ハーグ・レポート
松谷英子さん、牧山敬子さん、中村照美弁護士の3名は、5月21日、無事10日間にわたる国際会議参加と視察・交流の旅から帰国しました。
松谷さんは「つたえようヒロシマ、ナガサキ」の80名のメンバーに支えられ、会議の各企画で参加した多くの被爆者の方々とともに今も癒(い)えることのない苦しみを語り、核兵器の廃絶を訴えてきました。
松谷さんは「世界各国の若者たちに、私の54年間の苦しみを熱心に聞いていただき本当に良かったです。参加した甲斐がありました。お世話になったお一人お一人にお礼申し上げます。」と語っています。
募金をはじめ物心両面にわたりご支援ご協力いただいたことにお礼申し上げます。
「戦争のない21世紀」をテーマに今世紀最後の国際平和行動となった「世界市民平和会議」は5月12日から15日までオランダ・ハーグで開催されました。長崎原爆松谷訴訟を支援する会は原告松谷英子さん、事務局から牧山敬子事務局次長を派遣し、弁護団の中村照美弁護士とともに被爆の実相を世界中の人々に伝え、二度と再び核兵器の使用を繰り返させない為に、そして唯一の被爆国でありながら原爆被害を我慢しろという日本政府の姿勢を訴えようと参加しました。世界各地から100カ国、790余りのNGO団体、8000人以上が参加しました。
会議は国際平和ビューロー、核戦争防止医師会議、反核法律家協会、世界連邦の呼びかけで、戦争や紛争の根絶、核兵器の廃絶、平和と文化の創造をかかげ、行われました。
日本からも様々な団体から400名をこえる参加者がありました。松谷訴訟の3名は“つたえよう、ヒロシマ・ナガサキ”の共同代表団の一員として行動しました。
5月11日、成田からオランダのアムステルダムへ向け出発しました。約11時間でアムステルダムのスキポール空港に到着。松谷さんは初めての海外旅行、機内では多少窮屈でしたが、退屈せず過ごせました。空港からバスで約1時間、ハーグに着きました。
車窓の景色を「まるでハウステンボスだね」と感心する松谷さん。
12日9時30分から開会式がコングレスセンターのウィリアム・アレキサンダー大ホールで行われましたが、一国、一団体2名分の入場券しかなく、私たちは同センターの別会場で参加する形となりました。初めての国際会議で同時通訳のイヤホーンをつけ聞き入る松谷さん。アフリカ大陸をわたってきた平和のトーチ入場から始まり、ミャンマーで軟禁状態になっているアウンサン・スーチンさんのビデオメッセージ、南アフリカのツツ大司教のスピーチなど次々と世界各地で平和を勝ち取るためにたたかっている発言が続きました。
午後は早速、“つたえよう〜”企画のセッションが2つあり私たちは「つたえよう被爆者の証言」に参加しました。50〜60名しか入れない会場は各国の参加者ですぐいっぱいになりました。ここでは4名の日本の被爆者が証言しました。さらにアメリカのガリスコさんや韓国のチェさんが自己紹介しながら被爆証言をしました。初日から入りきれないほどの参加者に被爆問題に対する関心の高さが伺えました。
“つたえよう〜”代表団はこの会議の期間中、展示場で「原爆と人間展」を開設し、3日間で延べ2500人をこえる参加者が立ち寄りました。松谷さんは自身の証言の英訳版や支援する会作成のポストカードを「プリーズ」と声がけしながら渡しました。またアメリカから来た子供たちや各国の若者たちに囲まれ写真におさまりました。
13日午後からの「世界のヒバクシャの証言と核兵器廃絶の呼びかけ」のセッションは定員の倍近い200名が参加し床に座り込み、または立ったまま熱心に聞き入っていました。しかも半数以上が海外の若者です。
この集会には被爆者の代表として松谷英子さんをはじめ、肥田舜太郎日本被団協中央相談所理事長、韓国のチェ・イル・チュルさん、マーシャルのノリオ・ケベンリさん、アメリカのアンソニー・ガリスコさん、風下住民のクローディア・ピーターソンさん、さらにカザフスタン、仏領ポリネシアの核被害者が訴えました。
