神の母となられた 聖母マリアを称えて

 

ペトロ 岩橋 淳一

主のご降誕を心からお慶び申し上げます。
たしかに新しい いのちの誕生、しかも神の神秘に溢れたいのちですから、慶びもひとしおです。
「母」としてのマリアは、キリスト教の伝承の中では重要な役割を占めています。
たとえ福音記者たちが、当時の急務であったキリストによる福音の中心的使信を述べ伝えることに 熱中していたとしても、マリアの存在は不変でした。

ルカは、その福音書の初めの部分にマリアを主人公として登場させ、使徒言行録による教会誕生の際には、「高間」で弟子たちとともに祈るマリアを紹介します。
この世におけるキリストによる救いの道の第一歩には、マリアをなくてはならない存在として提示します。
ヨハネは、イエスの宣教活動の初め(カナの婚礼)と終わり(十字架の立つゴルゴダ)のシーンにマリアを示し、イエスによる彼女の役割(存在意義)を権威づけて明示しています。

イエス・キリストの救いに招く神秘的言行を深く観想するに伴ない、イエス自身が母としても欲した女性について、その存在の理解も一層深まるのです。
中でも、マリアに対し「神の母」という大胆にして驚嘆すべき称号をオリゲネス(二五三年?没。古代ギリシア教父中最大の聖書研究家、神学者)が用いたのを皮切りに、四世紀には早くも広く神学界や一般民衆にも使われるようになります。
そしてエフェソ公会議(四三一年)において、「神の母」というマリアへの称号が正式に決議され公布されるに至って、西方教会においても普遍的に用いられるようになります。
これは、キリストの誕生(受肉)における神性と人性の結合というキリスト論に、マリア崇敬(崇拝ではない)が加わり生まれた称号であり、常にキリストとの関わりの中で、マリアを捉えている結果なのです。

マリア自身の信仰は、それがたえず不安と試練の中にあったとしても、神への信頼を軸にたえず祈り黙想し、献身的に奉仕することによって、徐々に光を受けて深まっていくつつましい信仰でした。
マリアは、神の言葉(キリスト自身もこのように呼ばれる)を注意深く心に留める信仰に生きていたからこそ、イエスは、自分をその胎に宿した彼女は幸いであると宣言するのです(ルカ11・27~28)。
マリアはその上、イエスとの関係において独特な位置にあるのです。
すなわち、自らの承諾をもってイエスの母となったことです。
結果として「神の子」を産むマリアは後に、神の民の代表として神の子を宿し、イエスの救いの業の最も近い協力者である母として感謝と称賛を受けることになるのです。
「母」としてのマリアは、単なる象徴的な存在ではなく、実際なのです。

わたしたちに、もし神のみ前に誇るべき人間がいるとすれば、それは先ず神でありながら人となられたナザレのイエスそのものであることに議論の余地はありません。
だからこそ、罪深いわたしたちは父である神のみ前に進むときには、必ずわたしたちの仲間であると同時に神の愛する御独り子イエスを伴うのです。
イエスによる救いのみ業(父である神との和解)ゆえに、わたしたちは神の恵みに浴するのです。

そのイエスの懐妊、誕生の時から関わることになる母マリアについて、神の民は黙してはいられないのです。
神の民の一人であるマリアに示された父である神の愛の恵みに対し、わたしたちは心からの感謝と賛美を惜しむことはあり得ないのです。
わたしたち神の民は、そのすべてを挙げて、神の恵みに包まれている彼女に対して、大胆不敵にも「神の母 聖マリア!」と声高らかに喜び称えるのです。

(おわり)

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