2016/11 竹田小・中同期会@福知山へ,京都から山本君の車で「生野」を通って参加

生野の道 生野高等学校
い く 野 の 道 の 遠 け れ ば ...

  母校・生野高等学校 は,生野銀山で知られた,兵庫県中央部・南但馬の朝来市 (あさごし:旧朝来郡) 生野 にある 兵庫県立高校 である。大学に入ってからは大阪市生野区にあった (今は松原市に移転) 大阪府立の同名の高校としばしば混同された。当時(1960年代)は大阪出身でなければ京大生に非ずと思えるくらい,「御三家」を始めとする大阪府立高が幅をきかせていたのだ。我が生野高校は,日本海にそそぐ円山川と瀬戸内海にそそぐ市川の分水嶺の渓あいにあって,前身の女学校時代を含めれば小さいながらも100年以上の歴史をもつ伝統校である(1913年創立)。今では銀山を継承した三菱生野鉱山も閉鎖され,少子化と過疎により半世紀前と比べて半分以下の1学年100名に満たない,今にも消え入りそうな小さな学校になってしまっているが,卒業生にとっては未熟な青春期の3年間を過ごした懐かしい母校であることに変わりはない。

  大学に入ったばかりの頃,私が「生野高校」と自己紹介したとき,ある級友から即座に「大江山ぁ〜?」と返ってきたことがあった:

     お ほ え 山 い く 野 の 道 の 遠 け れ ば ま だ ふ み も み ず 天 の 橋 立

百人一首のこの生野も,銀山の生野とは別で 丹波の生野の里 であることは,高校で国語の先生から教わっていたから,慌てることなく蘊蓄を傾けることができた。生野高校でなければ,わざわざコメントされることもなかったであろう。そのとき,我が生野は鉱毒のためか 死 野(しにの) と呼ばれていたということも聞いた。まだ行動範囲が限られていて国鉄沿線以外は近隣の地名さえもさほど把握できていなかった時期であるから,今でも鮮明に印象が残っている。あの頃の卒業生には覚えている人が多いかも知れない。

  大阪に生野があることを知ったのも,実はその頃だ。1960年に朝日新聞大阪本社であった高校新聞部の研修交流会で,50音順で隣り合わせた定時制・生野工業高校の,色あせた学ランに長髪で威風堂々・煙草スパスパのオッサンたちに,山出しの丸坊主の高校2年生たちが,「おまえら,『安保』はどうしとるんや?新聞部は『安保』を取り組まんとアカンで!」とネジを巻かれたのだった。

  近畿圏以外の人には地理感覚がつかめないだろう。この丹波の生野は,京都から北西に丹波・丹後方面に向かう 丹波街道 沿いの宿で,今では京都府・福知山市に含まれる小さな集落である。京都から国道9号線を北西に80キロ,2時間半ばかり走ると,福知山の少し手前で,この歌と十二単衣の姫の絵を描いたカルタのデザインの 看板 が見えてくる。

  一方,銀山の兵庫県・生野は,兵庫南部の播磨 (瀬戸内海:姫路方面) から中国山地を越えて真っ直ぐ北へ,兵庫北部の但馬 (日本海:豊岡・城崎方面) に向かう,ちょうど真ん中あたりの峠に位置し,前者とは明らかに道筋が違うのである。明治時代に生野から瀬戸内海まで鉱石を運んだ道は,「銀の馬車道」 と呼ばれている。幕末の歴史に詳しい人なら,十津川の天誅組に呼応しようとした福岡藩浪士・平野国臣の 生野の変(1863) で地名を覚えているかも知れない。

  最近,書店でパラパラと立ち読みした百人一首本では,この歌の項には 「大坂から天橋立に向かう」 と書かれていた。一瞬,はて何で大阪?と首をかしげたが,著者は生野と聞けば大阪の生野しか思い浮かばなかったのであろう。関係者の多い大阪近辺の人ならそれが普通の理解かもしれないが,平安時代の道程としては不自然である。



小 式 部 内 侍

  これは大学生になって多少ひね(くれ)てから知ったのであるが,この歌にまつわる エピソード が,これまた大変おもしろい。「生野」 と 「行く野」 に加えて後の 「踏み」 と 「文」 の二重の掛詞があることには気がついても,これを知らないとその軽妙さ・おもしろさが半減してしまうのである。撰者の藤原定家も,その経緯を知っていたからこそ秀作として撰んだにちがいない。詠み人は 小式部内侍 で,母親は有名な平安の情熱歌人,和泉式部 である。小式部も幼い頃から才気を発揮し,母娘ともども 「女房三十六歌仙」 に名を連ねている。惜しいことに20代半ばで早世し母親ほど多くの歌は残されていないようだ。

  才媛とみると男が嫉妬し何かと難癖をつけたがるのは今と同じで,「あの小娘の歌,みんな母親に作ってもろておるんや」 という噂が広まった。ある時,宮中の歌合わせの日に,権中納言 藤原定頼 という,これまた当時の三十六歌仙に挙げられるほどの著名な歌人が,小式部に近づきニヤニヤと,こともあろうに 「どれ,お歌はどうなさいました? お母さんから返事は間に合いましたかな? いつもと違うて,遠いとこへ行かれてしもて,さぞ心もとないことであらしゃいましょう。」 と揶揄の言葉を投げかけて立ち去ろうとした。

