最近訪問した塔婆・ご提供画像(2007/09/26〜2008/01/08) |
2008/01/08 |
大和高宮廃寺遠望 同 土壇 同 塔土壇1 同 塔土壇2 同 塔跡1 同 塔跡礎石1 同 塔跡礎石2 同 塔跡礎石3 同 金堂土壇 同 金堂礎石1 同 金堂礎石2 同 金堂礎石3 同 金堂礎石4 |
金剛山の東中腹(標高550m・俗称「高宮」)にある。塔及び金堂の基壇と各々の礎石を残す。 塔は金堂の東南(南)20mに地点にあり、心礎は失われている。 他の礎石は自然石で、大部が残存する。塔一辺は約5.5mと推定される。 ※残存礎石での実測値(芯芯間):中央間・四天柱間は約175〜180cm、両脇間は約160〜170cmを測る。 金堂は5間×4間(12.8m×9.8m)の大きさで、礎石は2個を除き整然と残る。礎石は柱座及び地覆座を造り出す精巧な礎石を用いる。 八葉複弁蓮華文軒丸瓦・扁行唐草文軒平瓦が採取され、奈良中期の瓦とされる。これ等の創建瓦は朝妻廃寺、ニ光寺廃寺と同笵と云う。 「行基菩薩伝」:行基24歳の時、高宮寺徳光より戒を受けると云う。 以前はこの寺跡は史跡でありながら、ブッシュに覆われ、近づくことも相当困難であったようですが、近年は道も整備され、メインの道を辿れば何なく到達でき、寺跡のブッシュも払われている。但しマイナー な道に取り付き山中に入れば、方向を失い途中迷うこともある。(磁石持参が望ましい) 高宮廃寺遠望:東より金剛山(1,125m)を望む、写真中央やや左の山腹に高宮廃寺はある。 高宮廃寺土壇:手前は金堂土壇、奥の土壇が塔跡。 ◇附録:高鴨神社 高宮廃寺山麓に高鴨神社がある。賀茂明神の祖神と云われる。社殿は南面する。入口東に別当(今は社務所兼住居?で元は高鴨社別当と推定される)の鐘楼・梵鐘が残る。 この鐘楼は御所の金剛寺から移したとも云うも不明。また社地東には神宮寺(神通寺跡)があると云うも不明。何れにしろ神宮寺あるいは別当などの関係・実態などは未掌握。 本殿:重文、天文12(1543)再建、東宮:寛文12年(1672)建立。 |
大和檜隈寺心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 塔基壇 同 塔礎石 同 十三重石塔 同 講堂跡1 同 講堂跡2 同 講堂跡基壇 |
再訪 塔南にある心礎が複製である確証はまだ未掌握。材質から見ても複製と思われる。 講堂(7間×4間)跡は土壇と礎石を残す。講堂基壇は瓦積基壇(昭和56年発掘調査) |
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大和定林寺跡塔土壇1 同 塔土壇・礎石 同 塔礎石 |
聖徳太子建立46寺の一寺とされる。定林寺の西、字奥の堂の春日社境内に塔跡をはじめ土壇や礎石などの建築遺構が残る。 昭和27年の石田茂作氏らの発掘調査の結果、塔の心礎が確認され、さらに出土品から、飛鳥朝創建であると確認された。昭和28年の発掘調査では、塔跡・廻廊跡の発掘が行われ、心礎は花崗岩で、地下六尺七寸(2m)にあり、大きさは九尺三寸(2.8m)×五尺八寸(1.8m)で径二尺七寸(82cm)、深さ三寸(9cm)の円形柱座を掘り込んだものと判明した。寺院跡はかなり削平されていて、確認は出来ないようですが、法起寺式であったとも云われる。鎌倉時代に焼亡したようです。 「飛鳥時代寺院址の研究」(石田茂作): 高さ約4尺、一辺約24尺の方形土壇がある。発掘により5個の礎石が認められたようです。 立部寺塔跡実測図。 中央礎石は掘り出されているが、その残片と思われる礎石が高市村脇本英雄氏の庭にある。 円形刳り込みの一部と見られるが、復元すると、一辺4尺5寸の方形切石で、四周に巾2寸高さ3分の縁を持ち、中央に径2尺8寸高さ3分の円形穴を持つものと推定される。 推定立部寺心礎残欠実測図・・・ただし、その後心礎は塔跡から発掘されたようで、この残片は別の寺院の心礎かもしくは心礎ではないと思われる。 「日本の木造塔跡」: 昭和28年の発掘調査で、地下2mで心礎が発掘された。大きさは2.8×1.7mで、径82×深さ9cmの円穴がある。側柱礎は5個残存、いずれも柱座を造り出す。 基壇下層は板石を並べた石積で一辺12.7m、上層は壇上積基壇で一辺11.2mの二重基壇であった。高さは合わせて97cm、塔一辺は5.7mと推定。講堂跡は判明するも金堂跡は不明と云う。 2008/01/22追加: 定林寺の西の丘上の狭い地域に塔土壇(西側)と堂宇土壇(北側、元春日明神社殿跡、金堂跡か講堂跡か良く分からない)の2個の土壇を残す。塔土壇には数個の礎石を残す。 |
