終戦60周年にあたって

 

フランシスコ・ザビエル 深水 正勝

5年前「うぐいす」に初めて寄稿して、上野教会の皆様へというご挨拶のなかで、生い立ちの記を書きました。第二部も出る予定だったようですが、結局そのままになってしまいました。
今年、終戦60周年にあたって、私も改めて60年を振り返って見ようと、昭和の語り部の第一人者といわれる、半藤一利さんの名著、「昭和史」と、下町大空襲などを東京根津宮永町で戦中戦後を生きたある一家の人々を通して描いた、井上ひさしの「東京セブンローズ」を読みました。
さらに、上野の地下道で、親も家も失った浮浪児と呼ばれた子供たちの物語、半村 良さんの「晴れた空」を今読み始めたところです。
私もこれらの本に刺激されて、改めてこの60年の私の体験と記憶を特に戦争とのかかわりで書き記しておきたいと思いました。
上野教会の皆さんの中には、きっと様々な戦争の体験をお持ちの方がいらっしゃると思います。
60周年を機会に、「うぐいす」に投稿していただいたら、きっと良い分かち合い、若い人達には、戦争の証言となると思います。
私の場合、盧溝橋事件で日中戦争が始まった昭和13年に東京淀橋区百人町(現在の新宿区百人町)に生まれました.「生めよ殖やせよ」と大々的に叫ばれた時代でした。
海軍主計中将であった祖父のお陰で経済的にも余裕のあった私の両親は大の子ども好きだったらしく、私の兄、弟、そして4人の妹が既に戦時中に生まれ、ばあやと呼ばれたやさしい人達の手で育てられました。
昭和16年、太平洋戦争が始まりましたが翌年4月に既にアメリカによる東京空襲があったようです。
幼い私たち兄弟が体験した戦争とは、両親と引き離されて母の里である鳥取へ送られたことでした。
私が5歳くらいだったと思います。
叔父に連れられて、小学校一年生だった兄と二人、東京駅から汽車出始めての旅をしたわけですが、どんなに大声で泣き叫んだか確かには覚えていません。
幼い妹達も後を追って母と共に鳥取市の山奥の村、栗谷と言うところで皆が一緒になりましたが、父だけは東京に残って生き延びました。
時々私たちを訪ねてくれる父のお土産が、何よりの楽しみでした。
母にとって最大の問題は、どのようにして育ち盛りの子供たちに充分な食べ物を食べさえるかと言うことでした。
幸いに母の実家は、味噌醤油製造の工場を経営しておりましたから、当時の味噌の材料であった大きなさつま芋だけは充分に合ったようです。
さらに母は、自分の娘時代の着物を交換する為に近所の農家を廻っては、かぼちゃをリヤカー一杯にして、私たち大きな子供たちが後押しをしてきたことを思い出します。
母が農家の人達と物々交換の話し合いをしている間,私たちは外で待っていたわけですが、今思うと何不自由なくお嬢様として育てられた若い母が、どんな気持ちでお百姓さんたちとの交渉をしていたのか切なく思われます。
母はさらに、家の周りに野菜畑を作り、様々の野菜を自分で育てました。
当時、魚とか鳥取名産の、松葉蟹などは、配給品となっており、村長さんの家の前に村人の分が運び込まれると、各家族の人数に合わせて,分配されました。
それをもらいに行くのは、私たち子供のしごとでした。
なぜかと言えば、あるとき、分配をする人が母に向かって、「子沢山の都会のものは、たくさんもらって結構なことですね」と言うようなことだったようです。
もう一つの母の悩みは、お風呂だったようです。
私たちの借家にも、お風呂があり、私たち子供たちは、父が東京から帰ってくると,木の葉を集めてお風呂を沸かしましたが、どういうわけか、普段は近所の農家にお風呂を借りにいくのでした。
6人もの子供たちを連れて母が小さくなって、農家の人達が全て終わった後の、残りのお湯を使わせてもらっていたのでしょう。私たちにもとても辛そうな母の気持ちが良くわかりました。
終戦を迎えた時のことは、天皇陛下のラジオ放送があるといって、大人たちが集まり、母なども泣いているのを見ましたが、勿論空襲のことなど何も知らなかった鳥取の山奥のことでしたから、特別な変化はありませんでした。
やがて進駐軍と呼ばれた、インド兵、オーストラリア兵が鳥取にもやってきました。
はじめて見る真っ黒なインド兵、カウボーイハットをかぶったひときわ体の大きなオーストラリア兵が印象的でした。
私たち子供たちは、興味津々でしたから、特に怖がることもなく、又特にお腹が空いていたわけでもなかったのか、兵隊たちに、チュウインガムをねだると言うようなことはありませんでした。
でも、夜になると、兵隊たちを恐れて、村の男たちは、村の入り口に集まって、兵隊が近づくと大声を上げて、退散してもらっていたようでした。