  今の世なら,まさにあからさまなジェンダーハラスメントである()。これを受けて小式部は,すぐさま 「あら,定頼さま,ちょっとお待ちになって!」 と,このみごとな歌を即興で詠んで自らの才を披露し,日頃の汚名をそそいだというのだ。 どうも私は歌の風雅よりも,こういう知的バトルの話題の方が性にあうらしい。和泉式部の後の夫,藤原保昌が竹取物語よろしく式部に「ねえ,とって!とって!」とせがまれて,北面武士の衛る紫宸殿の紅梅を命がけで手折ったとか,こういう逸話をいちいち記録にとどめる人がこの時代にいたこと自体も,愉快でならない。( もっとも平安時代には,こと文芸界では女性の方が平仮名の使用と相俟って自由奔放に活躍していたと思うのは,私だけではないだろう。

  ついでながら 「おほえ山」 は,福知山市北部の大江町にある酒呑童子伝説で有名な 大江山 ではなく,現在では 西京区 となっている京都市の西南郊外の大枝にある 大江山 (大枝山) だという。大枝は京都市と西隣の亀岡市との境にあたる丘陵地帯で,10年ほど前に京都大学の工学部が移転したあたりである。

  したがって地理的には順を追って,「大江山から京を出て丹後に向かう生野 (行く野) の道は,もう遠くって遠くって,天の橋立の地には,まだ足を踏み入れたことはありませんことよ」 となるわけだ。そして,返す刀で 「そーんなに遠い所だから,母からはまだ一度も手紙さえ届いていないんですよ〜」 と,この鼻持ちならぬ破廉恥男を切って捨てたのである。定頼は返歌もできず尻尾を巻いて立ち去ったという。

  もっともこの手の揶揄・嫌がらせは,女性に対して下心あって相手の気を引きたいがためということも,これまた今と同じでしばしばで,案の定この二人,後にけっこういい雰囲気になったという話を読んだことがある。小式部はこの道でも母親ゆずりの手練れであったか。そうでもなければ卑屈な男のこの手の変化球は逆効果で失敗に終わることは,心得ておく方がよいだろう。

  一説では,そういう掛詞が有りかどうか知らないが,同じ道程にある2つの 「大江山」 を掛けたのだともいう。いずれにせよ,個人の旅や正確な地図を見る機会も殆どなかったであろう時代だから,今ならさしづめ東京の人が京都・丹波・丹後の地の理を推し測るようなもので,都人でも確たる地理的把握は持ち合わせなかったと見る方がいいのではないかと思う。それにしても,歌を聞いて 「いく野」 が掛詞であることを咄嗟に理解するためには,一流の歌人たるもの,花鳥風月ばかりでなく地方の宿の名をもそらんじなければならなっかたのか思うと,その才には脱帽する。



2つの 大 江 山 と 丹後・若狭・丹波・畿内

  私見であるが,源頼光と家来の四天王が退治したという, 酒呑童子なる鬼の棲んでいた 大江山 も,実は大枝の 大江山 ではないだろうか。夜な夜な都に出てきて悪さをする鬼 (山賊) の棲家にしては,奥丹波の大江山はいかにも遠すぎて不便だ。鬼のごとく空を駆けるならともかく,車でも 3,4時間はかかるのだ。国道9号線で京都に帰ってくるとき,このやや高台になっている大枝のあたりにさしかかり,東の眼下に拡がる京都盆地の市街地を眼にしながら,いつもそう思うのである。大枝の山地は山陰路の起点として要所であるにもかかわらず,盗賊が棲みつき,常は都城警備の埒外であった。まさに平安京の裏鬼門である。後に幾たびか中世歴史の転換点として登場する。

  古くは,鎌倉幕府・得宗高時執権の命で山陰路を,配流地・隠岐島を脱出した後醍醐天皇の立て籠もる伯耆・船上山に向かう途次の足利高氏が,旗幟を 討幕 に翻した篠村八幡宮の 篠 は,大江の坂大枝山中,現在は 老の坂 )を越えてすぐ西に位置する。折しも飛び立った2羽の山鳩(各地の八幡宮のシンボル)が,都に返す方向へ導く吉兆が顕われ,勇み立った高氏の反乱軍は都の六波羅に向かったという。...時を経て,信長の指令で秀吉の中国攻め支援のため亀岡(亀山城)を出立した明智光秀が,深夜密かに信長討伐の祈願を行ったのも篠である。光秀は老の坂を下った沓掛から南 (山陽道 ) に向かわず,桂川河川敷で出立後初めて「敵は本能寺にあり」と兵に告げ,東の京都市街へ向けて軍勢を急きょターンさせたのだ。ここからなら当時の本能寺(堀川を隔てて二条城のすぐ傍)まで 10km 足らず,徒兵でも半時(とき)もかからない。思いもかけない早暁に伝令は間に合わず,本能寺の信長も少し離れた妙覚寺にいた長男の信忠も,応戦態勢をとるなり逃亡するなりの余裕はなかっただろう。

