世界市民平和会議に参加して

各国の若者に54年間続く苦しみをわかってもらえて

長崎原爆松谷訴訟原告 松谷英子

 5月12日から15日までオランダ・ハーグで開催された「戦争のない21世紀を求めて/第3回世界市民平和会議」へ参加するにあたり、全国の皆様には派遣募金をご協力頂きましたことに感謝しお礼申し上げます。
 ハーグ行きの話があった時、日本を離れたことのない私としてはどうすべきか。私が参加することで皆様に迷惑をかけることは目に見えて解っているので色々と考えましたが、世界の人々に「被爆の実相を伝え、核兵器の廃絶をめざすため」の証言をすることが核兵器廃絶への取り組みになるのだと思い参加させていただくことにしました。
 つたえよう被爆者の証言で私は被爆後54年間の苦しみ(特に毎日生活していくための大変さ)とこの障害を原爆症と認めてもらうために裁判を起こし、長崎地裁、福岡高裁(どちらも勝訴)、現在最高裁へ上告され最高裁でも三度勝利するようにがんばっていると話しますと、話を聞いた若者たちが目にいっぱい涙を浮かべていました。
 各会場ごとに被爆者の話を聞いた各国の若者たちが「核兵器ノー」「ゲンバク、ハンタイ」などと叫びながら国際司法裁判所までデモ行進をして下さったとのこと。この事を最高裁へ提出すべきだと思いました。
 核実験被害者の方々の話の中で、核実験の放射線による深刻な被害で被害者が世界中に広がっていること、その殆どの人がガンで苦しんでいること、核実験の危険性を隠し続けた自国の政府への怒りがわかりました。
 「つたえよう」の「原爆と人間展」には恐る恐るのぞき込むように見ていた人もいました。ブースには各国の参加者が訪れるので「プリーズ」と言ってチラシを渡し、署名をお願いすると殆どの人が署名してくれました。
 事務局および通訳を担当して下さった皆様、大変お疲れになられたことと思います。病気やケガをする事もなく全員が無事に帰国する事ができ、いい想い出になりました。


被爆者の訴えは反核運動の原動力

松谷裁判弁護団 中村照美


 5月6日に弁護団が最高裁判所に提出した書面で、原告松谷さんが車椅子を使ってでも、世界に向けてこの裁判のこと、原爆被害の実相を訴える為に、5月に開催されるオランダ、ハーグでの平和集会に参加し訴えることにしている、と宣言した。
 5月13日開催された「世界のヒバクシャの証言と核兵器廃絶のよびかけ」での松谷さんの訴えは、参加者の心を打つもので、とりわけ若い人々の真剣な姿は感動的で、参加してよかったと思った。
 翌14日、若者が中心になって、ユーゴ紛争での核使用を憂慮する宣言を発表し、国際司法裁判所までデモ行進するという成果を生んだとの知らせは、ヒバクシャの証言が、確実な反核運動をまき起こす原動力になることをあらためて教えてくれた。
 ウィーンで受けた感動は肥田舜太郎先生や市村由喜子さんの努力で、ウィーンに「広島の会」という組織を誕生させ、地道な活動がつづけられているということだった。
 ステファン教会前で、原爆組写真をウィーンの仲間と一緒に掲げると、行き交う人々が熱心に見入り、署名をしてくれた。「広島の会」のメンバーとの交流会では、松谷さんの訴えを身を乗り出してきいてくれた。
 アウシュビッツの前館長スモーレン氏の「民主主義というのは危険な動きをなくしていくことで、例えばネオナチの動きに対しての対応も重勇。また、かつてどれだけの犯罪(ホロコースト)があったかを子どもたちに伝えなければならない。そのことに対する先生、親、マスメデアの役割は大きい」との指摘は、現在の日本に対する警告そのものだと痛感した。
 皆さんの協力で、松谷さんが、初めての海外での行動を無事果たすことができたことを感謝します。


平和な21世紀を私たちの手で

長崎民医連/長崎原爆松谷訴訟を支援する会 牧山敬子


 被爆者松谷英子さん、弁護団の中村照美弁護士とともに被曝の実相を世界中の人々に伝え、二度と再び核兵器の使用を繰り返させない為に、そして唯一の被爆国でありながら原爆被害を我慢しろという日本政府の姿勢を訴えようと参加しました。
 私たちは「つたえよう、ヒロシマ・ナガサキ」の代表団の一員として行動しました。松谷さんは「世界のヒバクシャ証言と核兵器廃絶」をテーマにしたセッションで長崎の被爆者として54年間続く被害の実相を切々と語りました。また、国を相手取り国家補償を求めて裁判をたたかっていることを訴えました。会場は100名定員でしたが、200名を越え、立ち見で会場はムンムン。しかも海外の若者が半分以上参加しています。司会の安斎育郎先生は「価値観は事実を知ることによって作られる。今日はヒバクシャの事実を知ろう」と呼びかけました。松谷さんの話を身を乗り出して聞く若者、涙ぐみじっと松谷さんを見つめる若者。松谷さんの「皆さんとのすばらしい出会いで生きている喜びを与えてもらいました。今が青春です。」の言葉に大きな拍車が沸き上りました。
 会期中、大ホールにて「原爆と人間展」が開催され、松谷さんは参加セッションがない時はここで見学に訪れる各国の参加者に「プリーズ」とチラシや絵はがき、折り鶴を配りながら多いに交流しました。
 私は民医連の医療現場で人権を守ること、反核、平和の運動や、松谷訴訟をしていてその中で少しは被爆者の事もわかり、地域でも運動をしているのですが、世界各地でこの平和会議をしているうちにも殺され、傷ついている人々の実際の姿が発言の中でどんどん迫ってくるのです。私は何をしていたんだろうと自己嫌悪に陥りました。
 ウラン鉱山で働く坑夫の家族の涙ながらの訴え、南太平洋フランス領での核実験被害者の怒り、地雷で左足を無くしたカンボジアの少女、そしてアウシュビッツで見た強制収容所のユダヤ系の囚人達が植た、今では天までも届くかのように伸びた木々。ビルケナウ収容所の広大な跡に林立する煙突。どれをとっても胸を鋭く刺されることばかり。
 97年にノーベル平和賞を受賞したジュデイ・ウイリアムさんは「自分に対し自分が平和をもたらすのです。行動のない気持ちだけでは役に立ちません。私たちこそが将来そのもの、行動を起こさないなら将来はありません。行動をとることしか手段はないのです。」その通りだと思いました。
 松谷さんも不自由な身体で海外まで行き訴えるの本当に大変でした。でもジュデイがいうように行動をとることしか手段はないのです。会議で話されたことと松谷さんとともに行った今回の行動が一致し、本当の意味で「私たちの手で平和な21世紀を」迎える行動をしていかなければならないと思いました。
 帰国後、次々と、戦争への準備を進める法案が国会を通過し成立していき、自分の無力さに追い撃ちをかけられましたが、行動するしかないと言い聞かせる毎日です。
 松谷さんが無事長崎に帰りつき私の肩の荷が下りました。松谷さんの原告という肩の荷を一日も早く下ろせるよう今後のご支援宜しくお願い致します。