四旬節にあたって

 

フランシスコ・ザビエル 深水 正勝

今年も四旬節が始まりました。
本当にこのごろ私は時の流れの速いことに驚いています。
「うぐいす」を読んで頂いている皆様には、昨年のクリスマス以来ですから、その間にいろんなことが起きていました。

1月8日、御公現の祝日には、上野教会の聖堂が満員になるほどの人々が集まってくださり、白柳枢機卿様をお迎えして、私の司祭叙階 40周年のお祝いをしていただきました。
普通司祭叙階のお祝いは、25周年の銀祝、50周年の金祝と決まっているのですが、私の場合こんなことがありました。

1966年 御公現の祝日に、時の教皇 パウロ6世は、その前の年に終わったヴァチカン公会議の記念のひとつとして、それまで数百年間も行われることがなかった、教皇様が直接、司祭叙階を行われるということを言い出されて、たまたま、私たちの布教聖省直属の神学校が選ばれ、幸いにも私たち65人にその白羽の矢が当たったのでした。
65人の内訳は、アフリカの27人が最高で、国も南アフリカから3人(当時は、まだアパルトハイトという人種差別政策の強いときでしたから、黒人や、有色人種は自分たちの国内でカトリック司祭になることができませんでした。

やっと独立したばかりのコンゴ共和国からは、11人、ケニア 2人、タンザニア 1人、ブルンヂ 3人、ニジェリア 5人、ザンビア 1人、ダホメー 1人。
ヨーロッパからは、アイルランドの1人だけ。
アメリカも1人だけ。
メキシコから2人。
オーストラリアから、8人。
ニュージーランドから2人。
南太平洋の国フィジーから酋長の息子であった精悍で、ラグビーの選手だったラトウロコ神父。
中近東からは、イラクの1人、レバノンのコプト典礼(現在私たちの属するカトリックは、ラテン典礼といわれますが、それよりもずっと古く、エチオピア、エジプト、レバノンなどで栄えた典礼)の2人。
最後にアジア州からは、中国2人、韓国2人、ヴェトナム2人、スリランカ4人、パキスタン2人、インド6人、日本からは、大阪教区の和田幹男神父、神林宏和神父、京都教区の越智健神父、村上透磨神父、長崎教区の萩原神父、そして東京教区から私でした。
これだけご覧になっても私たちの神学校が、いかに多くの国、民族、言語、肌の色、習慣、伝統などの違う若者たちの集まりであったかがお分かりになるでしょう。
しかも、入学以来 長い人はほぼ10年間、短い人でも5年間は、同じ建物に共同生活をしながら、同じ釜の飯を食い、同じぶどう酒を飲み、同じ言葉 イタリア語、英語、フランス語などで話し合い、同じ時間割、同じ年間プログラムで生活し、同じ聖堂で祈りの日々を送ったのですから、私たちのつながりは、本当に深いものとなりました。
司祭になってすぐ自分の本国に帰って働き始めた人もいれば、かなりの人数が、ローマの大学院などに残って将来帰国してから、自分の国の神学校で教えるための資格を取ることになりました。
こういうわけで、私のもっとも親しい仲間たちといえば、アジア・アフリカ・オセアニアということになりました。
私たちのクラスは、なぜか日本の神学校でも、たがいに仲がよく助け合ったのでしたが、ローマでも私たちのクラスは、とても仲がよく、ローマをたった後も当時はメールなどはなく、文通でしたが、お互いに連絡を絶やさず、つながっていました。
25周年の銀祝の祝いには、当然、ローマの母校に帰り、時の教皇様ヨハネパウロ2世の特別謁見を戴いて一週間をともにすごしました。
そのとき、誰ともなく、これからは5年ごとにどこかで集まることにしようということになりました。
30周年は、南アフリカのケープタウンに集まり、35周年は、香港・中国を一緒に旅しました。
こうして40周年は、やはりローマで集まることになったわけです。
今年はすでに半数の30人が参加するということになり、もう一年以上前からお互いに連絡を取り合って、五月の最後の一週間を楽しみにしています。

こんなとき、突然 岡田大司教から連絡が入りました。
上野教会での6年間を終えて、清瀬教会を引き受けていただけませんかという願いでした。
私は、早速大司教館まで出かけて行き、岡田大司教に直接お目にかかることにしました。
岡田大司教とは、普通、メールで連絡しあうことが多いのでしたが、人事異動ともなると、やはり良く相談したいと思ったわけです。
岡田大司教は、東京大司教区の司祭達の仲で近年、重い病人が増えており、最大の悩みだと話し始められ、これまで病気らしい病気をしたことのない私に是非とも今年動いてほしいと言うことでした。
私は、ローマから帰国して以来、大司教館での仕事が長く、小教区では、最初に関口教会の助任司祭を2年ほどしたのち、私の叔父の浜崎正雄神父が、建設中に突然心筋梗塞で帰天された後を受けて、千葉県の柏に出来上がったばかりの教会で働くことになりました。
子供たちの多い若い家庭が中心の柏教会時代は6年間続きました。
その後、カトリック学生への働きの場であった真生会館に移り、そこでもかれこれ10年ほど楽しく働きました。

その後、大司教館の事務局長までやりましたが、あまり適当な職場ではありませんでした。
ついで豊島教会、本郷教会を経て、2000年に上野教会に働くことになったわけで、それ以来もう6年間がたったということです。
一言で言って、上野教会は大人の教会でした。
子供ばかりか、中学生、高校生、大学生が居らず、さらに若い2代目も非常に少ないのには、困りました。

