長島さん(元ホームレス)の半生

 

フランシスコ・ザビエル 深水 正勝

毎週木曜日の午後、山谷の山友会に集まって、おにぎりや、お弁当を持って、隅田川の厩橋まで行き、そこで3組に分かれます。
私の縄張りは、いつの間にか、厩橋から出発して、川べりに階段を下りて、総武線の下をくぐり、蔵前橋を経て、両国橋までの往復約2.5kmになりました。
その間に約100人の人達が、様々のテント、ダンボールの家、もっと確りとした木造の小屋などで生活しています。
これらの人達は、一般的に野宿者、ホームレスと呼ばれますが、厳密に言えば、貧しいけれどもこの人達には、ホームがあるわけです。
勿論、家族がある方は、2組の夫婦だけですから、他の方々は、孤独な1人住まいですから、ホームスイートホームではありません。
1ヶ月に一度は、「狩り込み」と呼ぶ日があります。
区役所から作業を請け負った会社があって、作業員がやってきて、川べりに残された全ての物は、「廃棄物」とみなされて全て撤去されます。
狩り込みの日が決まり、各家に張り紙が張られますから、その前日までに、自分の棲家を解体して、移動します。
作業員が仕事を終えて帰ると、又、もといた所に棲家の建て直しをします。
だんだんと高齢者が目立つようになり、この棲家の解体と建て直しは、かなり重労働だと言う人も少なくありません。
グループを構成してお互いに協力する人達も2組だけあります。さて私がこの作業に参加するようになって、2年ほどですが、この同じ場所に既に5年も住み続けている方もあると聞きます。
私は、何人かの主婦、シスター、学生、外国人などのボランテイアの人達数名と一緒に、約1時間半に渉って、テントを一つずつ訪ねます。
決まった時間に廻るので、必ずテントで、待っていてくれる方も居れば、仕事などで出かけていて誰も居ない場合もあります。
こんにちは、山友会です。
お弁当を持ってきました」と声をかけると、ほとんどの方は、私たちの声を知っていて、返事をしてテントを開いてくれます。
最も、この2年間の夏は猛暑が続き、コンクリートの川べりは、猛烈な暑さです。
さらにテントの中となると、とても締め切ってなんか居られません。
反対に、冬になると暖房の無いテントは、どんなに寒いことでしょう。
2年間のうちに、去っていかれた人も居れば、新しく入ってきた人も居ますが、大体の人の顔はおぼえました。
お弁当を渡しながら、体の様子を尋ねたり、何か毛布とか、必要なものが無いかと聞きますが、皆、山友会の名を良く知っていて、診療所を訪ねたりしています。
私たちの時間も限られているので、長い話にはなりません。
1度だけ、ある「狩り込み」の日の作業が終わって、酒盛りをしていたグループから、「一杯如何ですか!」と声がかかりましたが、丁寧に断りました。
後になって、せっかくの機会だったのにな、と今から思うと残念なことでした。
私にとって、木曜日のこの人達との出会いは、とても大切なものになりました。
まだとてもマザーテレサの心境には及びませんが、確かに自分が彼らとの出会いを通して何か非常に人間的なものを頂いていることは判ります。
このたび、正義と平和協議会の年に1度の全国集会が横浜で開催されて、数あるワークショップの中から、私は、ホームレス問題のグループに参加し、寿町のどやなるものに一泊したり、食事をしたりしましたが、最後の日に、長島さんのお話を皆で聴く機会がありました。
何回もこんな生活から抜け出したり、又落ち込んだりした体験を誠実に話されました。
身体障害者でもあり、ゆっくりと一語一語、噛んで含めるように話される間、50人もの私たちは、シンとなって聴き入りました。
終わってから、私は長島さんのレポートを上野教会の教会報に載せさせてくださいとお願いして今回のようになりました。
長島さんも喜んでくださって、出来上がったら何部か頂きたいとのことでした。
有難うございました。

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