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大和橘寺塔跡心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 塔礎石 同 脇柱礎 |
再訪 | |
大和川原寺塔復元基壇1 同 2 同 鎌倉再興塔礎石1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 |
再訪 | |
大和龍蓋寺三重塔 | 再訪 大和龍蓋寺(岡寺)を参照 |
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大和豊浦寺心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 |
現在は広厳寺(向原寺)が法燈を伝える。境内他に礎石が残る。 広厳寺から南に20mほど入った民家の間に、「推古天皇豊浦宮跡」の碑と礎石(豊浦寺心礎と云われる)がある。 「飛鳥時代寺院址の研究」:塔心礎は方約5尺(151cm)で、径3尺6寸4分(110cm)の造出を持ち、その中央に径6寸9分(21cm)×4寸(12cm)の孔を穿つ。但し火災により荒れていて、原形はよく分からない。日本書記では欽明天皇13年百済から献上された仏像経論を曽我稲目が最初に祀ったのを始まりとする。その後白鳳期に隆盛を迎えたとされる。 「飛鳥時代寺院址の研究」:豊浦寺塔心礎実測図 「日本の木造塔跡」: 礎石は1/3を欠失、径1.6mほどの丸い石の表面を削平し、その上に径100cmほどの柱座があり、中央に径21×深さ12cmの孔を穿つ。 図1:豊浦寺跡碑(向原寺門前)、 図2:推定豊浦寺礎石(向原寺内) |
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大和田中廃寺心礎1 同 2 同 3 |
蘇我氏系田中氏の氏寺として建立されたとされる。現地にある法満寺附近が田中宮・田中廃寺の推定地とされるも、詳細あるいは遺構は不詳。 1990年(病院建設に伴う事前調査)からの数次の発掘調査で、伽藍中心は、「弁天の森」付近とされる説が有力なようです。(病院の西南隅に、発掘成果を伝える碑があるようです 。・・・未見) 塔心礎とされる礎石が法満寺に残存する。但し大きさが小さいあるいは心礎とする明確な根拠が無いなどで心礎かどうかは不明とされる。 現状の大きさ(実測):大きさは80×50cm、形16cm×深さ7cmの円孔を穿つ。 「飛鳥時代寺院址の研究」:伝田中廃寺心礎 伝田中廃寺心礎実測図 心礎は1/3を割られているが、径2尺3寸の円形柱座を造出し、中央には径6寸×2寸5分の孔を穿つ。但し心礎としては小さく、心礎と断定はできない見解を採る。 |
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大和本薬師寺 | 再訪 大和薬師寺三重塔・大和本薬師寺を参照 |
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大和大窪廃寺心礎11 同 12 同 13 同 14 同 15 同 16 同 17 同 18 同 19 |
再訪 | |
大和久米寺 | 多宝塔、塔跡心礎 大和久米寺 |
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2008/01/05 | 近江笠寺廃寺 | 推定笠寺廃寺礎石、心礎は未見。 |
2007/12/27 | 備前吉備津彦神社 | 備前吉備津彦神社を参照 |
備中吉備津神社 | 備中吉備津神社を参照 | |