  通説では頼光と四天王は先の保昌とともに,丹波の大江山一帯に勢力を拡げ朝廷の統治の圏外にあって都の治安を脅かしていた山賊(山の民?)を成敗したことになっている。この一族が 「鬼」 と伝えられているからには,『遠野物語』 の陸奥の鬼のように,シベリア方面から日本海沿いに若狭湾にたどり着いた異貌のユーラシア大陸系の漂着民一族が,昔からこの地に棲みついていたかもしれないと,勝手な連想が頭を巡る。越後(燕市)にも酒呑童子伝説があり,今でも祭事が執り行われているそうだ。大江山には古代の鬼退治の伝説もあり,日本海に面した丹後半島にも関連した(鬼殺し秘事)伝説や痕跡があるという。中国・朝鮮から丹後半島に上陸した渡来人の中に,西域ないしペルシャ人が混じっていたことも否めない。その一部は丹波・山陰道を通って河内・飛鳥に向かったであろう。

  丹後半島から与謝・大江を通り丹波を経て畿内に通じる道は,古代から治安を維持すべき重要な幹線道であった。日本地図を南北逆さにして大陸側から眺めれば,丹後半島は北九州,島根半島,能登半島と並ぶ主要な,しかも畿内に最も近い 表玄関 の一つであることがわかる。古代には,小さい船で流れの速い対馬海峡を横断して瀬戸内海に入るよりも,潮の流れに乗って日本海に向かう方が楽だったそうだ。朝鮮半島北部の高句麗方面から渡海したとすれば,この方が自然である。西側をこの丹後半島に囲われた若狭湾は日本海側で最大の湾であって,そのリアス式海岸の複雑な入り江をもつ地形のおかげで,宮津,田辺(舞鶴),小浜,敦賀と,古より栄えた天然の良港がいくつも並ぶ。

   若狭国府の小浜と平城京の1200年来のつながりは,現代でも毎年,東大寺二月堂の「お水取り」に先立って行われる若狭神宮寺の「お水送り」の 火祭 で報じられる。ぴたりと同じ子午線上(南中時刻の差が僅か20秒以下)という暦学的な理由があるのかもしれないが,私には大陸文化の上陸拠点・伝搬経路の一つではないかと思えてならない。長らく琵琶湖西岸の今津を経て平城京・平安京に至る物資輸送の拠点でもあった。また近代には,舞鶴港は日本海屈指の軍港であり,私と同じか上の世代の人なら,太平洋戦争後に大陸からの引き揚げ者やシベリア抑留から送還される兵士・軍人を迎える主要な玄関口であったことが記憶に残っているだろう (『岸壁の母』)。子ども心に「なんで裏日本のこんな不便な所へ?」 と不思議に思ったものだが,古代には明らかに表日本だったわけだ。



間 人 皇 女 と 丹 後 王 国

  半島の宮津とは反対側の日本海に面した真ん中あたりに, 「間人(たいざ) 」 という,どう首をひねっても初めての人には絶対に読めない地名がある。京都からは宮津を経て,さらに丹後半島を迂回するか,峰山を通って半島の山地を北北西に横断するかしてようやくたどり着く, 近畿とはいえ畿内からは隔絶した,日本海に面した現代の僻地である。「間人」 は,欽明天皇 (560頃) の皇女 「穴穂部間人皇女」(あなほべの はしひとの ひめみこ) の名に由来するという。皇女は,母方は蘇我氏,用明天皇の后で聖徳太子の生母であると言われている。( はしひと

  この間人皇女が,飛鳥の宮から蘇我氏と物部氏の抗争の難を逃れ,この地に一時疎開していた。 そして,乱が鎮まり (587頃) 飛鳥に帰るとき,世話になった礼として集落に 間人 (はしひと/はしうど) の名を授けたが,里人達は貴人の名を地名として 呼び捨て することになるのを畏れて,皇女の退去にちなんで 「たいざ(退座)」 と読み替えたという。 古事記や風土記の伝承にしばしば出てくるダジャレ的な地名の由来とは,少々格が違うようだ。記紀にこの記載はないというが,記紀は乙巳の変で蘇我氏が滅ぼされて藤原(中臣)氏が台頭する後の世に編纂されたものだから,聖徳太子を含めて蘇我氏系の人事の子細が疎かにされていても不思議ではない。「はしひと (はしうど)」 「たいざ」 のいずれにしてもすぐには読めないが,今日では 「たいざ」 は,特産の新鮮な松葉ガニ(ズワイガニ)のブランド名で知られるようになっている。

