竹田城跡 冨田博之

竹田城址 --- 兵庫県朝来市和田山町竹田 (竹田小中学校,生野高校卒業まで住んでいた生れ故郷) 筒江物語

    
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  携帯(ガラケー)のカメラではこの程度のものしか撮れませんでした。写真集やネット上で提供されている数々のすばらしい影像を眺めていると,50年以上も前,多感な高校生の頃,天気がよければ気晴らしに駅裏登山口から城山(虎臥山)に登り,時には 「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」 と感傷に耽っていたことを懐かしく思い出すのです()。 まだその頃は荒涼とした廃墟そのものだったからでしょうが,平泉とは関係ないのに何故か芭蕉の 「夏草や兵どもが夢のあと」 の句碑があり,周りの山々の深い緑に圧倒される真夏などは,蝉の騒々しさにもかかわらず森閑として,もの哀しささえ覚えたものでした。  [ 藤村の 「小諸なる古城」 はもちろん長野県小諸市。『荒城の月』 に詠われた大分県竹田の古城は 岡城 。ともに美しい詩や名曲で多くの人に親しまれていますが,残念ながら我が竹田城下町は,かように叙情に秀でた詩人や音楽家が輩出しなかったようです。

  休日でも人に会うことは希で,草ぼうぼうに荒れ果てて蛇がたむろしていた城址は,今では周りの雑木が刈り払われて見晴らしもよくなり,よく手入れされて隅々まで散策しやすくなりました。石垣に取りついて登るしかなかった天守台にも,木製の階が設置されて洋装の女性でも人目をはばかることなく楽に上がれ,昔は気がつかなかった周りの様々な四季の情景を目にすることができるようになっています。

  晩秋から早春にかけて,円山川から湧き昇る深い朝霧に覆われる谷間の集落に暮らしていた者には,「雲海の上に浮かぶ城址」 など想像もつきませんでした。向かいから見た城山の姿から 「虎臥城 (とらふすじょう, こがじょう)」 の名で親しまれてきた城址は,いつの頃からか 「天空の城」 と呼ばれるようになり,『日本100名城』 にも選ばれて,今や市の人口の10倍以上,年間数十万人の人々が訪れる北近畿の代表的な観光スポットとなっています。

  しかし,これは城山中腹の駐車場・休憩処と頂上の遺構だけの話であり,その賑わいとは対照的に麓の竹田の小さな街は,墓参でいつ帰省しても少子化と過疎により人影も疎らで,ひっそりと静まりかえっています。朝の登校時の児童の賑やかな声も,いつの頃からか聞かなくなりました。時間の余裕があれば登城し,方々から訪れた人々が挙って感動する光景を目の当たりにすると,自分のものというわけでもないのに誇らしく思う一方で,はたしてそれが地元の人たちに将来への希望をもたらしているのだろうかと,微かながらも疑念を禁じ得ません。正直なところ,風雪に耐えた400年の時の流れを語りかけてくれる古城遺跡は,荒れ果て草生す姿でよかったのではないかとさえ思えてきます。故郷の街に住み働き続けてきた数少ない同期生から「限界集落に向かっている」 と嘆きの声が聞こえてくると,懐かしさとは別に言いしれない寂しさと,いともあっさりと故郷を捨てたことに対する呵責の念が胸に迫ってくるのです。

 --------- ふ る さ と は 荒 城 の ふ も と 霧 の 海 の た ゆ た う 底 に 閑 か に 潜 む

  [解説] 竹田城址 は,兵庫県中央部・中国山地北面の朝来市 (あさごし,旧・朝来郡) 竹田にあり,室町・戦国時代の但馬守護・山名氏領から織豊時代の羽柴秀長等を経て,最後は赤松氏領として関ヶ原の合戦直後まで築かれていた広大な山城の跡です。標高350mの山上に,南北400m,東西100mの縄張りの石垣遺構が拡がっています。縄張りの形状から「虎臥城」と呼ばれたという説明も見かけられますが,正しくは上で触れたように山の名前 (虎臥山,登記では古城山) に由来し,山裾にある竹田小学校の校歌の最初に出てきます。江戸時代には 生野 銀山に配された生野奉行 (後に代官) の管轄のもとで朝来郡(および南隣の神崎郡 --- 当時は神西郡 --- の一部)が北隣の養父郡(の大部分)とともに幕府直轄地となり城は廃城,竹田の街は出石のような江戸期城下町が発達する前に城下町ではなくなってしまい,漆器や木工,商業の街として発展しました。しかし 「一国一城」 の幕府の政策にもかかわらず,天領ゆえ運よく山頂の石垣だけは取り壊されずに残ったのです。