2007/12/15 |
美濃厚見寺心礎1 同 2 同 3 |
再訪。 心礎のある場所は柵があり、心理的に立入が不能です。柱穴には通常は水があり、舎利孔や蓋受孔の様子を確認することが出来ません。本日もやや水は濁り、風のため水面は波打ち、また廟所の築地塀の瓦等を水面に写し、写真にも舎利孔などの様子は捉えることが出来ません。 |
美濃厚見寺模型塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 |
塔復元模型:岐阜市歴史博物館に展示。復元(模型製作)にあたっては、時代あるいは心礎の類似性(美濃弥勒寺)などを考慮して、各地の塔遺構・出土品を参考にしたようです。 例えば五重塔で復元した根拠は心礎の大孔の径が法隆寺五重塔の径と類似するから、当廃寺の塔も五重塔であろうとの類推の結果のようです。 |
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美濃大宝寺心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 |
岐阜市歴史博物館入口前庭に展示。実測:現状は径64/63cm、枘孔は径18cm深さ10cm。
緑泥岩?と思われる。心礎は柱座あるいは柱穴の周囲に沿って周辺を割られて、現状のような径の円形になっているものと推測される。表面は平らに削平され、中央には舎利孔もしくは枘孔を穿つ。元々の形状は柱座造出なのか円形柱座を彫っていたのかは不明。 設置の説明板:「岐阜市文化センター建設時に出土と云う。金町から西方が寺跡と思われる。」 ※岐阜市文化センター建設の設計コンペは1981年、竣工は1984年とされるので、出土は近年のことと思われる。出土状態などの情報は不詳。 なお今の岐阜市立徹明小学校付近は、明治末まで大宝寺野と云われた農村であったといわれるが、おそらく「大宝寺」と云う寺院の由来地であったと推測される。但しこの大宝寺が古代寺院の名称を伝えるのかどうか、附近に現存する大宝禅寺との関係についてなどは不詳。 |
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岐阜公園三重塔1 同 2 同 3 同 4 |
再訪。 | |
美濃護国之寺三重小塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 台石1 同 台石2 同 台石銘 |
「小塔巡拝の記(五)中部地方の小塔(2)」吉田実、史迹と美術 第604号、1990 より |
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美濃護国之寺心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 |
「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、大きさは140×130×45cmで、径20×15cmの円孔を穿つ。奈良後期。 実測:140×110cm、枘孔は径18cm深さ11cm。 心礎は小型で、奈良後期という観察に矛盾はない。奥の院手前にある「慈光霊廟」正面右手にある。原位置は動いているも、塔跡・出土場所あるいは由来などは不詳。 護国之寺に以下の什宝があり、奈良期の創建を窺わせる。 金銅獅子唐草文鉢 1口(奈良期・国宝)、塑像佛頭及び残欠1箇(奈良期) ※なお江戸期の三重小塔を現存する。 |
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美濃山田寺心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 現況 同 礎石1 同 礎石2 同 礎石3 |
無染寺境内に心礎を残す。 |
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美濃平蔵寺現況 美濃平蔵寺心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 |
