★古図に見る山城東漸寺多宝塔
2016/05/09追加・修正:
現段階では、東山東漸寺多宝塔の存在を示すものは次の2史料のみである。
「東山名勝圖會」では「借景」のように描かれているようにも見え、本多宝塔
が東漸寺の塔婆であるとの確証はなかったが、「拾遺都名所圖繪」にも多宝塔が描かれ、こちらははっきりと東漸寺の境内に描かれているように見え、多宝塔は東漸寺の塔婆であると確信をする。
2015/05/09追加
○「拾遺都名所圖繪」(天明7年(1787)刊:秋里籬島著・竹原春朝斎画)
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「都名所圖繪」(安永9年(1780):秋里籬島著・竹原春朝斎画) では
東漸寺、本住寺は、大谷の南より登りて山腹にあり、共に日蓮宗にして本能寺の末派なり。
とのみある。(挿絵はなし、「拾遺都名所圖繪」に挿絵がある。)
拾遺都名所圖繪東漸寺:左図拡大図
「拾遺都名所圖繪」では挿絵のみで記事はなし。 |
東漸寺部分図
拾遺都名所圖繪東漸寺部分図:下図拡大図
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下の「東山名勝圖會」の絵図と合わせれば、東漸寺境内の様子は次のようになる。
本住寺を右手(南)にして参道を上がれば、東漸寺山門に至る。
山門を入りさらに石階を上がれば、方丈のある平坦地(檀)に至る。
方丈は横長な建築で、南半分は塀で囲われ、その塀の中は方丈の庭園となり、「泰山府君のサクラ」が植えられる。
さらに方丈のある檀の北西には鐘楼・鎮守2棟(鎮守2棟は「拾遺都名所圖繪」のみに描かれ、「東山名勝圖會」には建物はなく檀のみが描かれる)がある。
方丈の檀から北に石階を上がれば秋山自雲墳墓(「拾遺都名所圖繪」では描かれず、門のみが描かれる。さらに「東山名勝圖會」には門の代わりに、石階の上下に鳥居が描かれる)があり
、そこも檀をなす。
そこから、さらに石階を東に上がれば本堂と祖師堂のある檀に至る。但し、「東山名勝圖會」には祖師堂は描かれす、本堂のみが描かれる。
本堂の檀から東にもう一段石階があり、それを上がれば多宝塔がある。 |
本図では多宝塔は次のように描かれる。
下重は平面方形であり、はっきりしないが、おそらくは椽を廻らせ、少なくとも西面、南面には階段を設ける。
上重は亀腹を設け、平面円形に描かれる。相輪は四方に宝鎖を架す。明らかに多宝塔の形式で描かれていることが分かる。 |
2015/01/18追加:
○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864)
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巻6:東山名勝圖會東漸寺;左図拡大図 記事の要約:
東漸寺:
東山大谷御廟所の南東の山上にあり、本能寺の末寺なり。
本堂 南向、方丈 本堂の南西にあり、鐘楼、鎮守社、秋山自雲霊神祠 本堂の西にあり、泰山府君之櫻 方丈の庭にあり
本住寺:
東漸寺の西中檀にあり、法華宗本能寺の隠居処なり。
三十番神の小社あり。
※多宝塔が描かれる。その描写から、本塔は上重平面円形の木造多宝塔であったことはほぼ確実と思われる。
※多宝塔は本堂の裏手の坂道を登れば、そこにあると思われる。しかし明確に東漸寺に属する塔婆として描いている訳でもなく、いわば東漸寺の借景として描いたとも思われる描写である。
さらに、記事中には多宝塔の記事は全くなく、この意味でも、東漸寺とは別の寺院に属していたのかも知れない。
※現段階では、(東漸寺)多宝塔の存在を示すものは、本繪圖が唯一のものである。
2016/05/09追加:
「拾遺都名所圖繪」にも東漸寺境内に塔婆は描かれる。 |
★山城東漸寺の諸記録
○「新撰京都名所圖繪」巻1。昭和33年 より
秋山自雲霊神祠:東小大谷墓地内北にある。
秋山自雲の生国は攝津國川辺郡小浜村、初め浅草本性寺に祀られ、次いで摂津小浜本妙寺と東山東漸寺に分祀され、後には全国の日蓮宗寺院に分祀される。
