ペトロ 岩橋 淳一
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎めのためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって
わたしたちはいやされた。
――イザヤ53・4‐5 (紀元前6世紀)――
主の復活とマリアの不在
十字架上で苦しみ息を引きとられた息子を見上げる母の心中はいかばかりであったかは想像に難くない。しかし救い主の母としてのマリアには大きな確信と信仰があったに相違ない。
大天使ガブリエルによる受胎告知に始り、幼な児イエスの奉献のときに神殿で出会った老シメオンのことば「万民のために整えてくださった救い、異邦人を照らす啓示の光、(神の)民イスラエルの誉れ」(ルカ2・22-35参照)に戸惑い、過越祭のときエルサレムの神殿の中で12歳になったイエスに「どうしてわたしを捜したのですか」(ルカ2・41以降)と言われ、訳がわからなかったマリア。
彼女は必死に神の御旨をさぐり、それに協力しようと努めた。
自分が産み育てたイエスは、自分の子でありながら、遥かに自分を超えていく体験を通して、彼女は徐々に神の救いの計画の中に着実に組み入れられていく。
それと同時に聖霊はマリアを徐々にメシア(救い主)の母へと導かれる。
このマリアの歩みの交差点にイエスの十字架が立つ。
苦しみと悲しみの頂点にありながら、マリアは神の御業に絶大な信頼を寄せる。
「仰せの通りにこの身に起こりますように」というマリアの信頼のことばは懐妊という喜びにとどまらず、息子の死という苦しみにも及んでいた。
冒頭に引用したイザヤのメシヤ預言のことば・・・・マリアは御子の流した血に染まる地面に立ち、十字架を見上げ、この預言のことばをかみしめていたに違いない。
そこには「三日目」を力強く信じる希望にあふれるマリアの姿もあったに違いない。
一方、弟子たちは恐怖と絶望に満たされており、イエスの直前の確約のことば、「・・・・多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(マタイ16・21)ことなど、だれ一人として口に出さない。
それほど公然と行われた処刑によるイエスの死は、かれらの心も頭も支配していた。
やはり死はすべての終わりなのか・・・・。
使徒たちも私たち同様、弱く切ない人間なのだ。
イエスの十字架上の死以降、福音書には母マリアの姿はない。
女性たちが墓所に行く時も・・・・。
「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(ルカ24・1以下)という天使のことばも、マリアはきいていない。
その女性たちの喜びの報告を聞く人々の中にもマリアはいない。
復活したイエスが弟子たちに現れる時にもマリアはいない。
イエスが天に上げられる時にもマリアはいない。
一体どうしてなのか。
福音記者があえて彼女を無視したのか。
あるいは本当にマリアはその場におられなかったのか。
それとも・・・・。
皆さんの信仰的想像力を駆使してマリアさまを捜してください