流れは前半の後半から明らかに学生の方に傾き、一々周りの応援やヤジが気になって余裕がなくなっていたからかもしれない。それでも前半は17対17に持込み、トップリーガーとしての誇りを垣間見せていた。異様な判官びいきを気にせず、平常心で行けば当然勝てるであろう。垣間見せた誇りにそのように信じさせられ、雨が小降りになったのを機に、いつもの応援席に場所を変え、応援グッズをフル活用し、後半の応援に備えたのである。

     ところが何と、学生さんの勢いはやまず、気が付けば25対31と敗退してしまったのだ。大事な一戦を完全に抑えられ、学生には無理と思わせていたトップりーグのチームが、数十年ぶりにやられてしまったショックは応援団が一番堪(こた)えたように思う。久々のラグビー観戦で思いもしないショックに見舞われたが、帝京大学の強さが我がチームを上回っていたことを素直に受け入れなければならない。彼らの強さに脱帽、敬意を表するしかない。日本一になる日も遠くはないだろう。時代の変わり目なのかもしれない。

     我がチームもよく健闘したと思う。前半はやたらと反則を取られた。贔屓目で見れば判官びいき、と言いたいところだが、相手チームとの実力の違いがそうさせるのであろう。反則を取られなかったらと悔やまれるが、その前に実力を付けることなのであろう。 贔屓チームの選手たちだからこそ苦言も呈しておきたい。そして近いうちに日本一になることを誓って欲しいと思う。

     やられたショックは大きいが、ノーサイドになったグランドに立つ選手達を見て、今日も、それ以上にラグビーから多くの感動を得たことに感謝の気持ちを捧げたい。来シーズンは可能な限り応援に駆け付けることを書き添え、久々のラグビー観戦記とする。



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  • ■ 「田村緑のピアノコンサート」
    平成27年2月1日
  • 「田村緑のピアノコンサート」:写真等はパンフレットから引用
    「田村緑のピアノコンサート」
     横浜市民ギャラリー「あざみ野」主催による「田村緑のピアノコンサート」に出かけたが、会場に入って失敗したことに気付いた。観客はお母さんと子どもばかり。てっきり通常のコンサートとばかり思っていたのだが、案内には「親子で楽しむ」とあり、子どもさんを対象としたワークショップを兼ねたコンサートだったのを見間違えてしまったのだ。

     恥ずかしい気持ちを抑えながら、田村さんが開始直前まで舞台中央で弾き続けるあの聞き慣れた「プロムナード」の曲に曳かれ、会場の隅で開演を待った。当日のプログラムは、第一部:本コンサートメインの組曲「展覧会の絵」の解説、第二部:「ピアノの秘密」(ピアノをばらしてピアノの秘密を知る)、第三部:「展覧会の絵」のコンサートで構成されていた。

     子供さんとはいっても、音楽に素養のある子(ピアノやその他の楽器を習っている?)ばかりらしく、全くの素人は小生だけのようで、針の筵に座らされた気がしたが、解説がとても分かりやすく目から鱗が落ちた気がした。舞台中央でばらしたピアノに触れながらその機能の秘密を知らされたことや、「展覧会の絵」の成り立ち・構成の解説に、時代背景や作家の心情が透けて見える気がしとても興味をひかれた。本企画は、子どもたちよりむしろ小生向きだったともいえる。

     そして何といっても圧巻は、彼女の独奏する組曲「展覧会の絵」であった。30分を超える熱演に至福の感動を覚え、子供らに負けじと大きな拍手を送り感謝の気持ちを伝えた。これからも、あえて見間違い・勘違いしてでもこのような機会は失したくないと思った。

    ****************************************************************************
    □「田村緑(ピアノ)さんのプロフィール」
    ---横浜市民ギャラリー「あざみ野」の紹介パンフより---

     桐朋女子高校音楽科卒業、英国ギルドホール音楽院主席
     卒業、シティ大学院修了。特別研究員としてギルドホール
     音楽院に勤務。インターカレッジ・ベートーヴェン・
     ピアノコンクール第一位他受賞。BBCテレビ・ラジオ
     出演、ヨーロッパ国内外で演奏活動を行う。帰国後、
     その躍動感に満ち、情感あふれる演奏スタイルと、
     独創的プログラムが注目され、全国各地で活動を行う。
     (財)地域創造協力アーティスト。
     田村さんの公式サイトはここから入れます。