*********** 花 の 夜 宴 ***********

  南北400mに及ぶ山上石垣遺構(中央が天守台,向って左端が南千畳,右端が北千畳): 竹田城跡公式ページ 『ライトアップのお知らせ』 より(Trimmed)

   冨田博之 ホームページ // 竹田城跡公式ページ  空撮 (以上朝来市) コウノトリ・アイ (兵庫県但馬県民局)


筒江物語 --- 千葉県柏市に伝わる不思議な伝承飛び500km弁天(2024.6)

  竹田の街はずれ,旧竹田町と山東町の境に「筒江つつえ」という集落がある。竹田からは,円山川を渡って加都かつの集落を通り抜け,宝珠峠を越えて古代山陰道(青垣,遠坂峠から粟賀あわがを通る道:国道427)の矢名瀬(梁瀬)へつながる旧道があり,その加都のはずれの急カーブを東へ回った先に位置する。竹田の街を挟んで城山と向かい合う金梨かなし山の北麓にあたり,宝珠峠の手前まで東西に1kmはあろうか,かつて一つの村を成していただけに意外と広い。集落の東の端には,近畿最大規模の円墳,茶すり山古墳 があり,集落北部にも多数の古代遺跡が見つかっている。峠に向かう緩やかな丘陵は,大きな川の氾濫の恐れもなくて古代には住居を構えやすく,山陰道に近い筒江の方が,後世に栄えた竹田の地より先に拓けていたに違いない。5世紀には大きな円墳を築く有力な豪族が住んでいたりして,ひょっとすると南但馬の先進地だったのではないか。後の空海伝説との関わりでそう思いたくなる。筒江(古くにはツブエ?)という地名からすると,縄文・弥生時代には日本海の入り江の南の端だったかもしれず,丹念に発掘すれば古墳どころか貝塚が見つかるかもしれない。 注1

      『あさぶら』より
茶すり山古墳(直径 90m,高さ 18m)と 筒江の里(奥の斜面は金梨山)     

  この筒江と千葉県柏市にまつわる不思議な伝承があることを,先日,竹田小中学校12期生同期会で会った,千葉市に住むOさんから耳にした。帰宅してから調べたところ,確かに柏市にある関東三大弁天の一つ,『 布施弁財天 』の縁起に「本尊の弁財天像(秘仏)は大同2年(西暦807年)7月7日に,但馬の国の朝来あさご郡筒江の郷 から飛来した。後に,弘法大師空海が筒江の香林庵に止宿していたときに彫ったものであることがわかった」旨が書かれている。香林庵 は筒江の 香林山明禅寺 のことであろうか?[注2

  疑り深い私の性分では,井戸や温泉を掘り当てるなど各地で奇跡を起こし里人を驚嘆させた空海のことだ,初めての関東巡錫の折に説法に箔をつけるべく,アシスタントの弟子が密かに先回りして仕組んでおいた演出では?と先ずは勘繰りたくもなる。土地の人々が知っている近隣の地やありきたりの都ではなく,万が一にも誰も聞いたことがないであろう遠方の土地の名前の方が,いかにも神秘的で効果てき面だ .... 。しかしたとえ伝説だとしても,「空海」が筒江という地名を,縁もゆかりもない坂東の人たちに知らしめてくれていたとは,なんとも愉快ではないか。

  ネット上で調べていて,何年か前に生野出身で東京在住の太田公士さんが,Facebook でこの件を紹介されていたことを思い出した。『あさご市応援団』のページで右上の[検索]に「弁財天」と入力すると,2015年の記事が見つかる。この話は地元の筒江では昔から知られているようであるが,竹田育ちの私は今回記事を読み直すまで,筒江に厳島神社という神社があることさえも知らなかった。この厳島神社に,弁天像が東の空に飛び立ってお出かけになっているとして,「留守弁天」が祀られているという。

