この人が家族なら

 

ペトロ 晴佐久 昌英

クリスマスおめでとうございます。
クリスマスは、救い主をお迎えする日です。
まごころこめてお迎えいたしましょう。
と言っても、実際にイエス本人をお迎えするわけではありません。
イエスが宿っているあの人この人を、わが家や教会に具体的にお迎えしよう、ということです。今の日本では、様々な事情で行き場所がない、住む場所がない、居場所がないという人たちが増えています。
弱い立場に置かれた人たちにとっては生きづらい時代だと言えますが、キリスト者にとっては、人々を受容するというその本領を存分に発揮できる、恵みの時代でもあります。
特にクリスマスは、そのような受容にチャレンジするにふさわしい、恵みの時期なのです。
お迎えするときの合言葉は、「この人が家族なら」です。
この人が家族だったら、こんな風に応対したり、迎え入れたり、お世話したりするだろうな、という想像力です。
もちろん、いつでもどこでもだれにでも血縁と同等に、というのは難しいでしょう。
しかし、この人が家族だったらとほんのちょっとでも想像し、警戒や恐れを超えてほんのちょっとの受容にチャレンジをすることは、それほど難しい話ではありません。
そして、どんな小さな受容でも、実際にやってみると想像以上の実りがあり、心がつながる喜びが生まれて、もうちょっとやってみようかと思える自分がいることに驚くでしょう。
イエス様がお生まれになったときのことを、ルカ福音書はこう記しています。
「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(2章6,7節)
どこの宿屋も、貧しい身重の若夫婦の宿泊を断ったようです。
だからと言って、野外で出産したわけはないでしょう。
粗末な場所ではありましたが、確かに誰か、善意で受け入れてくれた人がいたのです。
その人がいなければ、イエスは元気に生まれ育つことができなかったかもしれません。
布にくるまれたイエスが最初に寝かされたその飼い葉桶こそは、主をお迎えする小さなチャレンジのシンボルなのです。
私たちのすぐ身近にも、小さな飼い葉桶を必要としている人がいます。
天災で住居を失った人たち。
人災で故郷を失った人たち。虐待で家にいられない人たち。
DVで家に帰れない人たち。貧困で部屋を借りられない人たち。
難民のように日本に逃れてきた人たち。
他国からの留学生や技能実習生。何らかの理由でそれまでの住まいに住めなくなった人たち。
それは、他人事ではありません。
私たちもまた、ひとたび環境や状況が変われば、いつ「明日は我が身」となるかは、だれにもわかりません。
この激動の時代に、自分が生きている間は決して戦火に焼き出されたりしないと断言できる人がいるでしょうか。
このひと月の間に教会としてお世話した人の中にも、様々な事情の人たちがいました。
精神病院で虐待を受けて逃げ出してきた人。
登録せずにシェアハウスで暮らしていたことが知れて追い出された人。
うつで働けず家賃を払えなくなった人。
日本に身寄りがなく入院した留学生。
中には、いくつかの教会から「来ないでほしい」と言われた末に、縁あって上野教会へたどり着いた教会難民もいましたが、たとえどんな問題を抱えているにせよ、「この人が家族なら」と思えば、どう対応すればいいか、答えはひとつです。
「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』(マルコ3・33,34)」

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