  しかし,いくら難を逃れるためとは言え,何の縁もゆかりもなく,飛鳥から見れば僻地も僻地の辺鄙なこの地に,王の后たる貴婦人がにわかに移り住むとは信じ難い。都を離れれば離れるほど,争乱とは別の危険も生じてくる。おそらく飛鳥王朝時代のいずれかの王か,蘇我氏のような有力な豪族の先祖が,一族を引き連れて朝鮮半島から丹後半島に渡来し,しばらく留まって足場を固めた後,次第に畿内へ進出したのではなかろうか。 もしそうであれば,その名残で王や后の縁者か従者の子孫が,今の間人や近辺の地に集落をなして棲み着いていたであろうと想像される。皇女にとっては,自身あるいは親か近い祖先の故郷であったに違いない。この乱のような危急の場合の避難先として,いざとなれば祖先の故郷へ向けて急ぎ出港し,日本海を渡ることができるよう,畿内に比較的近くて安全が保障された非常口が確保されていたのではないだろうか。

  この地域に200m級の大きな古墳が集中していることから,強大な 丹後王国 が存在していたという説もある。古墳ばかりでなく丹後半島全体に記紀以前の古代ロマンを誘う伝承・伝説は多い。ここにもちゃんと,宮津の北の伊根町に,浦島太郎(浦嶼子)の 「宇良 (浦嶋) 神社」 があるのだ。そして,天女が衣を脱いで水浴びをした池が残る 「羽衣伝説発祥の地」 があり,天女と伊勢外宮の祭神トヨウケヒメの関係を伺わせる伝承まである。(いずれも『丹後国風土記』逸文)あの子どもの頃から絵本で見慣れた竜宮城の景色や乙姫さまの装束,天女の羽衣は,日本海を隔てた向かいの国のものに違いないのだ。そしてこの丹後半島の日本海沿岸から丹波北西部の山陰道にかけての沿道には,間人の近くの竹野神社,舟木の奈具社(宮津にもあり),峰山の比沼麻奈為神社をはじめとして,宮津市や大江町に 「元伊勢」 と称する天照皇孫系の由緒ある立派な神社がいくつか存在し,大和中央政権成立に関わる経路の一つであったことをうかがわせる。

  生野の道の話から,とんでもないところまで飛躍してしまった。時にはこういう空想を巡らすことも愉しいものである。学生時代に初めて丹後半島を巡って史跡や伝承に触れたとき,自身,裏日本(但馬)の育ちでありながら 「なんで裏日本のこんなところに?」 と怪訝に思ったことが,懐かしく思い出される。北九州だけでなく出雲も丹後・若狭も古代の表日本であることに,当時は思いが至らなかったのだ。

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こ れ ぞ 元 祖 ・ 鳥 居 ニ テ ?

  最近,ふと思い立って右京区太秦 (うずまさ) の 広隆寺 (蜂岡寺,太秦寺) を訪れた。秦 (はた) 氏建立 (寺伝では603年,推古時代) の,聖徳太子と縁りがあるという寺院である (現在は真言宗)。50年以上も昔,学生時代に京都で下宿生活を始めて最初に訪れた寺である。転入手続きのために右京区役所に赴いたら,すぐ隣 (= 当時) の立派な山門が,あの美しい国宝一号の 弥勒菩薩半跏思惟像があると高校の日本史で習ったばかりの広隆寺だったのだ。

  正直言って当時は気にもとめなかったのであるが,ここは,京都にある大部分は9世紀以降 (平安・鎌倉・室町) の他の寺院とは少し趣が異なる。創建は平安京遷都 (794年) より200年近く古く,同時期の法隆寺の偉容こそないが古色蒼然とした雰囲気を未だに留めている (写真左)。境内の一角には聖徳太子が建立した宮 (桂宮院) という,法隆寺の夢殿と同じ八角堂があるのだが,今は非公開になっていた。聖徳太子と縁りがあるとすれば,寺そのものではなくこの宮であろう。塀の外から,それらしき屋根が揺れる竹藪の隙間に垣間見えるだけである。こちらはあきらめて,弥勒菩薩像だけ半世紀ぶりに拝観させていただいた。新羅からの渡来ものと言われてきたが,材質の調査により国内で (おそらく渡来工人により) 制作された可能性もあるということだ。いずれにしても当時,これだけの美的感覚と技があったことに感心する。

太秦寺?     Trinity?

広隆寺(太秦寺)(左)と木嶋神社(蚕の社)の 三柱鳥居(三位一体説トリィニティ』の象徴? もしかして鳥 居トリイの原形?


  訪れる前に宝物館 (霊宝殿) の開館時間をネットで調べていたら,実はこの聖徳太子縁りの広隆寺も景教の寺 とする記事が見つかった。蜂岡の 「蜂」 は 「波斯(パーシ,ペルシャ)」,「太秦」 は 「大秦」,つまりペルシャ地方にも及んでいた 「大秦国 (ローマ帝国)」 のことだそうな。そう言われれば確かに 「大秦景教」 (※)と習った記憶はあるが,にわかには信じる気になれない。単純に,長安にあった景教寺院 「大秦寺」 と 「太秦寺」(うずまさでら) が混信しているだけではないんかい,と思いたくなる。しかも歴史本では,大秦景教が長安にもたらされたのはもう少し後の唐代 (7世紀中頃) となっている。[※ 『大秦景教流行中国碑』 が密教・高野山にあるのだから謎めいてくる。まさか空海が担いで帰ってきたわけでもあるまい? 実は同じもの(レプリカ)が京都大学総合博物館にも常設展示してあって,そうでもなければ50年以上も昔に習ったことを私が覚えていることもない。]

