主の食卓の復活

 

ペトロ 晴佐久 昌英

上野の国立科学博物館へ、話題の「ラスコー展」を見に行ってきました。
中学校の歴史の教科書に載っていた、ラスコーの壁画を覚えている人も多いでしょう。
2万年前のクロマニヨン人が洞窟の壁に描いた、「石器時代のモダンアート」とでもいうべき牛や馬の絵ですが、それを、最新技術のレーザースキャンや3Dプリンターで、色も形も本物そっくりに再現した、実物大の模型が展示してありました。
その精巧な再現力に驚かされましたが、実はそれ以上に驚かされたのは、当時のクロマニヨン人の家族と生活の様子もまた、本物そっくりに再現して展示してあったことです。
まるで生きているような彼らの表情に、思わず近寄って、その顔の前で手を振ってしまったほど。もちろん人形ですから、まばたき一つしませんでしたが。
あまりのリアリティに、その場で一気に意識がさかのぼり、当時の彼らにシンクロしてしまいました。人形と目が合ったとき、一瞬でしたが、2万年前に一緒に火を囲んでくつろいだ時の記憶が、至福の体験として、煙の匂いや笑い声と共によみがえったのです。
改めて見ると、彼らの顔立ちは気高い精神性を感じさせますし、毛皮を上手に縫い合わせた上品な着こなしや、貝殻をビーズのようにつなぎ合わせた頭飾りなどから、美と調和に満ちた穏やかな暮らしぶりがうかがえます。
当時は狩猟遊動生活ですから、数家族が合同で狩りをし、獲物を分け合い、共同保育をし、さまざまな困難を共同体として乗り越えていました。
その幸いな共存生活は、文字通りの「楽園」だったはずです。
共同作業で描かれたという壁画は、まさに、彼らの喜びと感謝の表現だったのではないでしょうか。
「クロマニヨン人」というと人類以前の原人のように思われがちですが、れっきとした現生人類の一員であり、私たちと同じDNAを持っていたことが分かっています。
だからこそ、あれほどのイメージ豊かな芸術作品を残すことができたわけですが、同じ遺伝子を持っているならば、この危機の時代を生きる我々が見習うべきこともあるはずです。
何万年もの間、平和で安定した暮らしを持続しえた尊敬すべき先輩たちから学ぶべきこと、それこそは、共同狩猟、共同食事、共同保育、共同芸術、すなわち、すべてを共有し、分かち合う、「共同生活」であることは間違いありません。
現代社会は、善かれあしかれ、「個人主義」です。しかし、行き過ぎた個人主義は、人類に本来的に備わっている、「人の道」から逸脱しています。個人が幸せであるためには、個人を生かす「個人の集団」が、生き生きと機能していなければならないという当たり前のことが、忘れ去られていないでしょうか。
血縁という「小さな家族」が機能していなければ子どもは育たないし、血縁を超えた「大きな家族」が機能していなければ、血縁の家族も生きてはいけません。
そんな孤立こそが、「失楽園」の本質でしょう。
旧約聖書の創世記には、人類を創造したときの、創造主の言葉が記されています。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう」(創2・18)
核家族ごとに個別に生活するという奇妙な挑戦を始めた、現代人。
ネットやコンビニに依存しながら「一人でいるのが楽だ」、「一人でも生きていける」という幻覚を持つほどの病理に至った我々の、ここ数百年の無謀な実験は、完全に失敗に終わりました。
そのような「孤立現代人」が、いまやあらゆる問題を抱えこんだまま絶滅しかけていることに、どれほどの人が気づいているでしょうか。
クロマニヨン人の知恵と実績に敬意を表して、「ちょっと面倒だけどすごく幸せな共同生活」を取り戻すべき、大変革期がすでに到来しています。
このたび、カトリック上野教会で始めた、「まんまカフェ」は、「みんなで一緒にご飯を食べましょう」という、至極まっとうな挑戦です。
まずは、ひとりぼっちで子育てして疲れ果ててしまい、相談相手もなく、自分を見失いそうなお母さんたちに、「お子さんと一緒にいらっしゃい、教会という大家族が、ごはんとお味噌汁作って待ってますよ」と、呼びかけています。
そのうちに、貧困家庭の子どもたちも来てくれたら、いわゆる「子供食堂」としても機能するねと、スタッフで話し合っているところです。
みんなで集めた食料を、みんなで料理して、みんなで一緒に食べるのは、とても楽しいですよ。
悩み事も話し合えるし、なによりも、信頼できる「大家族」と共にいるという、心からの安心を体験できます。
毎週木曜日、12時からです。どうぞ、どなたでもおいでください。
そのうち、みんなで一緒に壁画でも描いちゃいましょうか。

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