○「路 東山と東大路通」昭和47年 より
東大谷の石段を登りつめたところに「秋山自雲」の墓がある。
現在、東大谷の墓所となっているあたりに東漸寺はあったらしいが、明治の廃仏毀釈によって廃寺となる。
○旧東漸寺のほか、京都において、秋山自雲の霊が分祀された寺院は、東漸寺を含めの8ヶ寺と云われる。
東漸寺のほかは次のとおりである。
◇鷹峯岩戸妙見圓成寺<妙見菩薩・妙見信仰中にあり>
◇西京妙堯寺<山城の日蓮宗諸寺中にあり>
◇川端仁王門頂妙寺
◇鳥辺山妙見大菩薩
◇深草宝塔寺
◇伏見本成寺:八品派本能寺末
◇伏見本教寺<洛陽十二支妙見中にあり>
○「日本歴史地名大系・京都の地名」平凡社 より
◆東漸寺跡:
天正18年(1590)僧真寂が開基、建立、本能寺末。明治8年廃寺となり、現在は大谷墓地となる。
◆本住寺跡:
本能寺末、不動山と号す。跡地は現在大谷墓地となる。
元和元年(1615)日蓮宗光林院日春が比叡山南谷の不動寺をここに移して堂宇を営むのを始めとする。法華信徒小野某がこれを継ぎ、その法名本住院によって寺号とする。
明治8年廃寺となる。
○Web情報
東漸寺にあった「自雲墓」は大谷墓地の上の方にある17区243号に残る。
2016/02/18追加:
○「京のうんちく」>「東山三十六峯」>「第二十六回 第二十五峰 東大谷山」の中に次の一文がある。
※「月間京都」(白川書院)のサイトで、「京のうんちく」は田中保子氏作文である。
東大谷山は古くは山腹に日蓮宗の東漸(とうぜん)寺がありましたため、東漸寺山と呼ばれていましたが、親鸞聖人が弘長2年(1262)死去され、この地、知恩院の裏山の大谷に埋葬されて以来、東大谷祖廟の発展、整備につれて「東大谷山」の名前が広まったのでありました。
当時の東漸寺には祖師堂、二重塔と、間口11間半の居宅がありましたが、円山に移転して、その後、廃寺となったのでした。現在、東漸寺を偲ぶことができますのは、山上北側の旧墓地のみのように察しられます。そこには徳川家康の側近、御用達の茶屋四郎次郎の墓があります。
(中略)当地、旧東漸寺墓地には、子孫のお方のお話によりますと茶屋一族の7基の墓があると語られています。
※以上から東山にあった東漸寺は上に掲載した「東山名勝圖會」の通り、祖師堂(本堂)、二重塔、居宅(方丈)があり、その大きさは間口11間半であったことが知れる。そして東漸寺は恐らく幕末か明治のころ円山に移転したのち、廃寺となったことが知られる。
方丈の間口が具体的であり、この記事には信憑性があり、この意味でやはり、二重塔(多宝塔)は東漸寺の塔婆であったようである。
2016/05/05追加:
「佛教考古学論攷」石田茂作 でいう「東漸寺多宝塔、日蓮、古図」とは本ページの東漸寺と思われるが、確証はない。
2017/09/18追加: ○「山城名跡巡行志」釈浄慧撰、宝暦4年(1754)か(「新版京都叢書第22巻」 所収) より
東漸寺: 在本願寺墓所境内、日蓮宗在佛殿祖堂二重ノ塔鐘楼、當寺元天台宗山門ノ末坊也、再興ノトキ當宗トナル、属本能寺。
※二重ノ塔と明記される。やはり二重塔(多宝塔)は東漸寺所属のものであったのであろう。
●東漸寺跡現況
2016/01/28撮影:
東漸寺跡:大谷墓地に変貌し、往時を偲ぶものは何もない。しかし、麓の本住寺を含め、方丈・鐘楼の平坦地、霊神廟の平坦地、本堂平坦地や多宝塔の建つ平坦地はそのまま、うまく墓地に転用されたのであろうかと思われる景観である。
東漸寺跡(大谷墓地)1 東漸寺跡(大谷墓地)2:秋山自雲墓附近から撮影、遠方に写る塔は八坂の塔である。
秋山自雲墓は現存する。但し「東山名勝圖會」に描かれるような、霊神祠や石階の上下にある鳥居などは残存しない。一般の墓碑の中に紛れ、一般の墓と同じレベルの待遇になっているようである。
秋山自雲墓碑1:17区(自雲墓のある区画)見上
秋山自雲墓碑2 秋山自雲墓碑3
2015/01/18作成:2017/09/18更新:ホームページ、日本の塔婆
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