神のランタン

 

ペトロ 晴佐久 昌英

「私は、神の愛の炎を宿した、神のランタンになりたい」 今年の受洗希望者の一人が提出した、洗礼志願動機書の中の一節です。
受洗希望者に志願の動機を書いてもらうのは、それによって本人の信仰がより確かなものになるのと同時に、受け入れる側の信仰もより深まるからです。
「洗礼志願動機書」なるものを提出させる教会なんてあまり例がないと思いますが、私はいつもその美しい証しの言葉に感動させられています。
冒頭の動機書を提出したのは、重い心の病に苦しみ、精神科への入院等で洗礼の時期を逃してきた一人の青年です。
ようやくこの春受洗することになりましたが、動機書によればその道筋は苦難の連続でした。
長い間暗闇の中にいて「このいのちが終わることだけを望んでいた」彼は、教会と出会い、福音を聴き、信じる仲間たちと交わることによって、実は暗闇の中にいたときからすでに神の愛が自分に注がれていたことに気づくことができました。
「私は、知らずにいたのです。人生の最も深い、凍りついた暗闇の中でさえ、神の愛が消えたことなど一瞬たりともなかったのだということを」。
そして、神が与えてくれたその愛だけが自分に必要であり、それ以上に大切なものはないのだから、その神の愛をいつも胸の内に宿し続けたいと願うに至ったのです。
「私は、神の愛の炎を宿した、神のランタンになりたい」と。
洗礼は、人間が受けるものではありません。
神が授けるものです。
主語はあくまでも神です。
神がその人を生み育て、み心を行う道具として選び、教会の奉仕によって洗礼を授け、言うなれば「小さなキリスト」として、世に遣わします。
神の国をいっそう豊かにするために。
つまり洗礼の秘跡とは、自分のためではなく、他者のためにあるのです。
そもそも、洗礼は救いの条件ではありません。
すべての人は、御父の愛と御子の恵みにおいてすでに救われているのですから。
すべての人を救えない神を「父」と呼ぶことにも、無条件に救うことのできないイエスを「救い主」と信じることにも意味はありません。
神はすべての人を我が子として抱きしめていますし、イエスの十字架はその愛の完全な現れです。
そのような、すでに今ここにある普遍的な救いを、私は「天の救い」と呼んでいます。
この天の救いに目覚めることで知る救いを、天の救いと区別するために、「地の救い」と呼んでいます。
「ああ、私は初めから救われていたんだ、この救いは永遠なんだ」と知り、「なんという恵み、なんという幸い」と、真の安らぎを体験する救いです。
天の救いが普遍的であるのに対し、地の救いは部分的です。
すなわち、自分が天の救いを得ていることに気づかず、いまだ地の救いを得られていない人が大勢いるということです。
信じるべきはイエスにおいて顕現した天の救いであり、その意味では、「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉も、「天の救いに目覚めて、それを信じることで地の救いを得る」と理解するべきです。
その真逆が「地で何ものかを信じれば天の救いを得る」という、イエスが最も厳しく批判した原理主義であり、そのような自力の救いは、「人の救い」とでも言うべき倒錯です。
洗礼を受けたから救われるのではありません。
それでは人間が自分で自分を救う「人の救い」になってしまいます。
むしろ、すでに初めから救われていることに目覚めた人が、「なんという恵みなんという幸い」と感謝して洗礼を受けるのです。
もちろん、天の救いに目覚めた人が皆洗礼を受けるわけではありませんが、その恵みと幸いを体験した者が「ぜひこの喜びを多くの人に知らせたい」と願うのは、当然のことでしょう。
その願いこそが、洗礼の本来的な動機です。
キリストと結ばれて、キリスト者たちと共に、まだ目覚めていない人に救いの喜びを知らせたいという願いです。
「私は知らずにいたのです」という彼のことばが、胸に迫ります。知らずにいたときの闇はどれほど深く、恐ろしかったことでしょうか。
しかし、知らずにいたときも、「一瞬たりとも」消えることのない神の愛が自分に注がれていたことに気づいたとき、すなわち「天の救い」に目覚めたとき、彼は救われました。
そして、その救いの喜びを個人的な喜びにとどめることなく、周囲の人とも分かち合うために、洗礼を受けることを決意したのです。
いまだ知らずにいる多くの人の闇を照らすために。
愛するわが子を「神のランタン」として選んだのは、親である神ご自身です。
ランタン自身は自分で燃えることができませんし、勝手に動くこともできなければ、自分が何を照らしているかさえ知りません。
ランタンにできることはただひとつ、「神の愛の炎を宿した、神のランタンになりたい」と願いつつ、自らを神に明け渡すことだけです。神はわが子のその願いにこそ灯をともし、高く掲げて世界を照らすことでしょう。
洗礼式のときに受洗者が手にする小さなろうそくの炎は、すべての人を照らす天の父の愛の光なのです。
「あなたがたは世の光である。ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(cfマタイ5・14ー16)

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