生から死へ、そして死から生へ

 

ペトロ 岩橋 淳一

「エルサレムの王、ダビデの子であるソロモンが言ったことを、皆さんに当てはめることができます。
『生まれる時があり、死ぬ時がある』。(コヘレト3・2)
ただし、皆さんにとっては逆です。死ぬ時があり、生まれる時があります。
ただ一つの時がこの二つのことを生じさせるのです。
あなたがたの誕生は、死と時を同じくしています。
なんと不可思議で、逆説的なことでしょうか。
わたしたちは実際に死んだのでもなければ葬られたわけでもありません。
実際に十字架につけられて復活したというのでもありません。
ただ象徴的な動作によって模倣しただけです。
しかし、それによってまことの救いを得たのです。
キリストは実際に十字架につけられ、葬られ、そして真に復活なさいました。
このすべては、恵みを通してわたしたちに与えられます。
キリストの苦しみを模倣する動作でキリストの苦しみに結ばれたわたしたちは、真に救いを受けます。」
この引用文は、初期のエルサレム教会における入信の秘跡後の教話として伝わるものです。
当時の洗礼式は実際に水の中に全身を浸水させて、この世と自らのいのちを捨てるという象徴的動作を伴いました。
そして水からあがった受洗者は、キリストと共に死んだ後、キリストと共に復活するという恵みを受けるのです。

新しい受洗者に向けて、洗礼の意味する壮大な救いの秘義を伝える力強い確信が響いてきます。
神の独り子キリストのみが十字架上の死から復活なさるというだけで俄(にわか)には受けとめ難い驚きと歓喜であるにもかかわらず、何と、わたしたちもその復活にあずかるのです。
一体人間のだれがこのような救いを想像し得たでしょう。
新しい受洗者にとどまらず、洗礼を受けているわたしたちにとっては真の至福に違いないのです。
わたしたちの日々の小さな十字架や罪色(つみいろ)に染まった生活からは、決して到達し得ない永遠のいのちの門が開かれ、わたしたちを待っているのです。
何と感動的で慈悲に満ちた現実でしょう。

このように喜びの信仰のうちに在りながらわたしたちは、やはり「死ぬ時は死ぬ時である」という神不在の価値観によって構築された社会構造の中で、必死に生きている現実なのです。
世の中の流れや成行きに逆らったり、淀(よどみ)に立ち止まり続けるにはとても力が足りないのです。
そして「このままでは良くない」と感じつつも、いつしか流されている自分に気づくのです。
ところで、イエスさまは力強い福音をわたしたちに述べられます。
「あなたたちを人を漁る者にしよう」(マタイ4・18-22、マルコ1・16-20、ルカ5・1-11)と。
そう、流れの中にあるわたしたちを網ですくってくださり、逆に流れの中で苦しんでいる多くの人々のために網を与えてくださったのです。
わたしたちを不毛のゴールへの流れから、愛のゴールに導く力強い網が働くのです。
この網こそ、イエスさまを中心に集う「教会」でしょうか・・・。
疲れた者の休みの場、傷ついた者の癒しの場、信仰・希望・愛を育む場、神を礼拝し賛美し、そして感謝する場であるに違いないのです。
しかし、わたしたちは再び同じ流れの中に戻されるのです。
それは流されるためではなく、流れそのものの方向を逆に変えるためなのです。
皆いっしょに神の愛のゴールに向かうためにです。
今度は独(ひと)りではなく仲間もいっしょです。
互いに分かち合い、励まし合って流れを泳ぎながら、流れを変える大工事に取り組むのです。
そこには神の御手も働かれることを確信する希望の人々による声が響くのです。
いつしか仲間たちが増え、天使たちも相(あい)和し、気がつくと、イエスさまの笑顔と共にある私たちが在る・・・そんなフィナーレは夢ではないのです。

単なるたとえ話になってしまいましたが、所詮わたしたちには神さまのなさり方は測り知れません。
神の似姿として創造されたわたしたち、その感性と理性を可能な限り活用し一歩でも近づこうとするしか道はないのでしょう。
神さまに向かおうとするこの必死の努力の延長線上に、わたしたちの信仰が、わたしたちを復活なさったキリストのもとへと導いてくれる・・・こう確信して今日(きょう)もわたしは宣言するのです。

「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで!」

(おわり)

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