セバスチャン 西川 哲彌
						
						最近、本屋の目立つ所に、「知覧」という地名のついた 本が並べられているのに気付きます。
						知覧という町は、鹿児島県南九州市にあり人口1万3千人程の都市です。
						何ということもない古い城下町です。
						この町が「人生に迷ったら知覧に行け。
						流されずに生きる勇気と覚悟」という本の題名になったりするのは、この前の世界大戦の末期、この町から特別攻撃隊の飛行機が飛び立って行ったからです。
						いわゆる特攻の町だったのです。
						特攻がなければ、普通の陸軍軍用飛行場ですんだでしょう。
						しかし、若い飛行士が書き残した遺書や飛び立つ前の様子が戦後強い関心を集めることになり、知覧特攻平和会館も建てられ多くの人が訪れるようになり一躍有名な町になりました。
						会館の中には、元特攻隊員であり、会館が建てられてからは初代館長としての重責を担った板津忠正氏が丁寧に集めた特攻隊員の遺影、遺書が展示してあるそうです。
						約4500通に及び遺書は読めるように配慮してあるそうで、1通1通読みながら涙して動けなくなる方も少なくないとのことです。
						当時 も戦後しばらくも軍事機密として知られないようになっていたにも関わらず、薄皮をはがすように事実が伝えられ地名と共に多くの人に知られるようになりました。
						いかに戦局が不利で、もう打つ手がないとはいえ、250トンの爆弾をつけて敵の巨大艦船に体当たりしてその攻撃目的を果たすということは、想像を絶するものがあります。
						遺書には、自分の死を充分に意識しながらも
						
						「私が皇国軍人となることが出来、しかも死所を与えていただけたのはただ感激のほかはございません。
						隊長として部下とともに必殺必沈、大君のみ楯と散る覚悟です。」(高木俊郎著『特攻基地知覧』より)
						
						と書きそれが今も残されています。
						異常な時の流れの中で書いたもので、今の私達には、どう受け止めていいか戸惑ってしまいます。
						人それぞれに受け止め方が違って来るでしょう。
						視点を変えてその人のお母さんはこれをどううけとめるでしょう。
						これもその人その人で違って来るのでしょうが、20才から25才位までの子が覚悟の上で死にゆくという立場にあるとしたら、母親は何を思うでしょう。
						知覧に呼ばれた特攻隊の若者は、実は自分がどこにいるかを親しい友はおろか、家族の者にも知らせることが出来ないでいたのです。
						つまり、自分の息子がどこでどのような状態にいて、明日をも知れない命と向き合っていることを知らないままでいる母親もいたのです。
						だから遺書をかいて「お父さんお母さん行ってきます」と云えたのかも知れません。
						父とか母とか区別する必要はありませんが、母親にとって息子は大事な大事な存在です。
						母としての思いの全てがそこに注がれています。
						これは聖母マリアがイエスに注いだ愛と寸分変わりありません。
						母の声が発せられるなら、あるいはその声が特別攻撃隊の隊員である息子に届いたなら、そんなにきれいな遺書が書けたでしょうか。
						本屋で見かける「知覧」の文字の入った書籍をひとつひとつ読んだ訳ではありませんが、飛び立って還って来なかった特攻隊の青年達を英雄視する傾向の中で、もう一つ、産んで育て、愛を注ぎ愛を託した母の思いを 忘れないで頂きたい。