ハーグでの松谷さんの証言
54年前の8月9日、当時三才五ヶ月だった私は爆心地から2.45km離れた自宅の庭先で被爆しました。すさまじい爆風、熱線、放射線に襲われ、飛んできた屋根瓦が頭を直撃しました。傷口は二年半もふさがらず、傷口からは魚の腐ったようなうみがで続け、ようやく傷口がふさがり、わらぞうりをはいて歩く練習が始まったのは六才でした。
よく歩けないため、一年遅れての小学校入学。坂の町長崎。私の通う学校は階段を107段ものぼります。天気の良い日は姉に手を引かれ、雨の日は母に負ぶわれての通学です。足が不自由なため、ごっちん(長崎の方言ですが)、ごっちんごごにじゅうごと、はやされたり、真似されたり、辛く悲しい思いをしました。母に「原爆を受けたばっかりに何で私がこんなにいじめられんばならんとね。」と当たったりもしました。
授業中に頭が痛くなり、ひきつけを起こすこともありました。六年生位からようやく一人で通学できるようになりました。ひきつけは中学生まで起きていました。
先を案じた母のすすめもあって習い始めたそろばんはなかなかうまくいきません。私の右手はソロバンには役に立たないのです。検定試験に何度も落ち、そのたびに母に励まされ、ようやく高校二年の時、二級の検定試験に合格しました。その資格を生かし、高校卒業後は「長崎原爆被災者協議会」で経理の仕事をしていました。
私の右手は、肩より上にはあがりません。指は変形していてハンカチや紙をつまみあげることも出来ません。左手ばかり使うので右手のふたまわりぐらい大きいのです。
りんごの皮などむくときは、まず四分の一に切って、右手に持たせてお腹にはさんで左手でむきます。手元が狂うととても危険です。
また左手の爪を切る時は、カミソリを右手に持たせて左手を動かしながら切りますが指を切ってしまうこともあります。
ヒモを結ぶ、ビンのフタを開ける、洗濯物を干すなどみなさんが当たり前にしている生活動作のあらゆる面で不自由さを強いられ、危険な目にあっています。
私の右足は変形していてかかとが下につきません。親指とその次の指も浮き上がっていて、地面につくのは残りの三本の指だけです。身体の重心がその三本の指と裏側だけにかかるので皮膚が硬くなり、針でさすようないたみがあります。
だんだん変形がひどくなり、靴は注文して右足の底に厚みをつけてもらいます。最近は歩くのが辛く、裁判支援の訴えに出掛ける時は車イスを使います。今回も車イスを日本から持ってきました。
若いころは、結婚の話もあり、好きな人もいました。でも結婚してもうまくいくはずがない、被爆者でこんな身体ではと、あきらめました。
夢の中でかかとの高い赤いハイヒールをはいて、さっそうと歩く私、でも目が覚めて現実の自分に戻った時の辛さ、くやしさ。こんなにも心と身体に苦痛を与え、私の人生を踏みにじった原爆を憎みます。そして私の身体を見ることもなく原爆の放射線とは関係ないと言いきる国、厚生省を絶対に許すことは出来ません。
生活の不安がなく充分な治療を受ける為には原爆症の認定が必要なのです。
私は被爆時の頭のケガと放射線の影響による脳孔症のため54年間にわたり右半身不全マヒという障害に苦しんできました。
この障害を原爆症と認めてほしいと認定申請をしました。ところが厚生省は認定してくれませんでした。私は涙をのんであきらめました。
その10年後、行く末を案じた母が「私が消えてしもうたら、この子はどうなるやろ。私の生きとツうちに認定してほしかとです。」と2度目の申請をしました。本当の姿を見ないと分かってもらえないとスリップ姿の写真も添えました。しかし厚生省の態度は変わらず申請は通りませんでした。
私は国の二度にわたる冷たい仕打ちにどうしても我慢できませんでした。国相手に裁判を起こすなんてとんでもないと思いましたが、母の「苦しんでいるのは英子だけじゃなかもんね。」という言葉に決意し、1988年9月、厚生大臣を被告とする裁判を起こしたのです。
一審の長崎地裁、ニ審の福岡高裁は私の主張を全面的に受け入れる勝訴判決を下し原爆症と認めたのです。しかし厚生省は戦争だったのだから原爆の被害も我慢すべきと判決を受け入れず、最高裁でたたかっています。
長崎地裁、福岡高裁と二度、勝利できたのは日本の善意ある国民の支援があったからです。裁判をたたかったこの11年間いろいろなことがありました。 私をいつも励ましてくれた母は地裁の勝訴判決を待たずに亡くなりました。私自身も入院、手術など具合が悪く、辛い、苦しいことも多くありました。 不自由な身体なので小さい頃から引っ込み思案の上に親しい人以外とは話をすることすら出来ませんでした。
そんな私でしたが、この裁判を通じて今日のように日本だけでなく、世界中の平和をのぞむ多くの方々との出会いは生きている喜びという素晴らしいものを与えてもらいました。私にとっては今が青春です。
まだ最高裁でたたかわなくてはならないことは本当に悔しいことです。54年間の苦痛をなぜ国は分かってくれないのかと腹立たしくもなります。この怒りをバネに最高裁で三度、勝利するまでたたかいます。私だけでなく、8月のあの日から心安らぐことのない多くヒロシマ、ナガサキの被爆者の思いを裁判官に分かってもらえる日まで。どうかみなさん生きているかぎり続く核兵器の被害をわかってください。