草創期(昭和25年~)

1945年(昭和20年)、東京大空襲によって下町の大部分が焼けた。終戦後、焼け残った上野駅の地下道には、焼け出され食べる物すらない人、職のない人、引揚者、軍隊からの復員者など行き場のない人々が大勢いた。病人も多くいた。その年の秋、たまたま上野駅を通ったフロジャク神父は、この惨状を見て大変ショックを受けた。そして12月25日には、ベタニア修道女会と聖母病院のシスター達と共に、巡回診療を始めた。

1948年(昭和23年)これらの活動の拠点となるよう現在の土地を購入、1949年(昭和24年)診療所を開設、1950年(昭和25年)保育園が出来たが、日本家屋と古い客車を使っていた。これらが上野教会の母体となり、初代デュレク神父の時も、教会は保育園を借りて日曜日のミサを行っていた。これらが上野教会の母体となり、初代デュレク神父の時も、教会は保育園を借りて日曜日のミサを行っていた。

中期(昭和30年代~) 

上野教会の保護聖人として聖ベルナデッタの名前がつけられた由来は、当時の東京教区長シャンボン大司教がフランス・ルルド地方の出身であったこと、東京には聖ベルナデッタに捧げられた教会が一つもなかったこと、ベタニア修道女会はベルナデッタ会と呼んでいたこともあり、フロジャク神父がこれらのことを思い、聖ベルナデッタが日本でも親しまれるようにということだった。

 

上野教会は1954年(昭和29年)浅草教会から分かれて、小教区として認可された。

診療所、保育園の建て直し、聖堂建築の必要もあったので、それまで信者一同、様々な方法で聖堂建築資金の積み立てをしていた。

 

その時の主任マルセル・ルドールズ神父(パリ・ミッション会)は、フランスへ一時帰国したのを機会に、フランス各地の教会で、上野周辺や教会の状態の話をして巡った。又、フランスの家庭雑誌に上野教会の特集が掲載されたので、建築資金のための寄付が集まった。なかでも貧しい信者の方々からも多くの寄付が寄せられた。丁度1958年がルルドの100年祭にあたっていたので、聖ベルナデッタに捧げられた上野教会には幸いだった。

1961年(昭和36年)聖堂、教会建物完成、土井大司教により献堂式が行われた。
 
聖堂は人々が祭壇を囲んでミサが捧げられるような形に造られ、祭壇は一個の大きな石で恵みの泉であるキリストを表している。
祭壇の真下には、フランスの恩人達の名簿が埋められ、今も共に神の御業を賛美している。
 
聖堂の壁面には十字架の道行きがあり、洗礼盤の大きな石を挟んで14留と復活のレリーフが造られている。洗礼を受けて新しい命に復活することを、シンボリックに示している。

教会はベタニア修道女会の事業とともに、成長していった。時の流れの中で病院や保育園は閉鎖された。半世紀たった今、教会を取り巻く環境は大きく変貌したとはいえ、昔のそれとは違う意味で、飢えている人、渇いている人が多いのも現実である。かつて多くの人からしていただいたことを、教会共同体としてお返ししていくよう活動している。

上野教会の現在 

2001年(平成13年)復活祭後、イエズス会中国センター(200~300人)を迎え、共同体として新たな歩みを始めた。主日のミサは午前10時日本語、午後1時30分中国語の2回となった。復活祭、聖霊降臨祭、降誕祭等合同ミサを行い、交流を深めている。

2003年(平成15年)下町宣教協力体としても、浅草、本所教会と共に歩み合同ミサ、卓球大会、ダンス大会、など交流している。

2004年(平成16年)4月25日(日)岡田大司教をむかえ、今までお世話になってきたパリ・ミッション会、ベタニア修道女会等、中国センター、下町宣教協力体、共に盛大に50周年を祝った。

 

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