ペトロ 岩橋 淳一
全世界のカトリック教会では、毎年11月を「死者」の月と定めて、特に亡くなった方々への想いを馳せ、かれらの永遠の福楽を神に祈る慣わしがある。
クリスマスが真夏だったり、この死者の月が緑あふれる地域もあるが、日本はちょうど枯葉の月でもあり、人生を感傷的に想える季節でもある。
土の上に落ちる枯葉に納得し、徒らにアスファルトの上を風まかせで泳ぐ枯葉には物のあわれを感じる。
枯葉も自己の終焉の時を迎えている。
土に帰れば、やがて新しいいのちを育む使命を果たせるのだ。
枯葉に自分をなぞらえて見るとき、自分の人生そして死を想起する。
野の草も木の葉も死してなお次世代の生命の土壌となっていく役割を果たすのに、自分は一体死後どうなるのか、何の役割をもっているのだろうか・・・。
無力感に襲われる瞬間でもある。
そんな中に飛びこんでくるのが、キリストの死・・・である。
最悪な死に様であった。
多分いかなる人の死よりもひどい救いようのない死だったのではないか・・・。
私たち人間の罪をすべて背負う死ともなれば、イエスの死に様には私たちの罪禍が表わされている。
目を覆うべきは、十字架上のイエスより、むしろ私たちの罪なのだ。
その罪の結果である死の重みを、神のいのちは完膚なきまでに吹きとばしてくださった・・・と思う。
すると神のいのちにつながる私たちは、今の人生、そして死後の人生は、なにかとてつもない意味を持っている・・・。
だから枯葉一枚に笑顔を向ける。
そんなこんなを、思い廻らす日本の霜月である。
教会聖堂の中程にあるマリア様とベルナデッタの御像の壁面に、教会関係者の方々のお名前を掲げて、11月は特にお祈りしています。