ペトロ 岩橋 淳一
――イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言われた。
それから弟子に言われた。
「見なさい。あなたの母です」
その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
(ヨハネ19・26)――
20年ほど前のこと、使徒パウロの足跡を偲んで私はトルコにいた。
並みいるイスラム国家の中で、近代法を採用している西欧型の民主国家である。
多くのモスクの尖塔が地平線を飾る中、人々はヨーロッパ風のファッションに身を包み、近代生活を謳歌しているのが印象的である。
「使徒パウロのエフェソの教会への手紙」で知られるエフェソに出向いたときのことである。
トルコ西南部に位置するエフェソは、エーゲ海に面した古都の遺跡が良い状態で残っており、多くの観光客や巡礼客を迎えているスポットである。
かつてエフェソには、アジア州の首都として地中海の主要な港があったが、パウロの時代までにはその港は海中に沈んでいた。
それでも、この地は荘厳なアルテミス神殿がある美しい都市で、神殿には女神アルテミスが地上に送ったとされる有名な隕石が、御神体として置かれていた(使19・35)。
何百人もの娼婦が神殿に仕え、地元の商人はアルテミスを崇める様々な宝石や指輪などの小間物類を売っていた(使19・23-41)。
市内には大劇場、闘技場、図書館もあった。
パウロはおよそ3年間エフェソで宣教した(使19・10、20・31)。
一世代後のヨハネによる黙示録には、エフェソの信徒たちはキリストの愛から離れてしまったと記されている(黙2・1~7)。
エフェソの遺跡の中で、今でも人目を引くものを見つけた。
中央通りの石畳の交差点の一枚の板石に方向指示を表す矢印がしっかりと残っているのである。
その方向に歩を向けるとそこには、いわゆる娼婦たちの家があったと言われる。
そこには図書館の地下室からも近道をぬけて行けるようになっていたと言う。
図書館で学習しなかった男性はどの位いたのだろうか、と思わず苦笑してしまう。
さすが娼婦の町・・・。
使徒パウロがエフェソで福音を宣教したことは良く知られるが、あの「イエスの愛する弟子」と言われたヨハネも、マリアを伴ってエフェソに居留したと伝えられる。
エフェソ中心の遺跡から、徒歩20分ぐらいの小高い丘の上に「マリアの家」と呼ばれる巡礼地がある。
当時を偲ばせる生活用具などが多少展示されており、現在では修道院、司祭館、礼拝堂なども新設され、多くの巡礼者の来訪を見る。私が訪れた時は、簡単な小屋しかなく周辺も歩道は確保されていたが、もの寂しい場所であった。
前教皇ヨハネ・パウロ二世とトルコ側の交渉により、ポーランドから司祭と修道女が派遣されてから徐々に整備されたと聞く。ヨハネが宣教活動をする傍ら、マリアが住んでいた場所であるという伝承から「マリアの家」と呼ばれている。
イスラムは唯一絶対の神であるアッラーを信仰するということでカトリックの父である神への信仰と同根である。
カトリックが御独り子イエスの神性、そして約束された弁護者としての聖霊の神性を表明し、いわゆる三位一体の神を信仰対象にしていることから、ムハンマド(イスラムの始祖)はキリスト教から距離をおいた。
しかし「救い主」登来の前にはエリアのような「偉大な預言者」が再来するとの預言を保守し、「救い主」(ムハンマド自身)の前に現れる偉大な預言者として「イエス」を位置づけ、相応の尊敬の対象としている。
従って、イエスの母であるマリアについても尊敬を示しているのである。
「クルアーン」(イスラムの啓示書)の中にも、マリアの受胎告知の条りが記されている。(19マリアの章)
そのため、あの「マリアの家」では毎年、カトリックとイスラム両者が共に集い、マリアを称える祭礼が行われているのである。
「マリアの家」から下る道の途中に「マリアの墓」と言われる場所がある。
清楚で掃き清められた場に立つと、イスラムの地でこれほど丁重に遇せられていることに少々戸惑いを感じる。
しかし同時に、世界には合計四つのマリアの墓があるという風説を想い起こすことにもなる。
確か聖母は被昇天(復活)の恵みを受けた・・・つまりその死とともに人類の先駆けとして復活の栄光にあずかったのならば、聖母が墓所に埋葬されたということは素直には受け入れ難い。
でもそのような物理的なことはどうでも良いのかも知れない。
エフェソの人々はここで聖母が生活を共にし、ともにキリストの福音を証しし、ついにはこの地でその生涯を捧げた・・・という伝承を誇りとともに大切に守っているのであろう。
聖母の足跡はエフェソに確実に刻まれており、墓所を通してかれらの祈りが天に届けられていることに喜びを感じているのかも知れない。言われてみればエルサレムには復活の主であるイエスの墓所(聖墳墓教会)だってあるのだから・・・。
聖母マリアについて最も詳細に伝えている福音記者のルカでさえ、聖母の死(被昇天)についての記録は残していない。
確かに福音書の主役はイエスであり、告げられる対象は聖母をはじめ、弟子たち、私たちなのであるから、イエスのメッセージに力点を置くのは当然である。
そして、よしんばルカが聖母の被昇天の恵みの事実に接したとしても、劇的なニュースにはならなかったのかも知れない。
なぜなら、イエスの約束が聖母に初めて現実化したのであり、やがて近い中にその他の人々にも同じ恵みが与えられると、単純に確信していたのであろう。
聖母が救い主の生みの親、育ての親、救いの最も近い協力者として、人間の中では最初に復活の恵みを受けることは当然のことと受けとめられ、何も驚くことではなかったように見受けられる。
つまり、聖母の被昇天祭を祝うということは、キリストの十字架によって私たちに実現する永遠の生命への参与、つまり復活の恵みについて更めて確信することに他ならない。
私たちの教会も、母であるマリアと同様、子を産み(洗礼)、子を育て(奉仕・養育)、救いへの協力(宣教・証し)をする者として、マリア的に生涯を貫くことにより、被昇天、つまり復活の恵みに浴することになるのである。
5世紀のエルサレムで8月15日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになった。
7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、マリアの被昇天の名で知られるようになったのは8世紀になってからである。
1950年に教皇ピオ12世(在位1939一58)は、マリアが霊肉とも天に上げられたことを教義として宣言した。教会は、キリストと最も深く結ばれていたマリアが、真っ先にキリストの復活と栄光にあずかっていることを祝うのである。
教皇ピオ12世の発布した使徒憲章「恵みあふれる神」(1950)には、聖母被昇天について多くの古文献などを混じえ、聖母の天上の栄光という恵みを示している。
(おわり)