セバスチャン 西川 哲彌
						
						すべて地上の生命は、ある時間、ある役割を終えると地に還ってゆく。
						死です。
						人間も例外ではありません。
						必ず死がやって来ます。
						避けることは出来ません。
						死は厳しいものです。
						辛いことです。
						一年前は、元気で、何を頼んでも「はい、はい」と云って引き受け、充分に期待に応じてくれて喜びをもたらしていた方が、今はこの世になく、話しかけようにもその人自身が存在しなくて、「いないんだー」と寂しい思いをすることがあります。
						死は、命の否定であり、存在が無になることを意味します。
						若い時ならともかく、年齢70才を越すと時として死がすぐそばにあることを本能的に感じます。
						身体に起こる小さな痛みも、それが死のキッカケになるのかなあと感じさせられるのが私達です。
						一見、明るくふるまっているようでも、誰もが、死の恐れを持っているのです。
						「もうだめか、もうだめかと思いながら、気がついたらこの年になっていたんですよ」と93才の方が明るくおっしゃるのを聞いて、すごいなーと思ったことがあります。
						死を恐れるのは誰もがそうですが、恐れていないように思える人もいます。
						その一人は、あることに情熱を傾けていて、命のある限り、体力が続く限りそのことに打ち込んでやろうと思っている人。
						そしてもう一人は復活の信仰を頂いている人です。
						この二つのタイプは、どっちかと分けることが出来ません。
						しかし、復活の信仰に生きている人は、確実に死を乗り越えています。
						復活ということは、単純に、命は死によって終わるのではなく、地上の命が終わっても新しい命に入ることへの確信です。
						私達はイエス様のあの残酷極まりない十字架の死のあと、三日目に予言通り復活されて弟子達のところに来られ「あなたがたに平和がありますように」とおっしゃったことを事実として信じています。
						弟子達は、その姿、そのお顔、その言葉を見聞きして喜びました。
						そして、短い3年間にイエス様がおっしゃたこと、なさったことが全て信じるに足ることと確信しました。
						復活の信仰は、今の今、私達を死から解放してくれます。
						もちろん、死への恐れはつきまとって離れません。
						復活の信仰を取り戻すためには祈りが不可欠です。
						祈りはイエス様の言葉をよみがえらせます。
						「あなたのそばの、最も小さな人に喜びをもって、出来ることをしなさい。それこそ、私にしてくれる最大のことです。」   (マタイ25章節)