飼い葉桶に寝かせた ~主の降誕~

 

フランシスコ・ザビエル 深水 正勝

「マリアは出産の日を迎えて、はじめての男の子を産んだ。そして、その子を布でつつみ、飼い葉桶に寝かせた。宿屋には、かれらのためには、場所が無かったからである。」(ルカ福音書 2章6-7)
今日、私たちがクリスマスといってお祝いする、イエスの誕生について、聖書は、非常に簡単に、けれども意味深い言葉で伝えています。
今年も私は、この同じ聖書の言葉を前にして、考え込んでいます。
24日の夜には、クリスマスの御ミサがあります。
上野教会の聖堂でも、1階も2階も一杯になるくらい多くの人々が集まります。
関東一円から、集まってこられる中国人信者の方々が半分以上、この日初めて教会に来られる方、日ごろはご無沙汰しておられる上野教会の信徒もこの日だけは、何はさておき懐かしい教会に帰ってこられる日でもあります。
そのように、様々な人達の心に、今年のクリスマスでは,何をお話すれば良いでしょう。
これは、わたしにとっても大きな課題です。
ちょうどそんな時、私は、ふと思いついて、「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画を見ました。
昭和13年生まれの私は、日本にテレビが初めて入ってきた頃,中学生でした。
街頭テレビというのがあって,沢山の人がちいさな一つのテレビをとりまいて、力道山が、空手チョップで、アメリカ人のシャープ兄弟をこてんパンに 叩きのめすシーンを感激て見守ったのでした。
三丁目の夕日は、まさにその頃の東京の港区あたりのある小さな横丁のお話でした。
建設が始まったばかりの東京タワーを背景にして,自動車はまだまだ少なく、庶民の足だった都電が道を走ります。
上野駅も昔の姿で現れ、東北地方から煙を揚げて到着する汽車からは、沢山の集団就職の若者たちが降り立つ所でした。
映画は、こうして東京にやってきた、六ちゃんという中学を出たばかりの元気な女の子が、住み込みで働くことになる、三丁目横町の小さな鈴木オートという,自動車修理のお店の家族と過ごす一年を中心に展開しますが。
もう一人の 男の子、親に捨てられてこの横丁で小さな駄菓子屋さんをやりながら、作家になることを夢見て一人で苦労している茶川さんというおじさんとの不思議な出会いが同時進行します。
行列が出来るほどの人気です。
天声人語にも採りあげられているところを引用してみます。
「東京五輪の少し前、昭和33年の都心の街での、さまざまな人模様が描かれる。東京での職場は光り輝いているものと思い描いてきた集団 就職の少女の夢が、いったんは破れる。
しかし、そこには路地の網の目のように張り巡らされた人の心の結びつきがあった。
東京に限らず、改造の度に、都会からはこうした心の路地や自然が失われてきた。」(朝日新聞 12月7日 朝刊:天声人語)
路地の網の目のように張り巡らされた人の心の結びつきと言われるものを聖書の言葉で言い換えてみようと思いました。
真っ先に思いついたのは、以外にもクリスマスの日、長い度に疲れてやっとの思い出たどり着 いた、ベトレヘムという自分の祖先達の村で、お産を控えた貧しい若い夫婦にとって、せめてもほしかった宿屋の部屋は無かったので、やむなく村を出て羊飼いや、羊が野宿するような洞穴の一角でマリアは、イエスを生んだと言う箇所でした。
ベトレヘムの村には、“人の心の結びつき“が無かったようでした。
でも、やがてマリアやヨゼフのように貧しく困難な状況に置かれた人達にも、助けが現れました。
近くの野原で野宿をしていた羊飼い達でした。
羊とかいわれても、今の私たちには、動物園の子ども広場にいる、白い毛のふさふさした優しい動物としか思い当たりません。
羊飼いとなると、もう想像することも出来ません。
幸い私は、イタリアのローマに留学していた頃、何時もこのクリスマスの頃になると,近くの農村から、本物の羊飼い達が、あの独特のパイプを鳴らしながらローマの街にやってくるの に出会うのが楽しみでした。
でも、本当の所、歓迎されるのはこのクリスマスの時だけで、今日のイタリアやスペイン、ギリシャなどでも、農村の山地で一年中、羊を追って暮らしている、貧しくて、さらに孤独な人達がいます。
何時も、動物の匂いがするので、人里に下りてきても歓迎されません。
子供のときから、羊飼いに駆り出される子供たちは、学校に行くことも出来ず、一人寂しく何ヶ月も山で生活するというような状況があります。
イエス時代の、ベツレヘムの羊飼い達の生活もそのようなものであったことでしょう。
さらに加えて、聖書に何度も出てくるように、その時代、ユダヤ教の戒律というものが非常に厳しく人々の生活に浸透しておりましたから、戒律 を守ることが出来ないような人達は、どんな理由であれ、「公の罪人」とみなされて、戒律を守っている人達からは、厳しい差別と迫害を受けていました。
たとえば、一週間に一度、安息日と言う休日があり、その日には、すべての労働、水を汲みに行くことも、今日では、部屋の電気のスイッチを入れることも許されません。
ですから、羊飼いのように、羊の世話の手を抜くことの出来ない人達は、安息日と言っても、普段と変わりなく、羊の世話をするわけですが、それが、戒律に背く罪人として、厳しく差別された訳でした。
羊飼い達は、したがって、マリアやヨゼフのように、村の宿屋に泊まることは、初めから出来ませんでした。
どやにも、彼らの場所はなかったし、村人からも挨拶などされない、「賎業」の羊飼いでした。
私もある体験を持っています。
友達の神父が呼んでくれて、ある夏の一ヶ月くらい、オーストリアのチロル地方の小さな村で夏休みを過ごしていました。
山登りの大好きな私は、村の子供たちと一緒に近くの山に登るのが大の楽しみでした。