寺伝では古の平蔵寺の経蔵礎石と伝える。附近から白鳳期の瓦を出土と云う。 「幻の塔を求めて西東」: 心礎は一重円孔式、130×105×45cm(復元)、55×20cmの円穴を持つ、白鳳後期、半分に割れている。 「岐阜県史 通史編 原始」: 山田寺東約800mに平蔵寺(黄檗宗・戦災により本堂焼失)がある。 心礎は硬砂岩製、心礎上面径90cm(半壊)、径30×20cmの円孔がある。この周辺には若干の礎石が散在したと云うが現在は散逸と云う。その他の遺構は全く不明。 ※情報は以上で、古瓦を出土というから古代寺院があったことは推定できる。しかし現状の心礎の形状及び上記情報からだけでは、心礎と断定するのは無理で、仮に心礎としても、後世の転用(寺伝によれば経蔵礎石)によって、かなり原形は損なわれていると思われる。 なお各務原市は「平蔵寺心礎」として市文に指定するも、心礎とする根拠は不明。 美濃平蔵寺礎石実測図:「天武持統朝の寺院経営・東日本」より |
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美濃宝蔵庵心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 現況 |
実測:120×100×高さ50cm(見える高さ)、柱座径50cm深さ5/4cm、小孔径11×3cm
を有す。礎石も柱座もかなり小さく、かなりの小型心礎と思われる。小孔は舎利孔なのか枘孔なのかは不明。 現在心礎は大安寺(臨済宗)にある。元は北東約600mの丘陵にあり、その地が宝蔵庵の地と云う。 室町期の記録によると、宝蔵庵は美濃揖斐郡谷汲村横蔵寺末と云う。 ※情報は以上で、詳細は不詳。但し心礎は小型でがあるが、紛れもなく、心礎の形状を有すると思われる。現位置の北東の丘陵中に古代寺院があり、中世には 谷汲横蔵寺末宝蔵庵として存続するも、いつしか寺院は退転し、心礎のみが大安寺に遷されたものと推測される。 心礎が現存するのでこの古代寺院は平安初頭までには創建されていたと思われる。 |
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尾張塔野地礎石1 同 2 同 3 同 4 同 山王権現跡 |
伝東野寺五重塔礎石・実測:礎石大きさ:140×110×40cm。 この地、塔野地には東野寺と称する大寺院があったが、中世末織田信長の焼討ちによって焼亡する(「塔野地縁起」)との伝承及び記録があると云う。字西中ノ切(寺山)がその伽藍地と云う。 字西中ノ切の南西100mほどのところに、33体の石仏などと共に東野寺五重塔礎石と伝える礎石がある。現在礎石は馬頭観音(天明4年<1784>)の台石となっている。勿論この石が礎石ましてや東野寺五重塔礎石であることを証明することは(以上の情報だけでは)不可能ですが、大きさ・形状から礎石である可能性は有り得ると思われる。(心礎であることはほぼ無いとも思われる。) さらに、この礎石の西方(字山王)には「山王権現」跡があり、現在は「旧跡山王大権現」石碑と山王権現の小祠がある。特筆すべきは、この小祠には「山王大権現」の石柱が建ち、明治維新前の正しい称号を掲げています。 この字山王には薬師寺があったと伝えるも不明、要するにこの地には中世まで天台系の東野寺と山王権現の伽藍があったと思われる。 なお、字西中ノ切の北方には附近から出土した十数基の五輪塔などが並べられている。 |
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2007/11/29 | 山城妙覚寺 | 華芳宝塔(木造宝塔) 京都妙覚寺華芳宝塔 |
2007/11/24 | 山城高麗寺跡 | 平成19年度発掘調査:山城高麗寺跡 |
2007/11/18 | 近江百濟寺塔跡 | 再訪:近江百濟寺五重塔跡 |
近江金剛輪寺三重塔 | 再訪:近江金剛輪寺三重塔 | |
近江西明寺三重塔 | 再訪:近江西明寺三重塔 | |
2007/10/13 | 大和眉間寺跡 | 大和眉間寺跡参照、再探索。 |
大和興福寺 | 大和興福寺参照、再訪。 | |