  よく見ると,布施弁財天の 縁 起 を伝える看板には,見出しにわざわざ『筒江の里に伝わる伝説』だと書いてある。これはどういうことだろう?私には,(この種の伝承にはよくあることだが)後世になって布施弁天の隆興を伝え聞いた筒江の人々が,嫉み半分で「こちらこそが元宮なり」と一方的に創り上げた話だとは,どうしても思えない。これでは地理的・歴史的な必然性が何も見えてこないのだ。おそらく,いつの頃かに伝承が筒江にも伝えられたが,近代になると,繁盛する布施の方では由来など埋もれてしまって記憶が薄れ,静かな里であった筒江の人々の方が,より鮮明に伝聞を繋いでいたということであろうか。

  各地に伝わる空海伝説の一つだとしても,仕組まれすぎている。普通なら「弘法大師は,度重なる鬼怒川の氾濫に苦しむ人々のために,懐から弁天像を取り出して『川辺に祠を建てて安置せよ』と仰せになった」ですむところだ。やはり1200年前,500km 離れた二つの村の間に,何らかの繋がりがあったと考えたくなる。

  何ゆえ但馬の筒江と坂東の布施? ----- 飛鳥時代後期(7世紀中後期)に律令国家が成立して以降は,朝鮮半島からの人々の渡来(主として亡命や難民)を帰化扱いするようになり,戸籍を認める以上,建前として朝廷は大量の渡来人にも口分田を分け与える必要があった。このため,班田制が瓦解した奈良時代末期に至るまで,繰り返し彼らを東海・関東地方へ集団で入植させ,東国開発に当らせた。古代に表日本であった日本海側から見れば裏日本の,いずれも最も隔絶した僻地である。[注3

  こうして坂東の荒涼たる氾濫原野へ送りこまれた人々の中に,日本海から円山川の入り江のどこかに漂着し,朝廷の指示を待つ間に滞留していた筒江のことを思い出し懐かしむ人がいたかもしれない。筒江を出立する際に,親身になって心を砕いてくれていた庵主から「今来いまきの方々は難儀なことやなあ。これは旅の若い僧が願かけて彫んな(さ)ったもんやで,長い道中のお守りに持っていきな(さ)れ」と言って授かった小さな弁天様を仰ぎながら,「美しい緑の山々,穏やかで優しい人々,なんと安らかな地であったことか ....」と 。

  太田さんの記事によれば,双方の人々の交流は続いているらしい。今さらあれこれと真相を穿鑿することはない。『飛び弁天』『留守弁天』,おまけに『空海作』という夢幻ゆめまぼろしの昔話として,今のまま伝え続けられていく方が楽しいだろう。

注1現在の地形を基にした JAXA の 海面上昇シミュレーター で見ると,10メートルの海面上昇で円山川沿岸は豊岡盆地の日高や出石いづしあたりまで内海が拡がる。いわゆる縄文海進はそれほどではなかったかもしれないが,加都や筒江の水田地帯の近くまでは,日高か養父やぶから緩やかな川の葦の茂みの間を,平底の小舟で遡れた時代があったことは十分考えられる。

  但馬国 邪馬台国・大和説との関連で,『魏志倭人伝』の 投馬(ツマ,トウマ)国 に タヂマ を比定する説がある。漢字表記の類似性を根拠とする人もあるが,当時(3世紀末)の日本にはまだ人名や地名の漢字表記はない。邪馬台国「七万余戸」に次ぐ「五万余戸」の大国は,前後の行程からしても イヅモ だとする説の方が有力と思うが,但馬説の真偽はともかく歴史家が候補に挙げるほどのクニを成していたとすれば,その中心は後に国府が置かれた日高のあたりだろうか。5世紀には新羅から渡来したアメノヒボコ一族が,西日本各地を転戦ののち但馬に定住したという。アメノヒボコの来歴に関しては,古事記でさえ矛盾だらけと嘆くように謎めいているが,その勢力が及んだのは出石を中心とする北但馬であろう。現在の円山川の河口を切り開く土木工事を行って豊岡盆地・出石盆地に広がっていた沼海を干拓し,稲作・畑作を広めたと言われる。但馬開発の祖として人々に崇められるようになったアメノヒボコを祀る出石神社が,中世には但馬国一宮に格付けされるが,南但馬・朝来あさご郡の筒江に近い粟鹿神社も,先住の国つ神 ということであろうか,一宮とされる。古くには但馬北西部(二方)と東南部(多遅摩)は別の国造の支配下にあり,また,後の丹後・丹波とともに丹波タニハ国を成した時期もあったというから,大和政権下で名実ともに但馬国が成立したのは大化の改新(645-650)で始まる律令制以降であろう。 もどる