  ただ,広隆寺から歩いて数分の距離にある,同時代のやはり秦氏縁りの 木嶋神社 (このしまじんじゃ,蚕の社) の入り口正面の由緒板には,ここにある 「全国唯一 (※) の三柱鳥居(写真右)は景教 (キリスト教のネストル派,約1300年前に日本に伝わる) の遺物ではないかという説がある」 と堂々と書かれていた。三柱が 『三位一体説Trinity )』 を象徴しているというわけだ。秦氏はかなり早い時期に渡来して山背盆地を中心に棲みついた西方系(ヘブライ)の部族であり,古代の日本の文化や経済に多大な影響を与えたという説もある。ともかく,当時の支配層は現代よりよほどグローバルであったことは否めないだろう。当時の人々がこれを囲んでどんな装束で何を行っていたのかと思い巡らすだけでも,背筋がぞくぞくとしてくるオブジェではある。[(※)対馬にも同様のものがあるそうだ。]

  いずれも GW 中にもかかわらず観光客は疎らで,近くに出来た映画村の方がよほど賑わっている様子だった。こうした京都盆地に残る 1200年の古都 以前の寺社・史跡を巡るのも一興である。8世紀末,桓武天皇が坂上田村麻呂の案内で東山の将軍塚から眼下を偵察した結果,794年,この山背北部の無人の原野に 「四神相応の地」 として忽然と都が出現した訳ではない。肥沃な盆地には縄文・弥生の太古から人々が穏やかに住みついていて,盆地周辺部には多くの遺跡が見つかっている。とりわけ盆地西部の嵯峨・太秦あたりは葛野の県 (かづののあがた) と呼ばれ,すでに古代から繁栄していた様子が古事記の 「ホムダワケの宇治・近江紀行」 (応神,5世紀か?) にも,ごくさりげなく国見歌として出てくる。私の記憶では『古事記』に京都市域が登場することは殆どない。この地で殖産により財をなした渡来人の秦河勝は,経済的・政治的に聖徳太子の後ろ盾だったと言われている。

  思いつくままに挙げるなら,市内ではやはり聖徳太子建立(*)と伝えられ平安京造営時にはお先にそのど真ん中に座していたという 池坊の六角堂,京都盆地の東北の際・上高野の山中にあり賀茂社発祥の地として「紀元前(?)の神事」の由緒書もある御蔭神社(現在は下鴨神社の境外摂社で,葵祭に先立ち御霊を迎える御蔭祭礼が行われる),境内に(縄文時代の祭事跡と言われる)縁結びの「縄文石」が鎮座し創建は神代 (オオクニヌシの出雲王朝時代?) とされる東山の地主神社,少し足を伸ばせば上記の古事記に出てくるウヂノワキイラツコの宇治上神社...。実は神社にはその部類に入るもの(考えてみれば殆どがそうで,大和政権支配以前の天照皇孫系でない土着・先着の神々)が多いのであるが,観光客であふれかえる上賀茂・下鴨両社や八坂神社(祇園社),松尾大社,伏見稲荷大社などは,その後の平安朝廷や京都町衆の財力で煌びやかに改修され,中には皇室(神宮)系の来歴が上塗りされたりして位も上がり,名実ともに大神社・都の名所と化して古代の名残は失せてしまっている。 北野天満宮はもちろん菅原道真の怨霊が出没した平安時代,平安神宮にいたっては祀られているのは桓武天皇とはいえ,東京遷都後に創建(1895年) された新参である。
(*)権威づけのため「聖徳太子建立」と称する寺院は各地に存在するが,初代住職が遣隋使で知られた小野妹子(池坊の始祖)であるとされることから,時代的には矛盾はないだろう。

  ついでに立ち寄った嵐山で,「平安神宮へ祈願に行きたい」 と行き方を尋ねられた母娘づれに対して,その日の古代体験の余韻で,ついつい 「さあ,あそこは霊験ありますかねぇ?」 と口走ってしまった。嵐山から丸太町通りを東に向かう同じバスに乗ったのであるが,帰宅してみたら我が家の台所の壁には神宮のお札が,しっかりと貼ってあった。氏子という意識はないが,確か町内会費から幾ばくかの初穂料が納められている見返りのお守りだ。