でも一方では、私の原則としていた発想ですが、「小教区の運営、活動、維持は、なるべく可能な限り、信徒の皆様にやっていただく」ということが、難なく受け入れられて,少ない人数ながらも、皆さんが手分けして、働いてくださる教会でした。
長い間、パリ外国宣教会の神父様たちの活動方針は、「現地の教会が、自分たちでできることは、可能な限り自分たちでやってもらい、宣教会は、現地の教会が自力で立ち上がるのを見たらなるべく早く他の地に移り、いつまでも一箇所にこだわらない」ということでした。
この点は、外国宣教会のお手本のような上野教会でした。
実際パリ外国宣教会の活動は、今日の東京のみならず日本全国に教会の芽を育て、少し大きくなると後は日本人信徒、司祭にゆだねて、自分たちは、他の僻地に移って活動を続けるという歴史でした。
おそらく、上野教会の信徒の皆さんは、知らず知らずの間にそのような宣教師たちの指導を受けて、自分たちのできることは何でも自分たちでやるという習慣がついていたのでしょう。
本当のところ、皆さんは、今度の神父さんには困ったものだとお考えになったかもしれません。
でも、新約聖書の使徒たちの宣教、特に聖パウロの育てた諸教会は、現代のように世界最大の、もっとも長い歴史を生きてきた教会と違って、さまざまな深刻な問題を抱えていましたが、それでも使徒たちは、現地の人々の仲から指導者を選んで自分たちは次々と移動し、今日にも残る書簡などを回覧するなどして、決して一箇所に長く残ることはなかったのでした。
これからの日本の教会は、かつて切支丹迫害の時代にやむを得ずそうであったように、可能な限りのことは自分たち自身で担っていくという原則がさらに実践されていくことでしょう。

1月29日春節の祝いが今年も盛大に祝われました。
白柳枢機卿様も参加してくださって、盛り上げてくださったことは本当に感謝に耐えません。
実際、中国センターの皆さんも、私たちも、昨年は大きな悲しみを感じていました。それは、中国センターの中心的な人達が次々と入国管理法によって警察に逮捕され強制送還となっていたからでした。
中には、上野教会での結婚式をまじかにひかえていたカップルが二組もありました。
そのような雰囲気を追い払うかのように、中国センターのコックさんたちは,一週間も前から、井上神父様の運転でアメ横まで大量の中国料理の食材を買出しに、あるいは、日ごろの上野教会への感謝にと、上野教会聖堂の屋根のペンキ塗りという寒い中での大仕事に取り組んでくださいました。
かつて、上野教会の皆さんもずっと若かったころ,みんなで屋根に上ってペンキ塗りをなさったと聞いていましたが、この度は、中国センターの本職のペンキ屋さんが中心となって塗りなおし。
私も、入倉さんと一緒に、何度か屋根に上って、古いペンキはがしに挑戦しましたが、寒い上に、腰を曲げての作業は本当に大変でした。

中国の人達の好きなお祝いの色は赤。
朱さんは、先日北京に用事で行ったときにトランクいっぱいの本格的な春節の飾り物を仕入れてきましたから、今年の飾りは素敵でした。
式場の飾りつけ、料理の仕込み、聖堂の掃除、御先祖への感謝と崇敬の式の準備、当日の踊りや出し物の準備など、毎日の仕事を終えてから教会に集まり夜遅くまで働いて、二階の畳の部屋などに雑魚寝してみんなで朝ごはんを食べてから仕事に出かけるという若い人ならではの働きでした。
上野教会からもたくさんの方々が参加して楽しい一日でした。
2001年の春に中国センターが上野に来られて、もう五年目になりました。
お互いに我慢しなければならないこともありましたが、これからもこのつながりを大切にして、まじわりを深めていってほしいと思います。

ちょうど良いタイミングで、1月25日、ベネデイクト16世は、教皇就任以来最初の、回勅「神は愛」を全政界に向けて発表なさいました。
現代社会において泥にまみれてしまったといわれる”愛”という言葉を今日の人々、特に若い人々に、新鮮な姿を示すことを目標にされたといわれます。
回勅の第二部に次のような教皇の言葉があります。
「良いサマリア人のたとえ」には、二つの新しい教えが含まれています。
イエスのこのお話が語られるまで、ユデアの人々にとって、隣人とは、同じユダヤ人同胞か、またはイスラエルの地にずっと住み着いてユデア人のように生きている人々だけを意味していました。
イエスは、この制限をとりはらいました。
「誰でも私を必要とし、私が助けることのできる人は、すべて私の隣人である。」
こうして、隣人という言葉の一切の垣根は取り払われると同時に、具体的な言葉になりました。
すべての人類に広げられると同時に、一般的な抽象的なものではなく、今ここで私の手、足の実践を要請する愛となったのです。
上野教会の皆さんと、中国センターの皆さんは、この意味でお互いにとって隣人となったのです。
四旬節の40日間が始まりました。
私にとっても、上野教会の皆さん、中国センターの皆さんとともに祝う6度目のそして最後の祝いとなりました。
実際のところ、私は御復活をゆっくりと皆さんとともに祝い、五月のゴールデンウイークのころに、清瀬教会への引越し準備にかかろうと思っています。
神様の恵みの時を深く味わい生きる糧とすることができるように、ご一緒に祈りと、愛の技の実践に励みたいと思います。

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