持ちつ持たれつ……

 

ペトロ 岩橋 淳一

ふと気がつくと、わたしは皆と一緒にうす暗い閉めきった部屋の中にいた。
心なしか体がこきざみに震えていた。
それもそのはず、一昨日のゴルゴダの丘の出来事が脳裡に焼きついたままなのだ。
病人を癒し、障害を取り除き、死者まで蘇らせた、あの力強い方。
貧しい人々には時折パンを配り、何より神の祝福を約束し信頼と希望の人となられた方。
絶対的権威をもって君臨する指導者たちに対して、毅然と神の真実を示した方。
なによりも、この取るに足りないわたしに対しても神の福音をもたらし、人生の目的と希望を生んでくださった方。
その方が 十字架刑による悲惨な最期を遂げられた…。
その時、何も起こらなかった。そこに集まった多くの群集による処刑反対デモもなく、指導者たちの心変わりもなかった。天の大軍による救出作戦もなく、その方ご自身による不死身作戦もなかったのだ。
一体、自分はその方の救出のために何をしたのだ。
多勢に無勢なら、せめてその方と共に死ぬことはできたのに…。
なぜ自分はこんな所でまんじりともせず無策のままで人々の目を避けているのか…。
あんなに自身たっぷりだったペトロ兄も……まだ涙がかわかず眼を赤くはらしているし、まだ若いヨハネ兄もすっかり打ちひしがれて隅っこに座ったままだ。
誰一人、口をきこうとはせず相変わらず部屋は重く静まりかえっており、空気でさえ動くことを遠慮している。

自分はこれからどうなるのだろう。
いやどうやって残りの人生を過ごしたらいいのだろうか。
あの方の澄んだ熱い、その向けられる視線の焦点。
把え、感じ、すぐ動かれるその手足。語られる言葉に溢れ出る神の恵み。
自分は小さく弱い者であっても、いや、小さく弱いものであるゆえに、その方に大いに興味を抱き、いつの間にか今日まで追っかけになっていた。
全人間的と言うか全存在的に発しているその方の愛の炎から逃れられない自分を発見したのだ。
でも、あの方は亡くなってしまった。
自分だけではなく、あの方に希望と信頼をおいていた仲間たちにとっても まったく同じ状況なのだ。
このまま故郷に戻って元の仕事をしようと思っていても、なぜか足が動かない…。
このまま、みんなが分かれて散っていくことを止める何かを感じているのだ。
だから、みんな同じ場所にじっとしているしかない…。
あの方に出会って、ともに過ごしていたときに感じた喜び、期待、安心は一体何だったのだ。
自分の一生をあの方に捧げようと決意した自分はどこに行ったのだ。
その都度わかり易く説明をしてくださり、決して自分たちの無知を叱ることもなくレベルを合わせてくださったあの方に対する愛は、最早、引っ込みがつかない…。
でも、あの方はもうこの世にはおられない。
この虚脱感は拭いようもない…。

こんにちは!
静寂を破って、突然元気の良い声が部屋中に響いた。
だ、だれだ、こんなときに…と、びっくりし、声のした方向に体を向けると……ど、どうして…な、なぜ…。
それはあまりに唐突な出来事。
そこに居合わせた自分でも信じられない光景をどのように説明したら良いのか。
そう、 あの方が…。
亡くなったはずのあの方が…笑顔で立っておられる。
何度 目をこすっても、さすってもなのだ。

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいた頃 言っておいたことである。」
あの方はとした声で話し始められた。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」
そ、そうか。
そうなんだ。
詩篇22章…。
それにイザヤ書53章…。
加えるにホセア書6章2節…ピン・ポイント預言だ!
それにあの方はご自分の受難、死、そして復活について折りにふれ予告しておられた…。
なぜ忘れたんだろうか。
それより十字架上で息を引きとられたあの方を見た途端、頭が真白になっちゃって…、自分はこれでお終いだと思ってしまうほど慌てたのだ。

あの方の声だ。
「ここに何か食べ物があるか?」
だれかが焼き魚を差し出すと、あの方はおいしそうに食べられた。
その間だれも、あなたは本当にあの方なのですネ、とたずねる者はいなかった。
あの方の約束のことばをすっかり失念していた後ろめたさから、だれもあの方と目を合わせることすらできずに…。

「さあ、みんな。」あの方が声をかけられたとき、はじめて部屋が割れんばかりの歓声とどよめきに包まれた。
その中の一人として自分も両手を挙げて喜びの声を挙げた。
そして、手当たり次第に仲間の肩をたたいたり抱き合ったり、もう何者かに動かされているようで自制ができなかった。
自分の未来に希望の光が指し込み、再びあの方との生活が始まるという喜び…。

ピー ピー ピー

おっ、目覚ましが鳴った。
もう朝か。
復活した主イエスに出会えるミサが始まる。
(おわり)

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