水面にはえる月のよう

 

ペトロ 岩橋 淳一

心をつき上げるような友のことば、こころにしみる親のことば、見知らぬ人の親切なことば…。
どうして自分の心を動かすのでしょう。
音声を耳で聴き、意味を頭で聞き、そして心に効いてしまいます。
この現象を分析し解明し説明せよ、と言われても多分うまくできない気がします。
「聖霊」についても、理路整然と説明を試みることには戸惑いを感じるのは、私だけではないと思います。
ある出来事の結果を観て、「これは聖霊の働き?」と察することはあっても、確定的に断言するには、勇気も信仰も足りない自分がいるのです。
多くの人の心を捉えた、あの『星の王子さま』で語られることば、「大切なものは見えない…」ということなんでしょうね。
確かに聖霊はデジタル化できませんよね。

神学的理解のために
キリスト教の神信仰は、ユダヤ教のそれを継承しイスラムとともに一神教です。
ところが、キリスト教では、その一神教的信仰の本質が父と子と聖霊の三位一体にあることを啓示によって示されたと信じるのです。神の唯一性は三位格が永遠からの神性を共有し、分かち合いの純正、厳格な超自然的単一性を意味しているということですので、正に信仰の神秘なのです。
三位一体性とは、それぞれが固有のの完全な一致の関係であり、唯一の神の内面の生命と働きが超自然的ダイナミズム(力動性・発展性)であることを示しています。
つまり、各位格は少しも一体から外れることなく、なおかつ独自性を喪失することもなく、かえって一体であるがゆえに固有性を発揮しつつ、完全な交流を神の生命の外に現わしているのです。
このような三位一体の神の捉え方において、聖霊は父と子ととともに同等の神的本質を永遠から共有し、父と子が働く時間と空間において、常に同じように働く神の霊なのです。
聖霊は、父と子との結びつきを現わすために、またその関係の超自然的完全性ゆえに、「位格」と考えるのです。
第三の位格である聖霊は、父と子とくらべてその「顔」は想像しにくく、その働きは理解できても、独自の位格として理解することは困難です。
〝炎〟とか〝鳩〟のような象徴でしか表現できないのも事実でしょう。
しかし、通常の自然的次元において、人間の働きの原動力が精神であり、事物を認識するのも精神であることを考えれば、信仰の次元において、聖霊が神の創造の業を行い、被造界を完成の日まで見守り、私たちをその日まで導くという信仰を可能にしてくれるということも肯定できるかもしれません。

現代的理解のために
聖霊の働きは、各信仰者の自主性に基づく信仰形態を保証するとともに、高度に多元化した社会に存在する共同体としての教会の信仰の一致を促進するものであると考えられています。
神は、複数の自立的存在が相互の愛によって認め合う交わりを実現し、分かつことのできない完全な一体性を示しておられます。そのような神を聖霊は、啓示によって人間に教え、さらに、人間・社会・世界をキリスト教的に理解し、その交わりと一致に近づくようにと導くのです。
この意味で聖霊は、世界の創造者であると同時に完成者であり、私たちに厳密な意味での神の三位一体的一致の神秘を、神秘として理解させ、参与させるために働いていると言えるでしょう。

学者さんの用語や論述で解説する聖霊論はいかがですか。
一行一行理解納得して次行に移るにはかなり時間がかかりますでしょうか。
つまるところ自分の信仰によって、聖霊の支えの中で聖霊を体験することにかかっているのでしょうね。
この熱い体験こそが、聖霊理解の原動力になることに間違いないのです。
「聖霊来てください。そして、わたしたちの共同体を満たしてください。わたしたちを神の愛の交わりの中に加えてください。」

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