【白柳枢機卿様を偲んで】 ~私にとってはガブリエル~ 白柳枢機卿との思い出

 

ペトロ 岩橋 淳一

「岩橋神父サマ、教会やってみる気、ない?」

受話器の向うから聞こえてくる白柳大司教の声。

・・・何を意味するのか・・・

現に洗足教会で1年余の後、今高円寺教会で3年目を終えようとしている助任司祭のわたしに対してである。
1973年3月初旬のこと。

「あの・・・どういう意味でしょうか?」と問う私に、「ある教会の主任司祭になってほしいんだけど・・・」
「ナウなおはなしですか?」
「ジャスト・ナウだよ。」

こうして私は関町教会の主任司祭として赴任した。
突然休職願いを出した前任司祭の跡を継ぐためであったが、大司教は次のように私を説得した。
「関町小教区の中に神学院があるので、神学生のためにも、若い司祭が頑張っている姿を示して欲しいし、何とか相談相手にもなって欲しいのです。だから若いあなたを選んだのです。」
当時は第二ヴァチカン公会議の余韻が続いており、大司教としても気がかりの多い時期だった。
関町教会で6年目を迎えた1978年秋の頃、白柳大司教が車で乗りつけ突然私の許へ。
「高輪教会を担当しているスカボロ外国宣教会との再延長契約も今年で切れます。来年度はどうしても教区司祭を派遣する必要があるのです。・・・・・ところで、岩橋神父サマ・・・行ってくださいますか?」
こうして私は6年間奉仕した関町をあとにした。
当時はまだ1教会10年というのが主任司祭期間というのが原則であったので、中途の転任という形になった。
教会学校、ボーイ・ガールスカウト、地域の子供会、中学生会に集まる350人の子供達や、リーダー。
青年会に集う若者達100名余。
かれらとのお別れは初めての寂しさを味わうことになる。
1979年4月。赴任した高輪教会は、周辺に大きなホテルが集まっているために、多くの結婚式を引き受けている現実があった。
スカボロ会の司祭たちが、教会のために経済的にも支えたい気持ちの一つの表われだったことを理解する。
しかし、年間三百組以上をこなすには一人の司祭だけでは困難が伴う。
結婚講座の充実と合理化、ヘルパーの役割拡大などを施し、特に若者たちへの福音宣教の場として「結婚」を大きな機会として意識化に努めた。
ある時、大司教に私の方から切り出した。

「大司教さま、高輪教会を教区の『結婚センター』と位置づけ、性、いのち、人格、人生などの価値観を分かち合う場にしたらいかがでしょうか・・・。」
「神父サマ、教会は『結婚』だけではないんだよ・・・」

この一言であえなく撃沈。
そりゃあ、そうなんだけど・・・と今もあの時のことを忘れてはいない。
高輪で5年目の秋、1983年。大司教に呼ばれ、私は彼の目の前に座っていた。

「あなたは事務的な仕事は苦になりませんか?」

いきなり軽いジャブを出して来た彼の真意をはかりかねていた私に、再びジャブが・・・。

「今度東京教区から中央協議会(日本のカトリック教会の諸委員会や事務実務の総体)に、司祭を派遣することになったんです」

私は次にやってくるであろうカウンターパンチをよける準備体勢に入る間もなく

「岩橋神父サマ、行ってくれる?」

人なつっこくやけに優しい口調の中に彼の真意を見た私は

「でも、私より相応しい司祭もおられるでしょうし、それに中央協議会でどのような仕事をするのか皆目分かりませんし・・・・。」
「行けば分かるよ!」

私の退路をたつ大司教。

「それにあなたの車には大きく『フィアット』(Fiat=マリア様がガブリエルに答えた最後の言葉—み心のままにの意)って貼ってあるのは、あなたのモットーって聞いているヨ。」

このように、私は高輪教会で5年間奉仕した後に、中央協議会事務局に赴任した。
年二回開催される司教総会と月1回実施される常任司教委員会は特に中核をなす会議であるため、事務局としてはその準備は特に大切な業務になる。
議題の経緯、資料、議事録作成ガイドなど気をぬけない。
しかし、事務局には発言権はなく、常に陪席だけである。
当時、司教団を代表していた白柳大司教は、時折、「事務局の方で、何かご意見はありませんか」と、ふってくださっていたのは、事務局としては好評価であった。
日本の教会の基本方針と優先課題発表、第1回福音宣教推進全国会議(NICE-1)開催、FABC(アジア司教協議会連盟総会)における日本の教会の戦争責任と謝罪、中央協議会事務局移転等、日本の教会の重要な舵取りの推進者として白柳大司教は精力的に動かれたのである。
1994年、10年間の事務局長職を終え、次の赴任地が決まるまで私は大司教館の空室に一時起居させていただいた。
ある昼食の時、例によって大司教は突然、私にパンチです。