注2唐から帰国後に真言宗を開き,遍く有名になった弘法大師空海にまつわる伝説は,但馬地方にも何か所か存在する。しかし,空海が唐から帰国したのが大同元年(806年)であり,都に戻るまで3年近く大宰府に足止めされたことを考えると,「香林庵に止宿した」というのが事実であれば,唐に渡るより前,20代の修行僧時代ということになる。この時期に大峰山を中心に山岳修行を積んでおり,その経験が後に高野山開山を導いたことは有名。また阿波・土佐を中心に踏んだ山岳修行の痕跡は「四国八十八か所」として残されている。それ以外の行跡は不詳。 もどる

注3特に高句麗の滅亡(668年)のあと多数の難民が渡来したが,何らかの外交事情の変化によるのか奈良時代初期(716年)に,「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7国に住んでいた高麗人1799人」が武蔵の国に集められ,現在の埼玉県日高市・飯能市あたりに 高麗こま が建郡された(『続日本紀』)。これが高句麗人全員に及んだのか,また同地域の百済・新羅の渡来人はどう扱われたかは分からないが,「コマ」がつく地名は他にも甲斐の 巨摩郡 などがある。さらに,同時期に設置された上野国の 多胡たご(『多胡碑』)をはじめ「多胡」(多古)という地名も,多種の外国人を意味するとする説明がある。いずれにせよ数千人規模の多数の渡来人集団が,東海・関東に送られたことは事実であろう。

  下総の柏市には太古の川筋 (※)の跡であろうか,大小の沼や池が残る。今でも利根川の増水に備えて,鬼怒川の合流点から安孫子に至るまでの広大な利根川低地の農地に,緊急時に人為的に水をあふれさせて貯める 調節池 が設定されている。その面積は市の面積の10分1にも及び,近年にもそれが機能したことがある。元来 「河川神」である弁財天は,その中央あたりの小さな島のような台地に祀られている。(※ 銚子で太平洋に注ぐこのあたりの川が利根川に変わったのは,江戸時代に上流で「東遷」分水工事が行われてからである。) もどる




  久しぶりに筒江という地名を聞いて,いろいろと思い出している。筒江は幼い頃(昭和20年代中頃),東京から毎年,何ヶ月か帰省して「もみ医者」を開業されていた井上先生の宅に,ポリオの後遺症で手足にマヒが残った6歳上の姉の「お供」で,竹田米屋町の我が家から毎日通った思い出がある。今,Google Maps のストリートビューで見ると,こんな山裾の寂しい道を,子供の足でおそらく片道小一時間かけて,足の不自由な姉と二人で辿っていたのかと,改めて驚く。まだ田舎道には自家用車・軽トラはおろか,オート三輪(バタコ)も走っていなかったが,代わりにフッフッフッフッと鼻息荒く,よだれを垂れ流し角を振りかざして時折りすれ違う,当時の私の背丈では巨大な怪獣のごとき役牛が,道中で最大の恐怖の的だった。

  しかし,かといって通うのに尻込みしていたわけではない。加都と筒江の境の急カーブの手前に赤土が露出している崖があって,所々に灰色の粘土の層を見つけることができた。それを指でほじくって,小さな片手に一握りほど持ち帰って貯めるのが,密かな愉しみだった。子供心には姉思いの親孝行というより,そちらの方が魅力だったにちがいない。ただ,その粘土で後に残るような作品を捏ね上げたという記憶はない。残念ながらその方面の才はなく,子供の頃によくある集めるだけの趣味だったようだ。

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