パパさまに𠮟られる

 

ペトロ 晴佐久 昌英

 新型コロナウィルスの感染伝播も新しい局面に入り、東京教区はついに「公開のミサを3月14日まで原則として中止する」と発表をしました。
これを書いているのは2月26日の灰の水曜日ですが、二週間後の情勢がどうなっているのかは、だれにも分かりません。
これ以上感染が拡大しませんようにと、祈るばかりです。
と、書きたいところですが、やはりキリスト者としては、「祈るばかりです」はまずいでしょう。
キリストの教会は、「ことば」と「しるし」がそろって初めて救いのしるしになるのですから、祈りつつも何らかの行動を起こさなければなりません。
というか、「こんな時こそ」の教会なのではないでしょうか。
特に社会的弱者や生活困窮者は、災害時はもちろん、今回のような疫学的な危機のときにも真っ先に被害を受けやすい人たちです。
身近にいる独り暮らしのお年寄りのご様子をうかがうことや、路上生活者の体調を見守ること、また、無理をしてでも働き続けなければならない海外の技能実習生と正確な情報を共有することや、誰かが仮に感染した場合に最適なケアをする準備をすることなどは、すぐにも始めることができるはずです。
イエス様は常に病者と共に生きておられましたし、時には感染の恐れのある病者に触れていやしてくださいました。
この度の危機も、わたしたちがただウイルスを恐れて自分の身を守るだけではなく、もちろん正しい対策を講じた上でのことですが、本当に困っているだれかに関わる恵みのとき、すなわち、「あなたがたの天の父の子となるため」(マタイ5・45)の聖なる機会を、神様が下さったように思えてなりません。
教皇フランシスコは、来日のとき、東日本大震災被災者との集いで、こう言いました。
「わたしたちにもっとも影響する悪の一つは、無関心の文化です。
家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむという自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です」
また、青年との集いでは、こう教えてくれました。
「次の問いを問うことを習慣としてください。
『何のために生きているかではなく、だれのために生きているのか。だれと、人生を共有しているのか』と」
そして、東京ドームミサでは、こう語りかけてくださいました。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。
それは、傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」
災害や疫病は、期せずしてその社会の最も弱い部分を浮かび上がらせます。
ただ祈っているばかりで、野戦病院たる教会の本領発揮をしないならば、パパさまに叱られてしまうでしょう。
「ボーっと祈ってるんじゃねえよ」

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