冨田博之 Fortran90 講義ノート 竹田城跡 出題ミス

冨田 博之  TOMITA, Hiroyuki

mail: tomita.hiroyuki.28m{@}st.kyoto-u.ac.jp  Remove { }
    (元教員に発行された学生用アドレスです。 冨田 .博之 .28 歳 男 @ 学生 .京都大学 ? )

2007年(平19)3月 京都大学定年退職 (総合人間学部/人間環境学研究科),35年間無事故無違反につき 名誉教授

退職後 2014年3月 まで: 近畿大学シニアサイエンティスト, 同志社大学嘱託講師 (理工学部,生命医科学部)



講義ノート  (同志社大学,近畿大学,京都大学)  ・ 新国際単位系(SI, 2018/11)


雑 書 庫  (教材メモ・雑記事など)

[ 231 ]「高校物理・音波の混乱」  --- 2017 阪大・京大 出題ミス の背景 (2018/2/3 修正)

 弁明  上の記事中、阪大の 「問1は選択肢に正解がない」 に対する抗議・質問にお答えします 。(2018/3/11)

 脱帽  問1への疑問に対して阪大入試課から回答があったそうです。無理な 繕 い で 新たな 綻 び ?! (2018/3/31)

 検証 この大学では、間違ったときの 世間の目の眩ませ方 を教えている?! (2018/3/25)

   ---------------------------------------------------------

<まとめ> ミスはともかく、事後の対応は組織的な アカデミック・モラルハザード そのもの!

 真相 いまだに教育関係者から私に質問が来ますので、真相 をまとめておきます。 (2018/4/15)



Fortran90/95プログラミング (培風館 改訂版: 共著者=齋藤泰洋) 訂正情報 (2018/6/1新着) など  

Fortran90プログラミング  (最初のHTML版: Fortran95 対応表付き)

  現行Fortranの基本を身につけるには十分ですが,内容が少し古くなりましたので上記教科書を推奨します。


Recent Works (postretirement) (In English)  


竹田城址  


Beckmann Building   実は1995 年に文部省在外研究員でイリノイ大学 (Urbana-Champaign校) に滞在していて,オフィスをあてがっていただいていた研究所の建物の残り半分が NCSA (米国立スーパーコンピュータ応用研究所)でした。 帰国してから知ったのですが,初期のWEBブラウザ 『 Netscape 』 の元となった 『 NCSA Mosaic 』 を開発した (人がいた) ところです。 そうそう,反抗を企てた初代AI,HAL-9000 が認識回路を次々に断たれて「意識」朦朧 となる中で,育ての親のチャンドラ博士を思い出しながら 「...生まれは... イリノイ州アーバナの... HAL研究所 ...」 とつぶやいた Urbana が,この広大なトウモロコシ畑に囲まれた小さな街です。小説では, HAL は私が帰国のため街を離れた1年後に生まれたことになっています。余談ですが,数式処理ソフト 『 Mathematica 』 のWolfram 本社が, この双子都市のChampaign 側にありました。

  滞在中に 『 Windows95 』 の発売騒ぎもありました。WWW そのものはヨーロッパの素粒子物理学の研究者たちが研究連絡の通信のために開発したのですが,このグラフィカルなWindowsとブラウザの普及で利用が市民レベルにまで爆発的に広がったのです。それまでも MSDOS 上の Windows3.1 や別のOSの WindowsNT というのもありましたが,やはり Windows95 が大きな契機になったと思います。

  おかげで,普及し始めていた WEB のデモ講習会をのぞく機会もあり,「 WEB ってどういう意味ですか?」 と質問して,「日本人はクモの巣も知らないんだ」 と,若いインストラクタに冷やかされたりしました。「WWW は?」 も回答してくれましたが,巻き舌で 「ワーワーウェ」 と言われてもよく聞き取れず,上目遣いで「ウー」 とうなるばかりでした。それで今でも 「ウウウゥ」 と読む癖がついてしまいましたが,ヘタな発音の 「ワールドワイドウェブ」とか,舌がもつれそうな 「ダブリュダブリュダブリュ」 より簡単ですからお薦めします。

  そういう刺激があったため,帰国してからすぐWindows95をインストールして,最初は京都大学情報教育センターのサーバ上で WEB のまねごとを始め,これも日本ではまだバージョンアップ途上にあった 『 Fortran90 』 プログラミングの WEB 版テキストを作成して公開しました。 まだ適当な教科書・教材がなかったため,学外からもけっこう利用していただきました。 HTML が珍しくてはまってしまい,片っ端からリンクを張り巡らして紙の参考書に劣らない使い勝手を実現したり,例題のソース・テキストファイルや演習問題の解答例(鍵付き)も DL 出来るようにしてあったので,利用していただいた方の間では評判がよかったと思います。