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生野/死野 ただし,遅くとも記紀・風土記編纂が行われた奈良時代の初めには既に「生野」であった。----- 当時の生野は但馬ではなく播磨の神前(かむさき,神崎)郡に属していたらしい。『播磨国風土記』 「神前郡」の冒頭には,例のオオナムチ(オオクニヌシ)とスクナヒコナの我慢くらべ,「堲岡」(はにおか,埴岡)と「波自賀」(はじか,初鹿野)の地名の謂れのバッチイ話が出てくる。次いで生野,「昔,荒ぶる神がいて通りかかる人々を半ば殺してしまうので死野(しにの)といった。名前が悪いので,品太(ホムダワケ,応神天皇)の勅により生野と改めた」と続く。「荒ぶる神」は常套句のようなものだが,「死野」という表現からは,人的な危害というより「○○地獄」のような天然の難所が連想される。後世には露天掘りも行われたというから,イオウ化合物(黄銅鉱)や重金属イオンが滲出し,草木が育たず獣も棲まない谷あいがあったのかもしれない。当時,鉱山が開発されていて既に目立った鉱物(銀・銅)の産出があったのであれば,中央政権による風土記編纂の指示に従い記録されたであろうが,開発されたのは100年ほど後の平安初期・大同年間と言われている。生野のさらに奥の粟鹿山南麓(今は黒川ダム)を源流とし生野・神崎を通って瀬戸内海に向かう市川は,かつて流域でカドミウム汚染とイタイイタイ病患者が報告されたが,確か富山県の神通川流域以外は厚生省の認定には至っていない。私が高校生の昭和30年代には,まだ,播但線の生野と長谷の間の流れの澱んだところでは不気味な緑白色に濁っていたのを覚えている。反対側の北へ向かう円山川にも緑白色の小さな沈殿用ダムが通学の車窓から見えた。 もどる

丹波街道 この道が山陰道(山陰表街道)になったのは江戸時代であり,古代から平安の山陰道(山陰裏街道)は,洛西の大枝,亀岡から西へ向かい,兵庫県・南丹波の多紀(篠山)・氷上を通って朝来の粟賀から但馬に入り梁瀬で合流,あとはほぼ現在の国道9号線沿いに養父,村岡を経て因幡に通じていたらしい。氷上から北上して京都府の丹波・福知山へ入り,北へ大江,与謝,丹後国府の宮津と向かう道,北西へ但東,出石,但馬国府の日高という支道もあったというが,いずれにしても丹波の生野の里は通らない。  もどる

生野の変 今でも 「生野義挙」 と呼ぶ人がいるが,これは 「官軍」 薩長政府が後世に作り上げた価値観によるものであり,最近の歴史の教科書では使われない。私は「 維新の魁(さきがけ) 」として決起を誇りとする旧朝来郡・生野町にあった高校に通っていたにもかかわらず,歴史の授業で学んだときから何が 義 か納得できず違和感があった。----- そもそも開国に踏み切った幕府に対抗して「尊皇攘夷」を旗印にし,テロ・放火を欲しいままにしていた潮流が「攘夷」の旗を捨てて連合し辿り着いたのが明治維新と「文明開化」であった。「外国からの侵略を防ぐ国力が備わるまでの攘夷は正しかった」というは後付けの美化に過ぎず,むしろ欧米諸国の近代文化や共和制などの政治事情を把握し,洋式艦船の建造力を備えるなど,幕府方の方が国防と開化に先んじていた。----- とまれ何が悪で何が正義か混迷を極めていた時代であることは,田舎の高校生でも容易に理解できたのである。もちろん佐幕が義と考えたわけでもない。近代的な民主主義と国民主権の思想が台頭し浸透していくのは維新よりずっと後である。維新により庶民の心が開き,夜明け前の気運が芽生えたことは否定しない。

  「七卿落ち」 の急進派公家,澤宣嘉を担ぎ上げた尊皇派浪士たちと,当時,天領・南但馬(朝来郡,養父郡)の豪農(大庄屋)に組織されていた農兵は,兵の手薄な生野代官所を一時 占拠したが,天領の南北に隣接する出石藩・豊岡藩と姫路藩から鎮圧兵が出立したと聞くや公家・浪士たちはいち早く遁走した。首謀格の福岡藩士・平野国臣は決起の前に天誅組の壊滅を知り,自重論を主張して急進派を説得したが時すでに遅かった。兵の解散後,山陰道を鳥取藩に脱出途中で逮捕されて伏見奉行所へ送られ,六角獄舎の火災の際に未決のまま処刑された。農民たちは山口の妙見山に立て籠もっていた元長州奇兵隊幹部・南八郎(河上弥市)などの急進派の浪士に逆襲,罵倒して射殺あるいは自刃に追い込み,動員をかけた大庄屋に対しては打ち壊し一揆で酬いて帰村したという。郡内から徴兵した農民を近代戦の新兵力として費消する武士の特権意識を捨てきれなかった浪士たちの自壊であった。

  このことは,大学に入って故郷を離れてから知り衝撃を受けたのであるが,私の少々ヘソ曲がりで疑り深い根性は,こういう農民のDNAを継いでいるせいかもしれないと思ったものだ(※)。 幕末から明治初期にかけて,幕府にも維新政府にも与しなかった第三の勢力 「世直し一揆」「打ち壊し一揆」 の源流を見て取れる。すでに幕末のこの頃にもなると,とりわけ天領の農民「御百姓」を中心に広く学問が普及するとともに農兵組織も公認され,武士・貴族階級を畏れない風潮が遍く浸透していたという。ただし,これは農民階級の権利意識の高揚ではあっても平等思想にはまだ遠く,一揆の竹槍や鎌は常に権力者・支配層に向けられるとは限らなかったようだ(山田 栄『播但一揆』神戸新聞出版)。