大和長弓寺 | 大和長弓寺参照、再訪。 | |
大和霊山寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 13 |
再訪。 大和霊山寺本堂1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 13 大和霊山寺鐘楼1 同 2 同 3 2001/03/24撮影: 霊山寺三社 霊山寺三社中央社殿1 霊山寺三社中央社殿2 |
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2007/09/27 |
常陸中台廃寺跡1 同 2 |
(筑波廃寺) |
常陸筑波山中禅寺 | 常陸筑波山中禅寺のページを参照 | |
常陸薬王院三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 13 同 14 同 15 同 16 同 17 同 18 同 19 同 20 |
宝永元年(1704)完工、棟梁は桜井瀬左衛門安信(後に成田山三重塔を完工、桜井瀬兵衛子息)。 一辺4.55m、塔高25m。基本的には和様を基調とする。塔の全面に彫刻を施す。初重連子窓部に島村圓鉄作と推定される十六羅漢の彫刻を嵌める、尾垂木は龍を丸彫する、その他多くの彫刻で装飾される。屋根銅板葺 (建立時は杮葺、明治に石板葺、昭和22年銅板葺に変更)。 塔正面扉・十六羅漢像 塔正面十六羅漢像1 塔正面十六羅漢像2 ※塔の板壁に十六羅漢像を彫る例は成田山新勝寺三重塔、陸奥應物寺五重塔(塔は既に退園、若干の板壁が現存すると思われる)などが知られる。 椎尾薬師。延暦元年(782)最仙上人による開山と伝える。 天文19年(1550)伽藍焼失、寛文6年(1666)より、本孝法印(後に信濃善光寺大勧進70世)などにより再興する。 本堂:延宝8年(1680)建立<床下柱根墨書>、桁行5間梁間5間、本尊薬師如来。 椎尾薬師本堂1 椎尾薬師本堂2 仁王門:貞享5年(1688)落慶、棟梁は桜井瀬兵衛<墨諸>と云う。屋根はもと杮葺、大正12年瓦葺、昭和55年銅板葺に変更。 椎尾薬師仁王門1 椎尾薬師仁王門2:本堂に至る石階から撮影、倒木あり。 毘沙門堂:元禄7年(1694)建立、もとは山王社であったが、明治維新で空祠、明治10年毘沙門天を安置。 薬王院毘沙門堂1 薬王院毘沙門堂2 薬王院毘沙門堂3 薬王院毘沙門堂4 頽廃する参道:椎尾薬師旧参道:仁王門下まで新参道が 整備、仁王門に至る旧参道は廃道に近く、崩落寸前です。(山寺に車道が整備されれば、旧参道は例外なく退転するのが通例のようです。) 参考資料:「真壁町の社寺装飾彫刻」真壁町歴史民俗資料館、平成6年 |
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常陸山尾権現山廃寺 | 常陸山尾権現山廃寺のページを参照 | |
常陸願成寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 13 同 14 同 15 同 16 |
安永9年(1780)建立。一辺4.28m、高さ25.1m。西を正面、廻縁付、屋根銅板葺、基本的には和様を基調とするが、多くの彫刻で装飾(円柱表面は地紋、腰長押・頭長押・台輪に浮彫り彫刻、台輪長押間,組物間,小天井,軒支輪などには厚肉の彫刻を嵌める、尾垂木は龍を丸彫りする、初重脇間腰長押上は板で文字を配する)する。 平成5〜7年大修理。 常陸願成寺三重塔17 常陸願成寺三重塔18 常陸願成寺三重塔19 常陸願成寺三重塔20 常陸願成寺三重塔21 常陸願成寺三重塔22 常陸願成寺三重塔23 常陸願成寺三重塔24 常陸願成寺三重塔25 常陸願成寺三重塔26 常陸願成寺三重塔27 常陸願成寺三重塔28 清安山願成寺不動院と号する。(板橋不動尊)不動院縁起では、大同3年(808)弘法大師が来錫、大師自刻の不動明王(重文)を祀るという。 本堂:文禄年間(1592-95)再興、重層入母屋造。 常陸願成寺本堂1 常陸願成寺本堂2 常陸願成寺本堂3 楼門:元禄年間(1688-03)再興。 常陸願成寺仁王門 ○不動院境内絵図(寛政10年1798):不鮮明で、殆ど判別出来ません。 |
