聖なる息と風

 

ペトロ 岩橋 淳一

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録2・1-4)

この聖霊降臨の出来事は、かねてからのイエスの約束通りに実現しました。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる(使徒言行録1・8)

これはキリストに従う者たちに対する派遣と証言を促す神の力強い臨在に他なりません。
ルカは、この霊の注ぎという出来事をもって「教会」の誕生を位置づけ、聖霊の注ぎを受けたキリストの共同体は、エルサレムから始まってアジア、ヨーロッパ、そして地の果てまで聖霊とともにキリストの福音を宣べ伝え、人間の真の幸わせに招く活動を展開するようになりました。

ユダヤ教のぺンテコステ五旬祭(過越祭から7週間後に祝われる)の日に起きた聖霊降臨の出来事は、4世紀初め頃までは、復活祭に続く50日間全体を一つの祝祭としてとらえられ、キリストの過越の秘義を祝う方に重点がおかれていました。
そして5世紀にはこれら二つの祝祭は独立して祝われるようになり、復活祭から50日目を聖霊降臨の祭日として定着させました。
やがて、この日は復活祭とともにキリスト者にとって最も重要な日とされ、洗礼を授ける好日となったのです。
復活祭と同様、直前に断食が行われ、前晩から始まる徹夜祭をもって盛大に祝われたのです。

第2ヴァチカン公会議(‘62―’65)による典礼暦改定に伴い、「復活の主日から聖霊降臨の主日に至るまでの50日間は、一つの祝日として、また、より適切には『大いなる祝日』として、歓喜に満ちて祝われる」(「典礼暦年に関する一般原則」22項)ことを確認しました。
つまり、聖霊降臨の主日を、キリストの過越秘儀を盛大に祝う復活節の50日間と関連づけて祝うという原点に復帰したとも言えるでしょう。
聖霊降臨がキリストの過越秘儀を完成する出来事であることを、典礼の面からも対応します。
復活節の毎日のミサでは、入祭唱と拝領唱には必ず「アレルヤ」が付加されています。
また、当日ミサの結びの挨拶では、キリストの復活の喜びを表す「アレルヤ」が唱えられ、一連の過越秘儀を典礼的に締めくくるようになっています。

聖書の中で表れる「(神の)霊」ということばは「息」とか「風」という原意を持っています。
息をすることは人間を生かす活動であり、息を引きとることは死を意味します。
このように人間を根底から支え、導き、神に向かって駆り立てる疼ぎの源として、神の息、つまり「霊」として表現したのです。
つまり、わたしたちの心、思い、気持ちのすべてを、神、そして神の愛される人々を大切にするように仕向ける原動力が「霊」なのだと思います。
また、「風」は大自然の中を縦横無尽に吹き回り、その生成、変化に大きく影響しています。
人間の歴史や社会に働きかけ、動かし導く神の力を「霊」と表現するのも頷けます。
洗礼のとき人が受ける恵みは、神のいのちに結がることに力点をおいていることから、その時の霊の働きは、「息」を強調して用いられた「霊」でしょう。
そして、堅信のときに注がれる霊は、教会のメンバーとして使命を与えられ、果たして行くために「風」のニュアンスを含む「霊」でしょう。

ともあれ、洗礼と堅信の秘跡によって神の息吹(いのち)にあずかり、神に押し出され、神の風に乗っているわたしたちの前途は自明です。
ある日、聖霊を受けた使徒たちと同じ道を歩くことになるのです。
聖霊降臨の主日ミサにおいて、自分の呼吸を神のそれに合わせ、軽やかに神の息吹に乗りたいものです。
漢字乱用のそしりを承知の上で言わせてください。

神の息吹きに呼応し、いきいき息々といき息たいわたしです。
アレルヤ!

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