合宿

 

ペトロ 晴佐久 昌英

今年のゴールデンウィークに、長野県富士見高原の合宿所で3泊4日の合宿をしました。
半年間使っていなかった施設なので、みんなで庭の草刈りをし、部屋の掃除をし、布団を干し、水漏れの修理をしてと中々大変でしたが、それもまた合宿の醍醐味です。
わいわいと楽しく作業して、お昼はそうめんパーティー、午後は近くの山に登って帰りには温泉に浸かり、夜は庭でバーベキューと、充実した日々でした。
さて、ここでクイズです。
これは一体どういう団体の、何を目的とした合宿だったのでしょうか。
答えは聞いてびっくり、「どういう団体でもない、特定の目的もない合宿」です。
もっとも、正確に言えばいくつかのオマケの目的はありました。
その合宿所を整備するためとか、心の病を抱えている青年の集いの合宿の下見を兼ねてとか。
けれども、18名の参加者の中には、お互いに初めましてという人もいましたし、全体としては「合宿のための合宿」とでもいうような、「純粋合宿」だったのです。
参加者は全員、なんらかの福音家族に参加しているメンバーですから、月に一度はだれかとは一緒ごはんをしている仲間たちなわけで、その意味ではこれは「家族旅行」だと言ったほうがわかりやすいかもしれません。
家族旅行には、団体名も目的もありませんから。
あれは何のためというようなものではない自然発生的なもので、「ねえねえ、今度のゴールデンウィークどっか行こうよー」「そうだな、たまには温泉旅行でもするか」「やったー、バーベキューもしたいなー」とか、そんな感じでしょう。
そう考えると、今回の合宿もびっくりするようなことではないとも言えますが、驚くべきは、それを血縁ではない18名があたりまえのように実現しているという事実ではないでしょうか。
人類は百万年間、血縁を超えた仲間たちで合宿を続けてきました。
そうしなければ生き延びられなかったからであり、人類の遺伝子は、合宿で幸せを感じるように進化してきたのです。
人類が隣の人も知らずに血縁だけで居住したり、まして一人暮らしだなんていう無謀な挑戦を始めたのは、つい最近のことで、遺伝子に逆らうそんな生活形態は、あっという間に破綻しました。
血縁内の信頼関係は崩壊し、独居生活で心を病み、人類は今危機に瀕しています。
今こそ、人類本来の生活形態を取り戻すとき、すなわち合宿の復権のときです。
思えばイエスも弟子たちとの合宿生活でしたし、初代教会も家々に集まって食事をするような合宿教会でした。
キリストの教会とは、失われた合宿の喜びを取り戻すことで、神の国の目に見えるしるしになる集いなのではないでしょうか。
福音家族は、教会内のサークルのようなものではありません。
それこそが教会であり、時には教会を救う集いなのです。
富士見での合宿でミサをしたときに、地元の信者さんも参加してくれたのですが、しみじみと言ってました。
「この地にこんなに多くの若者が来て、合宿してくれて本当に嬉しい。また来てください、次回は私も参加してぜひみなさんに食事をつくって食べさせたい」
これこそ、まさしく合宿が秘めている力、人類が秘めている福音家族の可能性です。
本物には、力があります。
一目見れば、それが本物だと誰にでもわかります。
18人がそれぞれ自由に好き勝手に楽しみながらも、お互いに語り合い、助け合い、共に食事を分かち合っている様子を見て、ぜひこの集いを応援したいと思うのは、遺伝子レベルの希求でしょう。
合宿最後の夜、全員で食卓を囲んで乾杯をし、ひとことずつ、今の思いを語ってもらいました。
その中に、教会に来初めてまだ10日ほどしかたっていない学生がいたのですが、涙をこぼしながら、こう語ったのです。
「皆さんに出会えて、うれしかったです。
この世界に、まだこんな共同体が残っていたことに感動しました。
今まで生きて来て、本当に良かった」。
その涙を見て、そこにいたみんなが、ああこの集いは本物だと知りました。
今、どれほど多くの人がこのような「合宿」を探し求めていることでしょうか。
「主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』」(ルカ14・23)

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