五日市霊園墓参

 

ペトロ 晴佐久 昌英

私、以前に五日市教会の主任でしたし、私の両親の墓があるという事もありますし、この近くの青梅教会、高幡教会、多摩教会と、長く多摩地区の神父をしておりましたので、いままでこの墓地にはどれだけ来たことか。
言うなれば我が庭というか、ふるさとのお墓というか。
様々な方の納骨式も思い出しますし、それこそ、私の両親の納骨もしてるわけですよね。
ですから、このあきる野のカトリック霊園は、私にとっては、今は天国を生きている、親しい人たちと交わる、天地がつながったところなんです。
図式にするなら、天という円と、地という円が重なっている、ちょうどその重なっている部分みたいな所で、その意味で、とても安心を感じやすい場所なんですね。
何が安心かっていうと、我々はみんな、やがては天に生まれていく身なわけですけれど、地を生きている間は、その事を大体いつも忘れている。
地の事で頭がいっぱい、目の前のことで頭がいっぱい。
そして、地は不完全ですから、私たちはいつも不安で、いつも悩んでいるわけです。
ですから、私たちはときどきは、自分たちはまだ天に生まれる前なんだ、という事実を思い起こさなきゃいけないんですよ。
「この世界が全てだ」と思い込んでるから、この世界で全部やるしかないと思うし、この世界から離れる事を恐れるし、この世界から去っていった人を悲しむ。
でもそれは、今は本番に入る前の段階だっていう事実を忘れてるからなんですよね。
かく言う私も、日々の事で頭がいっぱいでバタバタしていますけど、ここに来るとね、さすがに天のことを思い出すわけですよ。
「そうだよねぇ、あの方もこの方もみんな精いっぱい生きて、神様の栄光の世界、恐れも悩みもない世界へ生まれていったんだよね」と、「私もいずれそこへ生まれていくんだよね」と。
それを思うと、なんだか、ホッとするというか、あれこれの不安が消し飛ぶような気持になる。
しかもね、神父になった頃は、30年前ですから、まだ若くて、天に生まれて行った知り合いの数も少なく、そんな実感も薄かったです。
この世の知り合いの方が圧倒的に多いですから。
だけどさすがにここまで葬儀を重ねてくると、天の知り合いの方がどんどん多くなってくるんですよ。
まさに、「天の故郷」です。
だれもが帰るべき所、そこに帰った時にこそ本当に安心して本当にくつろげて、本当に親と一緒にいて、本当に子供である喜びを味わえる、そんな天の故郷に、次々とみんな帰っていく。
そんな実感がどんどん増してきました。
そのような天の事を、時には思い出しましょう、というのが、死者の月の意味ですし、とりわけ今日のような墓参の時は、いつにもまして天の方々と深い交わりを持ちましょう。
もちろん、お墓の中に父さん母さんがいるとは思っていませんし、いつも一緒にいるつもりですけれども、今日は特に、天のシンボルであるお墓を眺めてですね、両親や友人、それこそお世話になったあの神父この神父も含め、亡くなった方々と深い交わりを持ちましょう。
みんな、間違いなく、天の父のみもとにいるんですから。
さっき、イエス様が言ってました。「父が私にお与えになる人はみな私の所へ来る」また、「父の御心とは私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」と。
この言い方、面白いですね。
天の父が、人々を、イエスに、与えるんですね。
つまりこれ、与えられる人にとっては選びようがないんです。
私を与えてくれって、神に頼んで与えてもらうんではなく、父が、ある人を、イエスに与えるんです。
さあ、ここで問題です、父はイエスに、誰を与えるんでしょう。
愛である神が、この人は与えようとか、この人は与えないとか選ぶ、そんなえこひいきをするなんてこと、ありえないですよね?
言うまでもないことですけれども、父はすべての人を我が子として望んで愛して生んだわけですから、すべての人をイエスに与えております。
「すべての人」ですよ?
まあ、神にしてみたら、すべての人が愛する我が子なんだから、当たり前のこと。
そうして父がお与えになる人はみな「私のところ」に来る。
そして、究極の「私のところ」って、「天」ですね。
つまり、父がお与えになった人は、みんなその天に入るんです。
イエスにしてみれば、父が自分に与えてくださった人を、一人も失わないで、みんなご自分のもとにお集めになる。
一人も失わないで。
それができないようじゃ、救い主じゃないし、十字架の意味もなくなる。
そのような天の真実に目覚め、本当にああそうだと知って、信じた時こそが地での救いの時であり、「子を見て信じる者が永遠の命を得る」って言うのは、そのことを言ってるんです。
だから、ホントにみなさんも、自分が天に生まれていくのだという事を、心から信じた時、もうみなさんの中に、永遠の命が始まってるんですね。
まぁ、この世の事ばっかり考えていると、そんな天の事を忘れがちですけど、今日は、天の人たちと交わって、天の事を思いましょう。
わざわざここまで来た意義というのはそこにあります。
この後、どっかでおいしいものを食べようと計画してるんですよね?
てんぷらと刺身がどうとかって、さっきバスの中で聞きましたし、それはそれでいいんですけど、目の前にこの世のものがあると、この世の事で頭がいっぱいになっちゃいますよね。
でも、たとえばこの世の食事で頭がいっぱいになっちゃうと、本番での食事、天の宴ってものがあることを忘れちゃうんです。
我々、どうしても、見えるものにこだわりすぎちゃうんですよね。
こだわりすぎちゃうと、たとえば、行ってみたらお店の手違いで、何の用意もなくて、今日は食べるものがありませんってことになったりすると、ひどくがっかりする事になる。
そこで腹立てたり、ついてないなんて思ったりする。
でも、天の事を思っていれば、この世の事なんて何でもない、だって天の宴が待ってるんだからと、にっこり笑って「ああ、それもまた御心ね」って言える。
もちろん、この世に食べるものがあったらあったで、ありがたくいただいて感謝しましょう。
でも、なければないで、それも感謝。そんな試練も恵みのうちってね。
昨日のTV見ました?
少しずつ食べるのがいいらしいですよ。
ちょっとずつ食べると血糖値が急激に上がらないから、筋肉が付きやすくなり、長生きできるとか。
でもね、どんなに努力しても工夫しても、この世の生は、やがて終わります。
必ず。
たとえそれが「もう明日です」と言われても、天の宴を信じて、「御心が行われますように」って言えるかどうか。
そんな自信がないなら、天の人達に励ましてもらいましょうよ。
その天の宴を、すでに味わっている人達が、今も私たちに、語りかけているんじゃないですか。
「ホントに天に生まれるんだよ」「恐れたり疑ったりしないでね」「私が守って導くから安心して」「私がちゃんと用意しとくよ」そう語りかけてくれる人が、いっぱいいるでしょ?
天に。
その方たちが我々の誕生を、ちゃんと待っていてくれます。
今日、その事を思い起こしましょう。
私の両親の墓にも、後程参りますけど、母の口癖は「御心が行われますように」でしたから、母の葬儀の時に造ったカードにも、そう書きました。
「御心が行われますように」その御心とは、何ですか?
それこそ、先ほどイエス様が仰っていたとおりです。
イエス様に与えた人を、一人も失わないで、終わりの日に復活させること。
信じましょう。
希望を新たに致しましょう。
今日の一日、すでに生まれていった方たちとともに、すべての人を救う天の父をたたえましょう。

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