ある日、私たちは羊飼いが、夏の間、羊と共に山に登り夏中、山にいて、乳をしぼり、チーズを作り、羊の冬のえさになる、枯れ草をつくるという、少しの休みの時も無い、厳しい労働作業をしながら、夜になると粗末な食事をして眠る だけの、小さな山小屋を見つけました。私は、村の教会でお手伝いの神父でしたから、村人は皆、私を良く知っていました。
こんにちはといって入っていくと、小屋にいた家族は、大変驚きました。
そして、汚い所ですから、どうぞお入りにならないでくださいと言うのです。
私は、もっと驚きました。
ベトレヘムの羊飼い達と似たような,賎業の考えがあったのでしょうか今も忘れることが出来ません。
羊飼いの話が長くなりましたが、最初のクリスマスの夜、お祝いに駆けつけたのは、この様な人達であったことは、その後のイエスの生涯においてもイエスを取り巻いていた人々がどんな人達となるかの、前表でした。
この羊飼い達、漁師たち、収税人たち、様々の障害を持った人達、公の娼婦たちが、イエスを取り巻く民衆の中に中心をなしていたかどうか判りませんが、少なくとも彼らには何時も師であるイエスの暖かい目が注がれており、それどこ ろか、彼らの中から、イエスは、直弟子を選んだのでした。
この人達の間には、まさに心の絆があったのでしょう。
それは、単に同じ仲間に対する心のつながり、仲間意識というものではなく、非常に特別な特徴がありました。
それは 、この心のむすびつきは、様々な理由で、弱い立場に置かれた人たちとの仲間意識だったということです。
三丁目の夕日の映画にもそれははっきりと出てきます。
親に捨てられて身寄りの無い少年を中心として、三丁目横町の様々な人達が寄せる心のつながりです。
茶川先生は、初めこの少年に対して「俺とお前とは縁もゆかりも無いんだから な、さっさとどこにでも行ってしまえ」と怒鳴りつけて追い出そうとするのですが、だんだんと心が変わっていき、新しい心の結びつきが何時か知らないうちに、生まれていたのです。
これこそまさに、聖書の言葉では、“アガペー”と いうギリシャ語で表現するものだと思います。
日本語に直すのは、大変難しく、この方面で長く研究されている、井上洋治神父は、「一人の人間の痛みや哀しみをうつしとる〔慈悲〕(アガペー)の心」と言う表現を使っています。
悲愛 の心は、神様が人間に寄せる心であると共に、神様が人間同士が互いに、特に弱い立場の人に対して持つべき心として求められるものです。
聖書では、「小さくされた者」「私の最も小さい兄弟」として、イエスの口になんども出てきます。
特に有名なのは、マタイ福音書の25章です。
それは、「人の子は、栄光に輝いて来て、すべての民族を裁く」という場面です。
少し長い引用ですが、ある意味で聖書の中で全ての人に関わる最も大切な場面なのです。
「人の子は言います「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造のときからお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは, わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、 裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいたときにたずねてくれたからだ」
すると、正しい人達が王に答えます。
「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ,のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられる のを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」
そこで、王は答える。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
それから、王は左側にいる人達にも言う。
「呪われたものども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時, 牢にいたときに、たずねてくれなかったからだ」
すると、彼らも答える。
「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であった り、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか」
そこで、王は答える。
「はっきり言っておく。この最も小さい者のひとりにしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人達は永遠の命にあずかるのである」
非常に簡潔に示されていることは、裁きの基準です。
本田哲郎神父の翻訳では、「いちばん小さくされたものと連帯したか、しなかったか」です。
井上洋治神父は、痛みや哀しみを背に負う人に対する悲愛の心と呼ばれるものです。
全ての人が、キリストの兄弟であり、そのことを知っているかいないか?小さな兄弟においてキリストに奉仕しようとしたかどうか?などは問題になりません。
別の言葉で言えば、すべの宗教も、倫理道徳も、唯一つの基準に凝縮されてし まうのです。
これ以上、簡潔で全ての人に公平な裁きの基準は、考えられないのです。
クリスマスにあたって、宿を貸してもらえなかった、マリアとヨゼフと共に、又新しい年を、心の絆を誰と共に結んで生きて行くか、静かに考えています。
そして、是非、「ALWAYS 三丁目の夕日」を見てください。
皆様に良いお 年を祈ります。

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