「遊び」から「祈り」へ、そして…

 

ペトロ 岩橋 淳一

その昔、「カラミティー・ジェーン」という映画があったのを借りて、東京教区には「カラミティー・ベスト3」というのがあったんです。
つまり、酒の席で必ずと言って良いほど仲間にからむ司祭たちの中からベスト3を選んだときの呼び方でした。
「カラむ」ということから「カラミティー」という言葉を連想したのだと思います。
原語の意味は「大災害」とか「災難」ということで、カラまれた人にとっては、それこそ災難だったかも…。
因みにそのベスト3のH師、S師、T師は、今もご健在です。
そんな中で「プレイボーイ・ベスト3」というのもあったんです。
もちろん司祭たちのことですから世俗的な意味合いというより、よく外国に出掛ける司祭のことを意味していました。
そのナンバーワンは? それは何を隠そう、前主任司祭のF師です!
私が彼にそんなことを言おうものなら、彼は苦虫をかみつぶしたような顔で、「なにいってんだヨ。アンタだよ、アンタ!」と反撃するところがカワイカッタ(?)ですし、往生際が良くなかったですヨ。
かく言うわたしは「メイドイン・ジャパン」の司祭ですし、留学経験もなくF師のようにローマを基点にできるようなスケールなんかありません。
でも、自分が立ち、呼吸し、生活している場所は、もちろん、日本国東京都台東区下谷一丁目五番九号であることは確実ですが、自分の意識には、アジアを含め、まさに地球というイメージが強いようです。
ひょっとしてF師も同様だと思われますし、その意味ではわたしも「プレイボーイ」かも知れませんネ。
頭や心は物理的制限を超え、諸外国は当然のこと天の国まで旅ができますし、何より凄いのは時間を超え、二千年前のパレスティナにも行けますし、そこで汗をかいて動かれ語られるイエスさまにも出会えるのですから…。
ですから、F師は自分の本国は天に在り、というわたしと同じような感覚なのだろうと、勝手に想像しているのです。
ですから、自分の身がローマに在ろうと、ザンビアに在ろうと、パタゴニアに在ろうと、天の国籍人にとっては、上野に居るのと大差ない感覚なのだろうと、勝手に思っています。
「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3・20)と使徒パウロが確信するように、教会のみならず、この地球に国境線とか国籍というもの以外の価値が実現されればいかに素晴しいかなと願う一人です。
正義と平和と愛を破壊し続ける現実に直面する人、地球の国境を超えて色々な人々と出会う人ほど、その願いが深まり強まるのかなと直観的に捉えているわたしです。
だからこそ祈りが真摯にならざるを得ません。
「PLAYBOY(プレイボーイ)」(外遊人)が「PRAYBOY(プレイボーイ)」(祈る人)に変質するチャンスなのです。
そして「祈り」はいつしか自分の手足をはじめ全身にみなぎり、じっとしていられなくなるのです。
「信仰」は「行ない」と直結せざるを得ませんネ。
自己紹介のほんの一部でした。

(主任司祭)

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