一人でいても、独りじゃない

 

ペトロ 晴佐久 昌英

クリスマスおめでとうございます!
パンデミックの嵐が吹き荒れた2020年も、ようやく降誕祭を迎えました。
まずは共々に主の降誕を喜び迎えることができたことを、天の父に感謝したいと思います。
困難の中で迎えるクリスマスになってしまいましたが、主の降誕「暗闇の中に住む民は大きな光を見」(マタイ4・16)るという、救いの出来事であるはずです。
深い闇に覆われた今年のクリスマスは、いつにもまして明るい光を仰ぎ見て、希望を新たにいたしましょう。
クリスマスというと、どうしても忘れられない出来事があります。
子どものころ、クリスマスが来るのが本当に楽しみでした。
ミサのあとに、子どもたち中心のクリスマス会が開かれたからです。
大きなツリーが飾られた部屋にごちそうが並び、青年会手作りの影絵劇が上演され、サンタさんがプレゼントの詰まった袋をみんなに配るという、それはもう、夢のような夜でした。
ところがある年のクリスマス、おそらくは風邪でもひいたのでしょう、ミサ中に気分が悪くなって戻してしまい、ぼく一人家に連れ帰されてしまったのです。
わが家は教会のすぐ近くだったので、母はぼくを寝かしつけると、また教会へ戻っていきました。
その夜のわびしい思いは、生涯忘れられません。
一人で暗い部屋に寝かされたまま、あれこれと思いめぐらしたものです。
「クリスマス会はもう始まったかな」「みんなサンタさんからプレゼントをもらってるころかな」「なんでぼくだけ、こんなことになっちゃったんだろう・・・」
その年のクリスマス会がどんな集いであったのかを、今となっては知ることはできませんし、二度と体験することもできません。
しかし、その「体験できなかったという体験」が、同じように孤独な思いをしている人への共感を生んだことは確かです。
「とってもさみしかったクリスマス」のおかげで、ぼくにとってクリスマスは、「さみしい思いをしている人のことを想うとき」になりました。
司祭になってから「心の病で苦しむ人のためのクリスマス会」を開いたのも、ある人から「教会のクリスマスは賑やかで、みんな楽しそうで、私のようにうつを患っている人にはとても入って行けない」と聞いたからです。
どんなに荘厳な儀式を行い、明るく楽しいパーティーを開いても、その教会の門の外を暗くさみしい気持ちで通り過ぎていく人がいるならば、何の意味があるでしょうか。
その意味では、今年ほど孤独な人と連帯する機会に恵まれたクリスマスはないと言えるでしょう。
今年のクリスマスは、歴史上最も一人で過ごす人の多いクリスマスになったからです。家から出られずに、一人ぼっちで過ごす高齢者たち。
面会できない施設で、家族にも会えないでいる人たち。
隔離された病室で、不安と戦っている感染者たち。
疲れ果てて、ホテルで仮眠をとっている医療従事者たち。
仕事を失って住居を失い、路上で過ごしている人たち。
リモートばかりで家から出ることのない、一人暮らしの若者たち。
さまざまな現場で、さまざまな人たちが、たった一人で孤独に耐え不安に耐えながら、聖なる夜を過ごすことになったのです。
思えばイエス・キリストご自身もまた、荘厳な儀式が行われる神殿でもなく、明るくにぎやかな街中でもなく、暗く孤独な馬屋の中へと生まれてきました。
それは、暗く孤独な日々を生きるすべての  神の子と連帯するためです。
「人が独りでいるのは良くない」(創世記2・18)と仰せになった神は、インマヌエル、すなわち「神は私たちと共におられる」という名の救い主を与えてくださったのです。
美しいお名前の救い主を迎えた私たちもまた、お互いの困難な状況を想いつつ、離れていても共にいるクリスマスといたしましょう。
祈り合い、一人でいる人と連絡を取り合い、何か困ったことがあれば助け合う日々を始めましょう。
キリスト者とは、なんと幸いな仲間たちでしょうか。
一人でいても、独りじゃないのですから。

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