乾清花苑  太白廡  略伝引得

梁川氏
梁川星巖(1789〜1858)
  
 江戸後期の詩人。名は卯のち孟緯、字は伯兎のち公図、通称新十郎、星巌は号。寛政1.6.18、美濃国安八郡曾根村富農の家に生まれる。父は長高。文化4年江戸に出て山本北山の奚疑塾に入り儒学と詩文を学び、市河寛斎の江湖詩社に参加した。14年帰郷し私塾梨花村舎を開く。星巌は放浪を癖とした。文政3年詩人紅蘭と結婚。5年9月妻を伴って西遊し九州に至った。天保5年江戸神田お玉が池に住し玉池吟社を起こし、江戸詩壇の盟主として名声高まった。その間藤田東湖、佐久間象山と交わり時事への関心を深め、弘化2年玉池吟社を閉じ帰郷し、翌年より京都に定住、ペリー来航後は政治活動に深入りし尊王攘夷を主唱す。安政5年秋京都に流行したコレラに罹り没し、南禅寺天授庵に葬る。死の直後安政大獄が起こったため、世人は星巌を「詩(死)に上手」と評した。5000首におよぶ作品を残し、詩人としての評価は頼山陽より高い。安政5.9.2没(kotobank)






七絶 蝶衣七絶

張 (梁川) 紅蘭(1804〜1879)
 
夫に詩を、中林竹洞に画を学び、特に山水・花卉に長じる。
 幕末・明治の歌人。美濃生。幼名きみ、名を景婉、他に芸香といい、字を玉書または月華とし、紅鸞と号していたが、後に字を道華、号を紅蘭と改める。文化元年、美濃国安八郡曾根村に生まれる。幼少の頃より詩文を習い、琴もよくした。文政三年、紅蘭十七歳のときに頼山陽とならぶ江戸後期の大詩人である梁川星巌と夫婦の契りを交わす。このとき紅蘭は、本姓である稲津氏を改め、張氏と称する。
 文政五年、夫婦はともに遠く西の九州へ向けて旅立つ。文政九年、一時帰郷した後、翌年には京都に赴き、ここで頼山陽と親しく往来する。天保三年、今度は江戸に向かい、最初、南八丁堀に寓居を定めるが、火事で焼失す。その後、墨田川畔を転々とし、最後は、神田柳原のお玉が池のほとりに落着く。この居所は玉池吟築と名付けられ、ここに詩社「玉池吟社」が設けられた。ここでは多くの子弟が集まり、その中には小野湖山、大沼枕山、森春涛、江馬天江などの幕末から明治にかけて詩壇を担うことになる多くの人を輩出した。弘化二年、江戸での活動に終止符を打ち、一時帰郷の後、再び京都に入る。京都でも江戸在住のときと同様、鴨川のほとりを転々とすることになる。また、この頃の星巌は僧月性、佐久間象山、吉田松陰らと盛んに往来し、尊皇攘夷の思想を強めていく。安政五年、夫星巌がコレラにより息を引き取る。それからまもなく安政の大獄が始まり、紅蘭も投獄される。安政六年、獄中生活に堪え、出獄する。晩年は、京都で私塾を開き子女の教育に尽くした。明治12年3月29日病没。享年76。
(漢詩作法講座)

賀芳辰詩

墨菊

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