  しかし,それ以降は忙しくてきちんとHTMLやスクリプトを勉強することもなく,いつまでたっても当初の原始的な手法 --- タグ列をテキストエディタで編集する --- で作成したページを土台として継承したままですので,ご覧のようにいたって「ちぐはぐ」で愛想ないものなのです。 在職中に作成していた講義のための教材・メモなどで,少しは役にたちそうなものを,少しずつ掘り起こして IT 化し, 雑書庫 に追加しています。

  講義の後などに学生さんに質問されても,その場ですぐには的確に答えられず,勉強し直したことが多々ありました。「この人は,こんなことがわからんかったんか」 と思われて恥さらしになるかもしれませんが,自分がひょいとつまづいた所は同じようにつまづく人がきっといると思います。長年の経験では,理解に苦しんだ人が書いたものの方が分かりやすいこともあります。その代わり,とんでもない勘違いが残っている危険性もあります。

 古くて長期間アクセスのないファイルは,お節介な警告が出ることがありますが,支障はありません。


竹田城址 ----- ふ る さ と は 荒 城 の ふ も と 霧 の 海 の た ゆ た う 底 に 閑 か に 潜 む

        

  携帯(ガラケー)のカメラではこの程度のものしか撮れませんでした。写真集やネット上で提供されている数々のすばらしい影像を眺めていると,50年以上も前,多感な高校生の頃,天気がよければ気晴らしに城山に登り,時には 「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」 と感傷に耽っていたことを懐かしく思い出すのです。 周りの山々の深い緑に圧倒される真夏などは,蝉の騒々しさにもかかわらず森閑として,もの哀しささえ覚えたものでした。まだその頃は殺伐とした廃墟そのものだったからでしょう。

  休日でも人に会うことは希で,草ぼうぼうに荒れ果てて蛇がたむろしていた城址は,今では周りの雑木が刈り払われて見晴らしもよくなり,よく手入れされて隅々まで散策しやすくなりました。昔は気がつかなかった様々な情景を目にすることができるようになっています。深い霧に覆われる谷間の街に暮らしていた者には,「雲海の上に浮かぶ城址」 など想像もつきませんでした。向かいから見た城山の姿から 「虎臥城 (とらふすじょう, こがじょう)」 の名で親しまれてきた城址は,いつの頃からか 「天空の城」 と呼ばれるようになり,『日本100名城』 にも選ばれて,今や市の人口の10倍以上,年間数十万人の人々が訪れる北近畿の代表的な観光スポットとなっています。

  しかし,これは城山の頂上だけの話であり,その賑わいとは対照的に麓の竹田の街は,墓参でいつ帰省しても少子化と過疎により人影も疎らで,ひっそりと静まりかえっています。故郷の街に住み働き続けてきた数少ない同期生から,「限界集落に向かっている」 と嘆きの声が聞こえてくると,懐かしさとは別に言いしれない寂しさが胸に迫ってくるのです。

  [解説] 竹田城址 は,兵庫県中央部・中国山地北麓の朝来市 (あさごし,旧・朝来郡) 竹田にあり,室町・戦国時代の但馬守護・山名氏領から織豊時代の羽柴秀長等を経て,最後は赤松氏領として関ヶ原の合戦直後まで築かれていた広大な山城の跡です。標高350mの虎臥山上に,南北400m,東西100mの縄張りの石垣遺構が拡がっています。江戸時代には生野銀山に配された生野奉行 (後に代官) の管轄のもとで朝来郡が北隣の養父郡とともに幕府直轄地となり,城は廃城となって竹田の街も城下町ではなくなりました。しかし天領ゆえ,運よく山頂の石垣だけは取り壊されずに残ったのです。 [ 蛇足: 藤村の 「小諸なる古城」 はもちろん長野県小諸市。 『荒城の月』 に詠われた大分県竹田の古城は 岡城 。]

TOP  雑書庫  //  竹田城跡公式ページ   空撮 (以上朝来市)  コウノトリ・アイ (兵庫県但馬県民局)



-----  花 の 夜 宴  ( 竹田城跡公式ページ 『ライトアップのお知らせ』 より ) -----