私史の八月

 

ペトロ 岩橋 淳一

八月の声を聞くと、日本人の一人として、どうしても昭和20年の出来事が頭をもたげてくる。
日本のみならず、中国、朝鮮半島、東南アジア、南西諸島など日本と関わりのあった国や地域を含めると、一体どれほどの体験と記憶が数えられるのだろう。
一人一人のそれは実に濃厚なのだ。

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当時、私の家族――両親、弟妹、私――は長崎市に在ったが、市街地よりの疎開が実施され、約15キロ離れた日見村へ移っていた。
市内の聖フランシスコ病院に結核で入院静養中であった父は、家族と共に存ることを望み、ともに疎開した。
後日談ではあるが、その病院は崩壊し、入院患者さん達は被爆死したとのことである。
父は、生産モートルが24時間稼働し続けてもオーバーヒートしない冷却装置の開発を手がけており――軍部の緊急要請に応えたものとのこと――、一号機の結果を検証し、改良点を見出す、その過程で病に倒れた。
その父の専門書籍や研究資料などは多かったそうで、疎開先には持っては行けなかったため、会社の同僚宅に預かっていただいたとのことである。

八月六日、広島に落とされた「新型爆弾」が原爆であると確信した父は、アメリカに対しどのような心境にあったであろうか。
会社からアメリカに数年間留学し、当時最先端の電気技術を修得し、数多くの友人もいた父であった。

八月九日、原爆が長崎に投下される。
私たちの住居(すまい)は五〇〇メートルほどの日見峠を越えた所に在ったため、直接原爆照射からは免れたものの、風に乗ってきた爆発後の灰は、真夏の雪のように周辺を白く染めた‥‥という印象が残っている‥‥なにしろ当時私は五歳であった。
戦後20年ほど経って実施された残留放射能調査の結果、ガイガー計数計は不気味な唸りをあげ、私たちの疎開先も汚染地域だったことが実証された。

八月十日、父の荷物を預かってくださっている会社の方が私たちの住居まで、徒歩で訪ねてくださる。
ご本人はホコリで黒く汚れていたように見えたが、実は被爆して火傷を負っておられたのである。
軍部が、爆心地周辺をすべて整理するために速やかに運び出す物を引き取るように日限を切って指示が出たとのこと、それを伝えるためにわざわざ訪ねてくださったということであった。
彼の奥さんは外の井戸に水汲みに出ていた時、被爆し吹き飛ばされて即死したという。
ご本人は崩壊した家の中に居たおかげで火傷ですんだとのことであった。
そんな中、本当によく伝えに来てくださったと、今もなお感謝の念に堪えない。彼はその一か月後帰らぬ人となった。

八月十二日、母はやっとの思いで荷馬車を借り受け、朝から父の荷物を取りに市内の松山町に御者とともに出かける。
御者は、当時28歳の母を甘く見て、自分自身の都合で途中で荷を積みこみ、結局松山町に到着したときには荷台は半分も空いておらず、母は心で涙して予定していた父の荷物を多くあきらめざるを得なかったという。
なんだかんだで帰宅は午後八時頃になる。
私を筆頭に4歳の妹、2歳の弟の三人と病床の父‥‥父は心配と不安と自分の無力さに心は張りさけんばかりだったであろう。
その時、母も御者も知る由もなかったが、爆心地周辺に入ったことにより、放射能を充分に浴びたことには違いないのである。
もちろん当時は無知の被爆者が数えきれないほどいたであろうし、幸い母は現在も歳なりに生きている。

(中略)

原爆投下から半年後の二月四日、父は息を引きとった。放射能汚染のために必要な食材が入手できず、父の病は薬も栄養もとぎれ、回復の可能性はなかった。
 ・ ・ ・ ・ ・
私が小学5年生のときに、母は父が会社で使っていた最後のノートを開き、残りの日紙部分を示しながら、「この続きはジュンが書いてくれるわネ!」と父の夢を私に託した。
もちろん、そこには母に確約する自分がいた。

(後略)

おわり
注意:(中略・後略)は岩橋神父様の原稿の通りです。

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