  [ ※ 16世紀末の赤松氏時代に竹田城下街を興す際,丹後の宮津から移ってきた旅籠屋の傍系らしいことを,先日,明治初期の古地図で確認した。当時のご先祖様が決起に参加したかどうかは不明であるが,少なくとも伏見奉行所へ送られる逮捕者の一人(庄屋の一人だろう)が囚人駕籠を玄関先で止めさせて挨拶を交わした程度には熱心な支援者であったらしいことは,親戚の古老から聞いたことがある。曾祖父は幕末の京でも修業した明治の大工,祖父は大正〜昭和の最盛期に養蚕業を営み,私の名前を尊敬する「博文」にするよう主張したという。幼少のころにはまだ屋号「車屋」が通用していたが,確かに軒下には水車の動輪や機械油まみれの木製の車軸が,庭には米つき用の石臼が何個も転がっていて,手水鉢だけでなく川で捕まえてきた小鮒の水槽にもなった。竹田の同期生なら見当がつくと思うが,裏の用水路の傍にあった東町角の平屋が元水車場で,叔父の代に養蚕場と一緒に解体されて駐車場に変わり,この現代の車屋は遺産処理で現地の東町地区に移管した。] もどる


丹後国府/藤原保昌 この時,母親の和泉式部は丹後の国府に赴任した夫に添って 宮津 に移り住んでいた。小式部の父は和泉守 橘道貞 であるが,和泉式部が宮津まで着いていった夫は丹後守 藤原(平井)保昌 らしい。 ----- 夜の都大路を悠然と笛の音を流しつつ凶賊・袴垂を威圧して邸まで連行したり,源頼光とともに大江山の酒呑童子討伐軍を率いた豪勇の武装貴族にして『後拾遺和歌集』にも載る風流の歌人,祇園祭の 保昌山(花盗人山)に浮名が残る。和泉式部の 「最後の夫」 と聞けば,この姿はさもありなんと言ったところだ。この1000年以上も昔の艶話をネタにしたデコレーションを担いで都大路を練り歩いた京町衆の諧謔精神も見上げたものである。すでに200年以上も前の作品であるが現代にも通じる風情である。この山のお守りは(とりわけバツイチの?)縁結びの御利益があるという。 もどる

山陽道・山陰道 今では丹後の宮津と京都を結ぶ 京都縦貫道 が沓掛 IC から名神・大山崎 JCT へつながっている。ここから南が平安京以降の山陽道である。古代の山陽道は,まず飛鳥・奈良から木津川沿いに北上し,河内の交野・枚方を経て樟葉で淀川を西へ渡り,山崎より少し南の摂津・三島(高槻の北,島本町) あたりから西南に向かったらしい。 現代の感覚では山陽道と言えば大阪を通るように思われるが,大阪は当時まだ難波の海であり,河内側は枚方市まで,摂津側は高槻あたりまで淀川河口の潟が入り込んでいた(枚方=平潟)。 上町台地の北端・大阪城の東から東大阪市の主要部も深い入江 (河内湖) であった。放出(はなてん)あたりが河内湖と難波の湾の軛であったらしく,設けられていた水門を開ける際に「放て!」と言ったとか言わなかったとか。一方,山陰道は,大枝・沓掛から少し南下して山崎から淀川を東へ渡り,淀のあたりから京都の南の久世(久御山・城陽) を経て南山城で山陽道と合流,奈良・飛鳥へ向かったらしい。 もちろん,まだ京都(平安京)は通らない。大阪府との境の八幡市,平安京の裏鬼門に鎮座する石清水八幡宮の男山に登れば,木津川・宇治川・桂川が合流して淀川となる,古代交通の要であったこのあたりの地勢を眼下に眺望でき,その奥に三方を山で囲まれた平安京の広がりが見てとれる。 京阪電車と男山ケーブルを利用すれば,京都市街の中心から30〜40分で展望台まで行けるので旅行者にもお薦め,八幡宮 の本殿も最近国宝に指定されたところで,一見の価値はある。 もどる

