乾清花苑  太白廡  略伝引得

〇東夢亭─────吉貞
東夢亭(1796〜1849)
  江戸後期、伊勢山田の儒医。寛政8年生。早く山口凹巷の門に経史をおさめた。医術に精通し、経史、詩文をまなぶ。書もまた巧み。篠崎小竹)梁川星巌、貫名海屋らと親交があった。妻の蝶は小林氏。珮芳と号する画家。閨秀をもって聞こえる。嘉永2年6月12日死去。54歳。名褧。字伯傾。通称は文良。漢詩集に「夢亭詩鈔」など(三重先賢伝ほか)。

 夢亭 餘事少詩人
「春日飲戀花楼」七絶
小林珮芳(1799〜1879)
 寛政11年生まれ。名蝶、字戀花。紀伊藩の地主・小林榮秀の三女。21歳の時に山田の詩人東夢亭の妻となった。はじめ月僊の遺墨をもって蘭石図を学び、のちに小橋香村について山水を学んだ。画の巧みさは評判で、増山某が長崎に行く時、珮芳の画を持っていき画僧鉄翁に見せたところ、鉄翁はその筆意に非凡さを感じ、壁に掛けていた清人顧海蘋の山水をはずし、増山某に託して珮芳に贈ったという。その後、弘化3年に鉄翁が伊勢に遊んだ際、珮芳を訪ね、樹法、葉法、石法、皴法、山法、蘭竹法などを一々筆を下し、奥儀を授けた。それから珮芳の画風は一変し、名声は高まり、画を請う者が続出したという。嘉永2年に夫の夢亭が没したのちは夢亭の遺志を継ぎ、門人の村井漠所、江川閑雲、松田葵亭らとともに東夢亭詩集三巻を刊行した。珮芳に子はなく、林棕林の子・吉貞を養子とした。多芸であったが、画を最も得意としていた。晩年は女徒を集め習字、裁縫、国文学を課し専ら家庭学を教えた。明治13年、81歳で死去した(UGA)。
 夢亭没後はじめ笄簪を鬻いでその遺著「鋤雨亭随筆」三刊を上梓。また詩歌点茶盆石等を能くし、当時の閨秀張紅蘭江馬細江亀井少琴らと交を訂した(三重先賢傳)
山水
東吉貞(1845〜1912)
 実は神官林棕林の子、諱吉貞、字子固、天香と号す、効果2年生、夙に學を好み松田雪柯に師事。安政3年5月出でて東夢亭の養嗣となる。神官の権主典に任じついで祢宜に補せらる。つづいて大神神社及び結城神社の宮司を歴任、のちまた神宮祢宜となる(三重先賢傳)。