ペトロ 岩橋 淳一
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2・1‐4)
イエスの約束
さて、私たち人類と神との関わりを、歴史的観点から次のように述べる人もいます。
つまり、旧約時代は「父」の時代、キリストご誕生からご昇天までを「子」の時代、そして聖霊降臨から今を経て世の完成までは「聖霊」の時代…という発想です。
創造の時と世の完成(すべての人が復活の恵みに参与する)の時には三位の神が秘義を啓示されますが、私たちとともに歴史を歩まれる神を捉えようとする一つの考え方でしょう。
イエスは使徒たちに次のように語り、確固たる約束をしてくださいました。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。
・・・・あなたがたをみなしごにはしておかない。」(ヨハネ14・16以降)
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14・25-26)
「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16・7より)
そして、イエス自身にも聖霊はその一端をのぞかせます。
聖霊がマリアに降り神の力が覆うお告げの場面、イエスが洗礼を受けられた場面、イエスが宣教を開始した際、安息日に集まった人々にイザヤ書を読まれた後、主の霊が自分にある旨宣言されました。
神学的理解
聖霊は三位一体における第三の位格であり、信条の第3項に属する信仰対象です。
正統信仰の信仰宣言における神は第3項なくしては語ることはできません。
このような三位一体の神の捉え方において、聖霊は父と子とともに同等の本質を永遠に共有し、父と子が働く時間と空間において、常に同じように働く神の霊なのです。
聖霊は、父と子との結びつきと、その関係の超自然的完全性のゆえに、「位格」(ペルソナ)と呼ばれるに値するのです。「位格」とはもともと「顔」あるいは「面」を意味する言葉です。
第一と第二の位格はそれぞれ父、子としての「顔」をもっており、超自然的現実を擬人法的に捉える傾向にある私たちの想像力にとっては分かりやすいものです。
しかし、第三の位格である聖霊の「顔」は想像しがたいですし、その働きは理解できても、独自の位格として理解することは、やはり困難です。
従って、聖書に表現されている「炎」とか「鳩」のような象徴でしか想像できないのも事実です。
また、通常の自然的体験(次元)において、人間の働きの原動力が精神であり、事物を認識するのが精神であることを考えれば、信仰の次元において、聖霊が神の業を行い、被造界を完成の日まで見守り、そして信仰を可能にする認識の根源である…ということを肯定できるように思います。
しかし、最も大切なことは、イエスの約束のことばを信じ切ることに尽きるでしょう。
そして私自身の人生の中、人類の歴史の中に着実に示されている神のみ心を感じとることであると言えましょう。
神の働きは私たちには測り知ることはできないからです。
わたしたちのベクトル
末筆になりますが、使徒言行録(ルカが著者)によれば「五旬祭」(ユダヤ教の収穫祭)の日に聖霊が降臨したとあります。
「五旬祭」のギリシャ語が「ペンテコステス」と言うことから、この日のことを「ペンテコスト」(pentecost)と呼ばれるようになりました。
主の復活から50日目に聖霊降臨を祝う典礼ですが、実はこの7週間は「復活節」と特別に呼ばれるのには意味があります。
主の「復活」は、私たち人間の過去、現在、未来に対し、決定的な救いがもたらされ充満する出来事ゆえに「復活の主日」が7週間、切れ目なく続き、神に対する礼拝、賛美、感謝が続くことを意味します。
何万日、何億日あっても人間の業は、神の慈しみに応えることはできませんが、この7週間に、その人間の気持ちが込められていることを忘れたくはありませんね。
私たちに聖霊を降された神のみ心に応える以外に私たちの前途はないのです。