ペトロ 晴佐久 昌英
ご復活おめでとうございます。
閉ざされた墓が開き、光の世界に解放される復活のイメージは、閉所恐怖症を抱えている私にとっては、ことのほか大切なイメージです。
私にとっては、閉じ込められ自由を奪われることほど苦痛なことはありません。
これは、私の母も美容室で顔に布をかけられるのさえ拒否していたくらいですから、遺伝かもしれません。
その母と私でカッパドキアの遺跡を巡っていた時に、迫害下にクリスチャンが潜んでいたという地下8階の部屋でいきなりの停電に遭遇したことがあり、二人共失神寸前でした。
閉じ込められ、外界と遮断され、身動き取れず、それでいて意識がある状態なんていうのは最大の恐怖です。
そう書いているだけでも心拍数が上がって、 発作のスイッチが入りそうになります。
もっとも そのような精神的な恐怖症の症状は生理的な問題ですからやがては収まるわけですが、実は20代の半ばに 、「霊的な閉所恐怖」のような状態に陥ったことがあり、これは断続的に数年にわたって続きました。
精神的な恐怖症とは別種の「信仰上のおそれ」とも言うべき体験で、ひどいときは祈ることも考えることも出来ず、ああこれが地獄かと思ったくらいです。
例えて言うなれば、神なき暗黒宇宙のただなかを、完全に孤立した虚無の自我が漂っているような。
そんな地獄から抜け出したのは、忘れもしない、1984年2月19日の夜でした。闇の底で身動きさえ取れずに横たわっていた時、何の前触れもなく、魂の奥底でビッグバンのような爆発が起きたのです。
ほどなく、宇宙全体とひとつになったような至福の平安が訪れて、ああこれでもう救われたと直観しました。
その時の圧倒的な光の体験は、今でも自分の信仰と希望を根底から支えています。
あれは、神が私に触れたのだとしか言いようがありません。
神が手を伸ばして、恐れ苦しむ私の魂の一番深いところに直接触れ、その瞬間、私は新たに誕生したのです。
今年の日本カトリック映画賞は、松本准平監督の『桜色の風が咲く』に決まりました。これは実話に基づく作品で、主人公のモデルになったのは 全盲ろう、すなわち失明してかつ聞こえないという二重苦を背負いながら大学教授にまでなった福島智さんと、その母親の令子さんです。
この親子の愛の交わりは、 私にとっては、まさに神と人間の関係を思わせるものでした。
母親が、完全に盲ろう者となった息子の指に自らの指を重ねて、「指点字」という独自のコミュニケーションで語りかける姿は、若い頃闇の底で孤立していた私の魂に触れて来たまことの親の、あのほとばしるような親心を思わせてくれたのです。
それに関して、日本カトリック映画賞を選考する「シグニスジャパン」の顧問司祭として、プレスリリースに選評を書きましたので、以下に転載いたします。
映画は、光と音でつくられている。したがって、その両方を失った人物を主人公にした作品をつくることは、映画作家にとっては究極のチャレンジになるはずだ。
光と音のない世界を生きる人間の真実を、光と音を用いて表現するとはどういうことなのか。
松本准平監督はこれまでも、最も困難な状況にある人間を描いてきた。
そこになおも救いがあり、映画はその救いを語りうると信じているからだ。
その監督が今回、『桜色の風が咲く』において最難関のテーマに挑み、目には見えない光を撮ってくれたことに感謝したい。
体の苦痛も心の苦痛も、誰かとつながっていれば耐えられる。
であれば、誰ともつながれない孤独こそは、最大の苦痛であろう。
現代人が抱える苦悩の本質は、そこにある。
目が見えていても、耳が聞こえていても、誰ともつながっていないという孤独。
しかし見よ、闇と無音の虚空に放り出された者に、母の手が触れてくる。指でことばを伝えてくる。
人間にとって最も大切なもの、すなわちぬくもりのあることばを肌で聞くという、信じがたく美しい瞬間!
実はそれは、映画そのものの美しさとも深い関わりがある。
観客もまた、映画館の暗闇の中に独りで座っているのだから。
いつだって救いは、向こうからくる。神の愛の現れであるキリストが自らを「神の指」になぞらえたように、愛するわが子に触れる母の指はそのまま神の指なのだ。
この映画自体もまた、絶望の世紀を生きる多くの人の心に直接触れてくることだろう。「映画は人を救えるか」という監督自身の祈りにも似た問いに、日本カトリック映画賞をもって答えたいと思う。
「最大の苦痛である孤独」と書きましたが、神はなぜ、そんな苦痛を人類に与えたのでしょうか。それは、人が一人ではいられないようにするためではないでしょうか。
誰かと触れ合い、信じ合い、分かち合い、共に生きて行くことで神の国を創造するためではないでしょうか。
イエスは、孤独の地獄から私たちを救うために来られ、愛の手で私たちに触れてくださいました。
「しかし、わたしは神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11・20)
キリストと一つに結ばれた私たちキリスト者の手もまた、キリストの手です。もしも、孤独の内にある誰かの心に触れようとして、 そっと手を伸ばすならば、その指は神の指なのです。