私の母は聖マリア

 

ペトロ 岩橋 淳一

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に「夫人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
それから弟子に言われた。

「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19・26~27a)
いのちを生み、与え、育てる、神の子の集まりである教会の母性ゆえに、聖母が母の中の母、教会の母と尊ばれることは、ふさわしいことである。
十字架上から愛する弟子に向かって言われた言葉は、マリアがすべての弟子たち(教会共同体)を含む霊的世界の母であることを明示している。
クリスマス・・・主の降誕を祝い祭る日。
確かに幼子イエスのオーラには、その受難と復活が重なる。
いかなる歴史も文化も与えることの不可能な、いのちの充満を現実のものとしてくださった救い主キリストのすべてが、あの幼な子に凝縮されている。
その幼な子を囲む私たちは、どれほどの存在かについても思い知らされる。
聖母ががわたしたちの母だとすれば、それはわたしの母ともいえる。
ということは、イエスと同じ心でマリアを、母として交われるのである。
もう一歩想像力を進ませれば、わたしも、あの飼葉桶の中に新生児として横たわり、聖母と聖ヨゼフの愛の眼差しの中にいる。
そう今日は、救い主イエスのご降臨を感謝し喜ぶ日に違いはない。
しかし、同時に今日は、わたしも聖マリアを母として生まれたのである。
そんな霊的な巡礼を通して神の示される母性の中に身心を浸したい日である。

いっしょが しあわせ

ある国の小さな町の貧しい家で、ほんとうにあったお話です。
13才の長男を頭に3歳の妹まで7人の兄弟姉妹とその母親が主人公。
父親の病死後、母親は近所のレストランで皿洗いの仕事をして、生計をたてています。
クリスマス・イブでもレストランは営業。母親は休めません。
店長に許可をとり、母親はケーキ屋に走り、なけなしのお金で小さなクリスマス・ケーキを買い、その足で家にとってかえし、「お母さんは今晩遅いから、みんなでお祝いして食べなさいね」と長男にケーキを託し、すぐさまレストランに戻りました。
子どもたちの喜びではじける顔と声を想像しながら、母親の顔も思わずほころびます。
なにしろ貧しさゆえに、年に1回、イエスさまのお誕生日にしかケーキを食べることができないからです。
深夜になって母親は帰宅し、そっと暗い居間に入ると、突然明かりが射しました。
そう、子どもたちがケーキのローソクに火をともしたのです。

♪しずけき まよなか♪……

子どもたちが笑顔で歌いはじめます。
事情がのみこめないまま、母親も一緒に歌っています。

♪まずしいうまや♪……。

歌い終わると、長男が母親にうれしそうに言いました。
「お母さん、どんなごちそうもお母さんといっしょでなければ、ちっともおいしくないヨ!ぼくたち、待っていたんだ」
あたたかーいクリスマスになりました。

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