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常陸法円寺多宝塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 |
平成元年(1989)竣工、平成2年多宝塔落慶。総高14.5m。 鉄筋コンクリート製。松井建設設計施工。武蔵興禅寺多宝塔と同型同寸という。 医王山と号する。浄土宗。慶長5年(1600)深蓮社信譽存廊上人(不詳)により開山。 昭和24年本堂・庫裏・鐘楼を焼失。昭和59年本堂、昭和61年山門・鐘楼を再建。 |
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2007/09/26 |
常陸下君山廃寺心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 方形加工石1 同 2 |
現状は、古天宮と称する土壇状の藪に廃寺が忘れられたようにあり、心礎・石製露盤が放置されている。また附近には布目瓦の散乱を見ると云う。 下君山廃寺位置図 下君山廃寺遠望:北東から撮影、写真中央付近の藪中に心礎・露盤がある。 出土した金銅仏は銅造誕生釈迦仏立像(茨城県立歴史館所蔵)と云う。 心礎・露盤については以下の情報がある。 「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、145cm×138cm×34/27cm、径25.5×15cmも円孔がある。雲母片岩、奈良後期。 露盤は一辺100cmの正方形、厚さ45cm、貫通孔径36cm、中台廃寺と形は全く同じ。 「日本古代地方寺院の成立」;石造露盤が現存、出土瓦は白鳳期か?、周囲から8世紀の金銅仏が出土。 「山尾権現山廃寺」:露盤;長さ100、厚さ46、円孔径36cm。 2005/03/13撮影:「X」氏ご提供: 常陸下君山廃寺心礎1 同 2 同 露盤 2007/09/26追加: ・心礎は「幻の塔を求めて西東」では一重円孔式とするも、円孔中央にさらに小孔(舎利孔様)があり、二重円孔式と思われる。(やぶ蚊がひどく、採寸は断念) ・露盤は今回は実見できず、心礎東側のやや下がったブッシュ(竹薮)中にあると思われる。 ・心礎の数m附近に写真の方形加工石(材質は心礎と同じ・大きさの現状は215×145cm)が約45度に傾いて有り、方形加工されたものと思われるも、用途は不明。 ・現状では夏場の見学は外から見えず、鎌・鉈・長袖・長ズボン・軍手などの装備が必要。冬場が好ましい。 |
下総平賀本土寺 | 平賀本土寺のページを参照 | |
下総東海寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 |
昭和48年建立。総欅純木造。山城岩船寺塔がモデルとも云う。
一辺2.76m、高さ16m。基本的には和様を用いる。屋根は銅板葺。本尊不動明王。 布施弁天。新義真言大塚護持院末。 布施弁天は浅草弁天山(上野寛永寺不忍池弁財天とも云う?)、江ノ島とともに、関東三弁天のひとつと云われる。 多宝塔式鐘楼:文化15年(1818)建立:しかし「塔」ではありません。 布施弁天鐘楼1 同 2 同 3 布施弁天本堂、享保2年(1717)の建立。 布施弁天本堂1 同 2 |
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常陸来迎院多宝塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 13 同 14 同 15 同 16 同 17 同 18 |
室町後期。