丹後王国 当時なら 丹波王国 か?律令制以前の古代には,現在の丹後・丹波,ある時期には但馬もあわせて丹波(たには,田庭)であり,令制による丹後の国が分離されたのは奈良時代に入ってからである。(私が子供の頃には現・兵庫県と京都府成立以前の結びつきの名残か,まだ 三丹丹,丹,但)という地域概念が流通していて,朝日か毎日の地方面で「三丹版」というページがあったように思う。)古事記には「タヂマ」は出てくるが「タンゴ」はなく,「タニハノ何々」と出てくる地名や人名の場合,丹後を指すことが多い。現に丹後の峰山町には,古代から継がれてきた由緒ある「丹波」という地名(字)が存在する。いずれにせよ丹後地方に,強力な豪族が支配する,農水産物・鉱物資源に恵まれ,稲作や製鉄技術に支えられた豊かな王国があったとする説(門脇禎二)があり,地元 ではしっかりと定着している。飛鳥・河内王国の支配圏が拡大するにおよび,吉備の鬼退治や出雲の国譲りのように,いずれかの王のときに併合が進み,間人皇女,厩戸皇子,...と中央政権内に一定の勢力が出来上がっていたのかもしれない。伊勢神宮外宮の食物を司る神・トヨウケビメは,タニハで初めて稲作や養蚕・機織を伝えた神であり,「田庭(たには)」は稲作の開始を意味するという(『丹後国風土記』逸文,羽衣伝説の天女とも)。 古事記では神代の神でイザナミの孫にあたるとされ,天孫降臨に従った神々の間に「度会(わたらい,伊勢)に座す」とチラと出てくるだけでタニハの記述はない。外宮の社伝には丹波の真奈井の神(峰山の比沼麻奈為神社?宮津の元伊勢・籠神社奥宮?)と書かれているそうだ。仮に対応する実在のモデルがいたとするなら,風土記逸文の記事だけでも渡来人であることを窺わせるのに十分である。 ----- 一時,摂津の国にも赴いていたという(『摂津国風土記』逸文)ことだが,トヨウケは「豊かな食物」,要するに豊穣の神だから普通名詞のようなもので,どこの地方の伝承であってもおかしくはない。「豊岡姫」と書かれる場合もあることは,先の三丹との関わりで但馬人の私には気になるところだ。----- 王国やその人脈が仮に蘇我氏系であったとすれば記紀では省かれた可能性があるが,丹後・丹波地方に残る「元伊勢」と称する幾つかの神社の風格は,一概に単なる神話・伝承だと切り捨てることができない,侮り難い存在感を醸している。
  もちろん,以上の話はすべて逆で,飛鳥・河内王朝のいずれかの勢力による支配が,稲作の普及を伴ってタニハに浸透していった形跡である可能性も十分あり得るが,裏日本出身の人間としては日本海・表日本論の方が,よほど心地よい。
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はしひとひめみこ 「間人穴穂部皇女」 と書かれていることもある。「間人」は「土師人」「埿部」とも。「穴穂部」が何を指すのか理解できていないが,「倭の五王」の一人,安康天皇がアナホ(穴穂)となっており,記憶の限りでは王位継承に際して最も血なまぐさい抗争が記述されている王の一人である。元々その部を継いだ一族を指すのであろうが蘇我氏との関係がわからない。なお,用明より5代あとの,大化の改新の詔 (646年) を発した孝徳天皇の后の名も,手元にある「古事記」の解説(付表)では「 間人皇女 」となっているが,蘇我氏と物部氏の抗争なら,およそ60年前の用明天皇の時代である。しかし伝承が語り伝えられる間に,聖徳太子の母という,より有名人へと変わってしまった可能性もあるかもしれない。(もっとも孝徳后の方が同母兄・中大兄皇子とのスキャンダルで有名かもしれない。)現地には, 伝承を受け継いできた現代の里人により,日本海の西の方向に向かって手を合わせる 母子像 まで建てられているのだ。 ただし,通説では聖徳太子は乱の当時はすでに成人し,蘇我氏側で参戦していたと言われている。

  はしひと は,「 漢人 (アヤヒト)」 の伝で 「 波斯人 (ハシヒト)」 パーシ人()すなわちペルシャ人とする俗説もある。ここまでは 「うまい!」 と感心するが,皇女は古代のクリスチャンで 「間人=マレ゛ン」,その子が 「厩戸 (馬小屋) で生まれた皇子」で,長身だったかもしれないが 「聖徳 (セイント)」 とまで来るとお粗末,こじつけがひどすぎて引いてしまう。太子の「トヨトミミ」は多人数ではなく国際人として多言語を聞き分けた聡明さを言ったのかもしれない。[ 古代の「は」音は摩擦音ではなく上下唇を合わせる破裂音「ふァ (hua)」(前歯を下唇に当てる fa に非ず)ないし「うゎ」だったという話を学生時代に聞いた記憶がある。「波」だけでなく「葉」「歯」「羽」「破」など「は」「ぱ」「ば」(「わ」)の読みをもつ字の「は」は全てこれであろう。]

  しかしながら,この時代,あるいは遡る時代の渡来系の支配層の中に中央アジアや西アジアの人々がいたこと,松本清張が 『火の路』 で提起したペルシャのゾロアスタ教 (拝火教,けん教 )や,さらにはペルシャ・中国経由の古代キリスト教 (景教) の影響があったことは,あながち否定はできないだろう。[なお,ゾロアスター教の末裔を「Parsi 人」と言うらしく,「ハシヒト」はこちらかもしれない。後の方の 間人皇女 は,『火の路』で拝火教の祭事に関わる石と水の施設の土木工事を盛んに行って顰蹙を買ったとされている,女帝・斉明天皇の娘だ。]これらを異説と感じてしまうのは,仏教の普及や後世に育まれた 単一民族 観,島国根性のせいに違いないからだ。仏教が国定化して遍く定着するのは,もうしばらく後の奈良時代になってからである。同時期に記紀が編纂されて,時の反蘇我氏系の権力者の影響下でそれ以前の 「古代史」 は都合よく創作されてしまった。残存する風土記も,時の中央政権に対する忖度が露骨である。
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