鳥取市久松小学校に入学した私は、村の子供たちの後を付いて周り、山や川でいろんな遊びをおしえてもらい、弱かった体力もめきめき元気になりました。
村の谷あいを流れる小川をせき止めて、プールのようにして泳いだり、小さな魚や、かにを捕まえました。
東京から帰って来る父は、私たちがその中に捕まえて持ってくると、大変喜んで茹でたり、油で揚げて食べていました。
あるとき、今晩は父が帰ってくると言う日、私は張り切って父の好きなかにを捕まえに行ったのですが、なんとその日は一匹も取れず、小さな小さな魚だけしかなくて,情けなくて泣きたい思いで、小さな魚を母に渡したことを今も覚えています。
小学校では、脱脂粉乳の給食が始まりました小さな私たちには必要な栄養だったのでしょうが、美味しかったと言う記憶はまったくありません。今もって私は普通の牛乳を飲むことが出来ません。
学校の成績は、都会の子どもたちは農村の子どもに比べて、一般的に良かったようで、勉強などは一切考えたこともなく、学校の帰り道から既に始まる遊びに夢中になっていました。
毎晩寝る前に、母が本を読んでくれました。
今でも良く覚えているのは、リンカーンの伝記で、やはり貧しいリンカーン一家の生活の様子を、母が気持ちを込めて読むと、私たち子供たちは、真剣になって聴き入ったことを良く覚えています。
この習慣はかなり永く続きました。
大体、伝記物語でした。おかげで、私たち兄弟は、皆本を読むのが大好きにそだちました。
学校でも、国語や作文の成績は何時も優でした。
小学校3年生の頃には、父親の特技であった、英語がいかされて、GHQ,いわゆる連合軍司令部の労働局に就職が決まり、私たちも鳥取から再び東京へ帰ってきました。
5年間ほどの鳥取での生活は、ひ弱な都会っ子だった私たちを元気にし、又それからもなんども訪ねることになる故郷ともなりました。
東京の淀橋区あたりは、全部焼野原となり、私たちは、成城にあった祖父の大きな家に、一家8人が祖父母,叔母、叔父と同居することになりました。
母にとっては、一難去って又一難、育ち盛りの子供たちを食べさせることは、かなり厳しく、買出しに行くと言うことも出来ず,その頃良く食べさせられたものといえば、おから、大根を刻んで量を増やした雑炊などのほかに、栄養のために苦い肝油をかならず大匙にひとさじ、エビオスなどでした。
ただ父の務めの関係で、クリスマスには、アメリカ人の家庭に食事に招かれて、このときとばかり夢のようなご馳走をいただいたこともありました。
やがて、戦争から復員してきた母の弟の叔父が、一緒に生活していましたが、あるとき矢張り復員して世田谷の下北沢に、聖堂を建てて、入りきれないほどの人達を集めて宣教活動を再開していらした、今田健美神父様に出会い、からからの海綿が水に出会ったように、初めてのキリスト教に触れることになりました。
叔父は、成城へ帰る小田急線が終電になってやっと帰ってくることがしばしばで、現在の浜尾枢機卿とそのお兄さんで後に東宮侍従となられた浜尾実さんら、熱心なキリスト教研究会に一員でしたから、やがて私たち押さなかった兄弟姉妹も叔父の浜崎正雄神父の影響で、おなじ今田神父様の下で世田谷教会の一員となることができました。
父は、私たち兄弟を良く上野の国立博物館、科学博物館、動物園などに連れ出してくれましたが、その時何時も鶯谷の駅で降り、帰りには西郷さんの銅像の所から降りて上野駅に行きました。
このとき、西郷さんの上り下りの石段に両はし、現在では似顔絵屋さんが並んでいるあたりには、ずらりと浮浪児たちが正座して物乞いをしていたことを忘れることが出来ません。
勿論、地下道の方には、決して近づくことはありませんでしたが、そこには、私たちと同じ年頃でありながら、東京下町の空襲で親も家も失って、突然着の身着のままで厳しい戦後の世の中に放りだされて,飢えや、病気と毎日闘いながら生延びていた多くの子供たちが、大人たちに紛れていたのでした。
今読み始めた、半村 良さんの分厚い「晴れた空」は、まさにそんな子供たちのお話なのです。
皆さんにも是非一読をお薦めします。
改めて、私の戦時体験などは、本当の苦労に入らないものであることが良くわかります。
しかし、一つだけ言えることは、戦争では、子供たちこそが最大の被害者であることは、嘗ても今現在も変わらないことだと思います。
私たちの平和への祈りは、全ての子供たちに幸せな家庭を確保することをいのるものです。」

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