<弘治2年(1556)江戸崎城主・土岐治英によって建立と云われていたが、近年の修復で、柱の墨書や宝輪、飾り金具の刻印などに、弘治2年塔を修理した旨の銘が発見され、建立されたのは弘治2年以前と推測されるに至る。> 一辺4,15m、高さ19.7m。 初重四面中央間は桟唐戸、脇間は正面のみ連子窓、他の三方は板壁、周囲に縁を廻らせる。組物は初重が挙鼻附出組、二重は四手先、いずれも唐様を用いる、 軒は上下とも二重繁垂木。屋根杮葺(今般の修復で赤塗り銅板葺を変更)。1998〜2001年修復工事 。 中央より見れば地方の小寺院と思われるも、ここに室町期に遡る多宝塔が今日まで伝えられたのは奇跡的とも思われる。 天台宗。箱根山宝塔寺と号する。本尊阿弥陀如来。寺伝では、永正14年(1517)、逢善寺末寺として創建されたと云う。今般の銘発見で、多宝塔は創建当時の建立とも推測される。2006年重文指定。 来迎院仁王門本堂:伽藍は南面する、仁王門から本堂を望む、仁王門手前は墓地で、 仁王門右手に多宝塔が建つ。 来迎院本堂:本堂は近年のRCC製と思われるも、屋根は銅板葺(丸の瓦棒)。 |
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常陸国分寺心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 |
発掘調査の結果,南門・中門・金堂・講堂・北面僧房が一直線に並ぶ伽藍配置が明らかにされた。 回廊は中門から東西に金堂に取付く。寺域は南北231m(2町),東西273m(2町半)。現国分寺境内に金堂・講堂・廻廊の礎石が現存する。 塔の建立された位置は未だに明確でないが、塔心礎も現存する。 (東方約200mの「伽藍御堂塔跡」を参照ください。) 心礎は現在の唐門(廃千手院の門)の南に、置かれている(出土地不明、附近の民家から持ち込まれる)。花崗岩の自然石に柱座を円形に削平し、中央に枘孔がある。 「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、200×180×160cm、径50×18cmの円孔を持つ。 ◇2006/04/27追加: 「国分寺の研究 上・下巻」 角田文衛/編(1938)所収:「常陸国分寺」廣瀬榮一、角田文次 より: 「・・・七重塔一基の塔址が境内に認められない。その後廣瀬は伽藍御堂の地に塔跡を発見、・・・これは出土瓦及び別の塔礎の存在などから、国分寺塔址とは関係ない他寺の塔址と想定する。・・・・別の塔礎であるが、・・原位置はあきらかではないのは遺憾である。現在は石岡市泉町濱氏邸にあり、高さ5尺幅4尺ほどあり、上部は削平し、中央に径1尺6寸5分、深さ6寸7分の大きな凹が設けられている。・・古くは国分寺附近の某氏邸内にあり、井戸修理の際掘り出され、後現在の場所に移したとのみ伝えられる。・・・関東北の伊豆・武蔵・下野・陸奥の各国分寺刹礎が同様の一段の凹であることからも、これが常陸国分寺刹礎と見て大過ないであろう。・・」 ○常陸国分寺附近地形図:1/50000 ※国分寺南に小目代寺跡がある。柱座を持つ礎石1個が孤立してある。多数の瓦を出土という。(現在は茨城廃寺という。) ○金堂址礎石配置図(単位:尺) ○講堂址礎石配置図(単位:尺) ○常陸国分寺塔心礎1 ○常陸国分寺塔心礎2 ○常陸国分寺塔心礎3 ◇「柴田常恵写真資料」より: ○常陸国分寺塔塔心礎:昭和6年、廣瀬栄一氏ヨリ ○常陸石岡国分寺礎石:昭和4年7月5日 ◇2007/09/26撮影: 常陸国分寺伽藍配置:現地説明板より 常陸国分寺塔心礎は、上記「常陸国分寺」(廣瀬など)によれば、井戸修理の際掘り出された心礎は古くは国分寺附近の某氏邸にあり、その後泉町(国分寺東方500m)濱氏邸に移されたことが知れる。残念ながら出土地は不詳であるが、その大きさ・形状から国分寺塔心礎と推定される。(この心礎は今は国分寺境内の旧千手院山門前に移されている。) なお、伽藍(がら)御堂廃寺の塔跡を国分寺の塔とする見解も流布するようですが、伽藍御堂には別の心礎の存在が知られ、全く別の塔跡であろうと思われる。 常陸国分寺金堂跡 常陸国分寺講堂跡 常陸国分寺中門跡:礎石は明治41年焼失した天正2年?再興仁王門礎石という。 常陸国分寺薬師堂 常陸旧千手院山門 参考:常陸国分寺・伽藍御堂廃寺航空写真 |
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常陸伽藍御堂廃寺跡1 | 常陸伽藍(がら)御堂廃寺を参照 |