転ばぬ先の謙遜

 

ペトロ 晴佐久 昌英

つい先日、商業施設の駐車場の車止めにつまずいて思いっきり転倒し、わき腹を強く打ってしばらく起き上がれなかったという、人生初の体験をしました。
注意欠陥障害系なので、これまでもよくつまずいたり踏み外したりはしてきたのですが、今までとは違うなと思ったのは、つまずいた後のバランス回復力が明らかに落ちているという点です。
あの程度のつまずきであそこまで見事にすっ転ぶのは、確実に諸機能が衰えている証拠であり、そろそろ「俺は平気」を引っ込めて、もっと慎重に、謙遜に生きていこうと悔い改めた次第です。
と書けば、先輩方は「みんな来た道よ、やっと受け入れたのね」くらいに思うのでしょうが、そこをなかなか受け入れられない往生際の悪さも共感していただけるはず。
コロナ関連ニュースで一日十回は「65歳以上の高齢者」と聞かされる63歳としては、ちゃんと謙遜な高齢者になれるよう、残り二年の猶予期間中に心の準備をしてまいる所存です。
年を取るということは、謙遜になるということでなければなりません。
長い年月の間に様々な失敗をし、みんなに迷惑をかけ、限りない恩義を受けて生きてくれば、まともな人間ならさすがに謙遜にならざるをえないでしょうし、ならなければそれこそ晩節を汚すということになります。
傲慢な若者はいくらでもいますし、時にほほえましくさえありますが、傲慢な年寄りはみっともないだけ。
明日は我が身、「転ばぬ先の謙遜」でしょう。
最近、オリンピック委員会の会長が辞任したというニュースが流れましたが、後任人事に関するテレビの街頭インタビューで、年配の女性がバッサリ答えていました。
「ああ、もう、おじいさんはダメ。だって若い人のお祭りでしょ? 年寄りは口出さないで、金だけ出してりゃいいのよ」。
ちなみに、私の意見ではありません。街の声です。
お優しいイエス様は、「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)と言ってくださいました。
若手司祭の頃は、教会活動に疲れたり、人間関係を重荷に感じたりしたときなどこの一節に癒されたものですが、それはつまり、「いつもは元気だけど、時々疲れたときに癒してくれる一節」だったということです。
しかし、最近のようにいつも疲れやすく、重荷を負う体力気力も減ってくると、これはもう「毎日癒していただける一節」になってきました。
元気いっぱいの助任司祭だった時に、主任司祭がつぶやいたひとことを、最近よく思い出します。「生きてるだけで疲れる歳になっちゃったよ」
ご存じのとおり、先ほどのイエスの言葉はこう続きます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(同11・29)。
63歳になってここを読むと、「歳を取ったら、イエスに倣って若い人には柔和に接し、何事も謙遜に受け止めなさい、そうしないと安らかな日々は送れませんよ」と言われているような気もしてきます。
イエスに倣うということは、十字架を背負うということでもありますが、いうまでもなくイエスは、若いお弟子たちの身代わりとなって犠牲の十字架を背負ったのでした。
コロナの時代、経験の浅い若い方たちの中には、どうしていいかわからずに苦しんでいる人が大勢います。
彼らのためにも、イエスと一緒に謙遜に犠牲を捧げ、今までの人生でいただいた多くの恵みを、惜しみなく次の世代に引き継いでまいりましょう。
司牧評議会の正副委員長も、交代して平均年齢がぐっと若返ったようです。
先輩一同、信頼して応援致しますので、安心してのびのびとご活躍ください。

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