松谷さんは長崎の被爆者として54年間続く被害の実相を切々と語りました。また、国を相手取り国家補償を求めて裁判をたたかっていることを訴えました。司会の安斎育郎先生は「価値観は事実を知ることによって作られる。今日はヒバクシャの事実を知ろう」と呼びかけました。松谷さんの話を身を乗り出して聞く若者、涙ぐみじっと松谷さんを見つめる若者。松谷さんの「皆さんとのすばらしい出会いで生きている喜びを与えてもらいました。今が青春です。」の言葉に大きな拍車が沸き上りました。
この集会後カナダのTV局から松谷さんに「ドキュメント番組」の取材の申し入れがありインタビューに答えました。
14日にも反核法律家協会主催の「ジャパンデー」の第2部で被爆証言を行いました。ちょうど「ジャパンデー」で松谷さんが証言しているころ、前日の被爆者の証言に共感したアメリカなどの青年が提案した国際司法裁判所までのデモ行進が200名以上の参加により行われました。
15日閉会式は開会式同様別会場での参加になりましたが、スクーリンに映るメインステージ上の参加者は圧倒的に女性が多く、会期を通じ女性と若者のパワーを強く感じた会議でした。
今回のこの会議では日本国憲法第9条のような政策を世界の政府がおこなうこと、核兵器廃絶条約の速やかな交渉を開始することなどを盛り込んだ10項目の行動を提起し終了しました。行動提起は国連と各国政府へ提出され、実行を求める運動が始まります。核兵器廃絶を目指す運動に強力な世論が加わったわけですが、開会総会で広島、長崎市長が紹介されただけで、開会、閉会総会のメインステージに被爆者が立ち、原爆被害と核兵器廃絶が訴えられなかったことが残念でした。
世界市民平和会議終了後、オーストリア、ポーランドへ
ウィーンでは...
ウィーンの中心地にある聖ステファンス教会前で共同代表団は「原爆と人間展」を開催し、松谷さんも自分のパネルを掲げ参加しました。この日は風が強く寒い日でしたので、寒さには強い松谷さんもこの日はスカーフを頭にかぶりました。その後、地元で15年前から活動している平和組織「ヒロシマ委員会」と交流し、松谷さんは裁判について話をしました。また、ウィーン市内にある抵抗資料館を訪問し、ヒトラー時代のオーストリアの状況や、現在のネオナチスに対する活動などについて話を聞きました。
ポーランドでは...
古都クラクフに近いアウシュッビツ強制収容所と博物館、ビルケナウ収容所を見学しました。アウシュッビツ博物館では様々な被害を目の当たりに見て言葉になりませんでした。元館長のスモーレンさんとも懇談ができ、1940年から解放される45年までの60ヶ月に及ぶ収容所生活について聞きました。「日本人の団体は時間が短すぎる。詳しく話すことができない。」と言われながらも、恐怖の生活の中で仲間との連帯感、互いの信頼感、そして母を助けるために生き延びたことを語ってくれました。想像することのできない話でした。
アウシュビッツ第2収容所でもあるビルケナウ収容所は鉄道の引き込み線が収容所奥深く続く広大な面積の収容所です。写真や映画で目にしたことのある引き込み線のある収容所の門から見渡すと180度の視野全部が収容所で林立する煉瓦造りの煙突が不気味でした。
スモーレンさんが言うようにもっと時間をかけ見学すべき場所と思いますが、胸のドキドキを考えると長くは見学できない場所でした。
松谷さんは「ちゃんと残しておくところがすごかね。」と一言。
最後はワルシャワ市内見学です。中世の街並みの残る市内はドイツ軍に徹底的に破壊し尽くされましたが今では、緑の大変美しい街になっていました。戦後、旧市街地だけは17世紀の建物を復元したそうです。
具合の悪くなることも事故もなく無事、21日の夜長崎に帰ってきました。
世界市民平和会議および平和の旅に派遣して頂き有り難うございました。
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番外編旅日記はこちらです(未完)
不当な厚生省の上告に対し、怒りをもって抗議し、ファックスまたは葉書で上告取り下げを要求しましょう。
宛先: 厚生大臣 宮下創平
東京都千代田区霞ヶ関1-2-2
03(3502)3090
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