コロナ下の教会で

 

ペトロ 晴佐久 昌英

緊急事態宣言下の対応に、各教会とも苦慮しています。
昨年の感染爆発当初はミサや諸活動の中止要請をした教区の方針も、今は「各教会でご判断を」ということになり、現場の悩みは尽きません。
ちなみにミサに限って言えば、第一回の緊急事態宣言の時は上野・浅草両教会とも中止し、第二回の時は上野はやって浅草は中止、第三回の今回は上野・浅草両教会ともやっています。
しかし、今後さらに変異ウイルスが蔓延し、ワクチン接種も進まない中で宣言延長となったら、このままでいいのかどうか。
諸活動はどうするのか。
体の命を守るための自粛と、心の命を守るための教会活動を天秤にかけながら、つまるところは「果たして教会は不要不急なのか」という、根本的な問いへと収斂していきます。
日本経済新聞の5月9日(日)の文化欄に、ノンフィクション・ライターの最相葉月さんが、そのような教会のジレンマについて書いていました。
「コロナ下の教会で」と題したその記事の中で、「みんなで祈れば感染症を克服できると考える信者と、科学的に行動しようとする信者が対立した教会もあった。
礼拝中止になった教会の信者が他の教会を渡り歩くケースも見られた」と報告し、「背景には、礼拝は不要不急ではないという想いがある。
高齢者や外国人が多い場合は、教会が互いの無事を確認し合うセーフティーネットの役割も担っており、それがなくなるのは生命線を断つことに等しい」と指摘しているのですが、読み進むうちにびっくり仰天、晴佐久神父「福音家族」活動のことが紹介されていました。
「カトリック上野教会と浅草教会を兼務する晴佐久昌英神父は、育児に困難を抱える親やホームレスの人、心に病を抱える若者、ベトナム人技能実習生などに声をかけて食事をする『一緒ごはん』の活動を続けてきた。(中略)それが大幅に制限されることになり、なぜそもそもイエス・キリストは人々と共に食事をしたのか、なぜ人々の体に触れて病を癒したのかと神父は問いかける」。
そして、教会最寄りの路上生活者、通称「最寄りさん」との関りを私が記した浅草教会報を引用しています。
「戸籍謄本を取り寄せたところ、なんと『本人死亡』とある。裁判所に行ったり区役所に陳情したりと、かなり面倒なことになった。でもそもそも面倒を引き受けて助け合うのが家族ではなかったか。
晴佐久神父はそう述べて、こんな一文で締めくくった。
『コロナ時代は、最も身近な他者と、きちんと関わることの大切さに気付く、恵みの時代になりました。最寄りさんはたまたまホームレスだっただけで、そうと気づけばだれの身近にも、様々な事情で孤立している「最寄りさん」が必ずいるはずです。あなたの「最寄りさん」は、だれですか』(浅草教会報2020年8月1日号)」
さすがは、事実のみを取材することで世界の本質を見破るノンフィクション・ライターだけあって、教会の本質が「他者を助ける」ことにあると見抜いており、記事のまとめとして、コロナ下でも弱者を助け続ける様々な信者を紹介した上で、こう書いています。
「わずか1パーセントのそのまた一部かもしれないが、自らを小さくして他者のために働く彼らの姿に、2000年前のイエスとその弟子たちが重なるようだった」
ふと、安息日に病人を癒しているイエスを批判する人たちに対して、イエスが語った言葉を思い出します。
「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(ルカ14・5)。
おっしゃるとおり。人を助けることが不要不急であるはずはなく、目の前で苦しんでいる人を「助けることが不要不急かどうか」と悩むこと自体おかしい、ということなのではないでしょうか。
「不要不急」の反対語は、「必要緊急」でしょうか。
今回のコロナ騒ぎのおかげで、その教会が人々を助けるという「必要緊急」なことを普段からやっているかいないかが、はっきり見えてしまいました。
人の命を守るためにミサを自粛するのは正しい判断ですが、人の命を救うために誰かを具体的に助けることは、一層正しい選択でしょう。
リスクがあるからと言って休業した病院があるでしょうか。
ミサや委員会は自粛しながらでも、工夫しながら人を助けることはいくらでもできます。
今こそ、教皇フランシスコの言う「野戦病院のような教会」が、必要緊急に求められています。

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