    □組曲『展覧会の絵』とは
     作曲家ムソルグスキーが、友人であったヴィクトル・ハルトマンの遺した絵の10枚の作品にそれぞれから受けた印象を音楽に仕上げたものであり、それらを、おなじみの単曲「プロムナード」で繋ぎ、組曲としたものとのこと。

      モデスト・ムソルグスキー  組曲「展覧会の絵」
       〇プロムナード
       〇グノーム(こびと)
       〇プロムナード
       〇古城
       〇プロムナード
       〇テユイルリーの庭(遊びの後の子供のけんか)
       〇ビドロ(牛車)
       〇プロムナード
       〇卵の殻をつけた雛の踊り
       〇サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ
       〇プロムナード
       〇リモージュの市場(新しい大事件)
       〇カタコンベ(ローマの墓)
       〇死者とともに死者の言葉をもって
       〇鶏の足の上の小屋(バーバ=ヤガー)
       〇キエフの大門

    ■おすすめ
    本、組曲「展覧会の絵」が著名なアーティストたちによって演奏されているのがYoutubeで鑑賞できます。是非是非お暇な折に鑑賞してみてください。
    「展覧会の絵」の観賞は ここから入れます。



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  • ■ 「今年最初の国連WFP活動」
    平成27年1月17日
  • 「今年最初の国連WFP活動」
    「今年最初の国連WFP活動」
     この日、神奈川新聞社主催の「神奈川新聞ちびっこ駅伝大会」が日産スタジアムで開催された。小学生の駅伝大会で、参加費の一部がWFPに寄付されることになっているが、会場に募金コーナを設置して、来場者に国連WFPの活動を訴え、募金活動を行うことでWFP活動へのご理解と効果を高めようと企画されたものである。

     ボランティア3人、職員2人で朝9時から16:30までスタジアム・バックヤードの片隅に設置されたブースで、活動に専念した。天気には恵まれ陽だまりは暖かかったが、風が吹き抜けるバックヤードはとても寒く、ガチガチ震えの活動になった。朝方は声を上げても、ブースに来場してくれる方は少なく、意気も上がらなかったが、プログラムが進むうち小さな(小学低学年)来場者が来るようになり、当方の話を熱心に聞いてくれ、小銭入れからいくばくかの金銭を募金箱に投入してくれるようになった。
     このような行動に弾みがつき当方の意気も上がるなか、募金箱には小銭が貯まっていった。何よりもうれしかったことは、小さな訪問者が、この活動に理解を示し、なけなしの小銭を入れてくれたことだ。そして、一言「頑張ってください」と声をかけられたときにボランティア冥利に尽きた思いがした。

     今年は、新年から小さな天使たちから励ましを受けた。善い運に恵まれはじめた印かもしれない、愚直にいくしかないだろう。



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  • ■「新しい年を迎えて」
    平成27年1月1日
  • 「新しい年を迎えて」
    「新しい年を迎えて」
     昨年は、新しいボランティアに挑戦するなど、あれやこれやに手を広げ過ぎ、結局「二兎を追う者は一兎をも得ず」を地でいって しまった。やる事なす事、何もかもがちぐはぐ・中途半端になってしまい出るのは愚痴ばかり。惨めな気持ちを存分に味わわされた1年となった。

     そして、こんな落ち込んだ気分の中、11月には10歳離れた兄をなくした。兄弟の別離は初めてだったこともありひとしおの寂しさに追い打ちをかけられ、本当に辛い1年となった。

     あまりの哀れさに、今年の運勢が悪かったのだと独りごちたが、兄との別離は別にして、その大半は自分の努力を棚に上げたうえでの話なので、運が悪かったわけではないことは明々白々なのだ。だから余計に惨めになってしまうのだが、引き摺っていくわけにもいかず、運が悪かったことにして昨年を総括することにしたのだ。

     で、今年は、
    □ 身の丈にあった行動に専念し、性急な成果を求めず、結果に一憂せず一喜することにのみ心掛け、一つひとつ愚直に取り組むこと。
     こんなことを掲げ、今年を乗り切っていこうと思う。運命に抗うことはできない、素直に受け入れなくてはいけないのであろうが、善い運をもたらす女神に微笑みかけられるためにも、少しは自発・自力の努力が必要なのではあるまいか。いよいよ今年は古希。そんな年になることを機に、改めて生き方を考え直すきっかけを、女神が昨年仕込んでくれたのかもしれない・・・。


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