「『東京都共同募金会』の役員をしておられる下山神父様(当時、本所教会主任司祭)が最近、健康状態がすぐれないんです。」

パンを一切れ口の中に入れ、そしてのみ込む間こそあれ

「だから神父サマ、下山神父様の代わりにカトリック教会からの理事として就任してくれませんか?」

戦後メリノール会のフラナガン師によって拡がった「赤い羽」運動を知っている現幹部たちが、どうしてもカトリック教会の協力が欲しいと願っているとの話を聞く私。
拒否する理由も状態も私にはなく、結局、「フィアット」である。
現在、副会長6人の中の一人として重責の末席を汚している私である。

「岩橋神父サマ、あなたはハヤット神父様の『善き牧者の会』知っていますよネ。この運動は東京と京都両教区の協力という形で活動していますが、その証しとして両教区から一人づつ司祭を法人顧問という形で奉仕することになったんです。」

心の中で『もしや・・・?』と思うしかなかった私。
神父サマと明確に切り出し、いまの状況を簡潔に述べることによって、言外に『私の心に背かないで・・・ネ』という気が満ちる迫りかたは変わらない。
今、私はその時以来、宗教法人「善き牧者の会」顧問として協力している立場にある。
1995年4月。

「岩橋神父サマ、多摩地区の入り口でもあり中心でもある立川の教会も、多摩の中心的教会としての機能と奉仕が必要と思います。ぜひ力を注いでください。」

中央線の各駅近くに教会を建てたいという白柳大司教の望みのひとつとして立川の隣りに国立分教会があり、盛んに活動していた。愛徳カルメル会の修道院、女子寮、聖堂を中心に小じんまりとまとまった共同体であった。
将来、小教区として独立できると白柳大司教のかつての約束を信じての共同体でもあった。
しかしこの頃には司祭不足、召命減少、信徒高齢化などの渦中にもあり、教区の体力も将来性も、国立を独立させ得る力はなかったと言える。
結局、立川教会の名の下に一つの共同体という形をとる以外に方法もなく、「国立集会所」を新設して現在に至っている。
多摩地区は、当時地域協力体として9教会が集まっており、広域地域を皆でケアーするという熱意に満ちており、「自分たちの教会」というたこつぼ的雰囲気は非常に少なかったように思っている。
月1回のペースで司祭たちも集まり、司牧宣教に関わる協力態勢作りに汗を流したのも、今では良い思いで・・・になってしまうのだろうか。
五日市教会から町田教会まで皆良く燃えていた時代だった。

「関口教会(カテドラル)の主任司祭の交替期になりましたが、どなたか相応しい司祭はいますか?」

この時には司祭人事諮問委員会が設立されており、大司教の必要に応じて集まっていた。
私もそのメンバーの一人としてその中にいた。

「構内は広いし、色々な機能が集中しているし、行事や集会も多いし・・・だから元気で活発な司祭がいいでしょうね。」

あの司祭、この司祭と話し合っている中、私はトイレに立った・・・のが運(?)のつき。
たった3分間の留守の間に、私に決まっていた。確かに立川教会で6年間――この頃、主任司祭の任期は原則6年となっていた――終了を控えていた私である。

「みんなが、岩橋神父サマがいいって言ってるよ。では、よろしく。」

2001年のことであった。
それから5年、関口教会に奉仕したが、その間、白柳大司教は教区長を引退し、目白駅近くのマンションに移り住んだ。
大司教館には部屋がなく、他に方法がなかったからである。
枢機卿になっていた彼にとっては、少し寂しかったのでは?と今でも思う。
ヴァチカン在住の枢機卿はいざ知らす、私の知っている限りでも多くの国の枢機卿職にある方は、それなりの館に、それなりの秘書、従業員、ハウスキーパーなどと共に生活しているのが普通であり、一人っきりの場合が多かった彼の心中は・・・と思ってしまう。
彼は背が低く、丸々としていたため、見た目にもトゲトゲしい感はしない。
彼は性格的にも、対人関係においても優しく接し、特に、「ノウ」という言葉を知らないのではないかというほどであったため、時には彼のことを「イエス・マン」と言う人もいた。
これも、何とかその人の希望を実現させてあげたいと思う心の為せる業だったと思われる。
「F神父様(ドイツ駐在の終わりが近づいていた)と一緒にシルクロードを車で旅して日本に帰るという計画を立てて良いですか」という願いを私が彼に述べた時の話しである。
「車好きの二人だけに何をするか分からないから・・・」と消極的な彼に対し、私は、「来年は東京教区の司祭が二人いなくなりますが、再来年には二人で四人力になっているはずです!」とリフレッシュの大切さを強調した。

「冗談でしょ。」

これは多分私に対して大司教が初めて使った「NO」だったと今にして思う。
たまたま、その後、クルド人紛争で、トルコ国境周辺が危険になったり、中国政府の無理難題も多く、時期を逸してしまったため、今だに実行できていない。
二人とも四輪駆動車に慣れていたのに残念である。
白柳枢機卿との出会いは多くあったが、やはり司祭にとって大きなエネルギーを要する人事異動の際の会話は、よく憶えている。たあいない言葉の内側に秘められた大司教の私に対する愛と希望をうまく受け止めるか否かの真剣勝負の場だからである。
私を見ぬく一直線の力を自分の力に加える場でもある。
そこには信頼関係が大切な媒体となっており、彼はその点、一流であった。

(終われないおわり)

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