【 仲間大募集 】
コロナの影響で募集活動を中断しています
~ 工事中 ~
【 一吟 】
冬夜書を読む 菅茶山 作
雪は山堂を擁して樹影深し
檐鈴動かず夜沈沈
閑に乱帙を収めて疑義を思う
一穂の青燈万古の心
《語釈》
※擁して…すっぽりと包む。とりかこむ。埋める。 ※樹影深…木々のたたずまいが、深々としている。 影は姿。雪に閉ざされた木立が一層深々とした感じになるのをいう。 ※檐鈴…軒下につるした風鈴。 ※沈沈…深く静かなさま。夜の更けてゆくさま。 ※乱帙…とり散らした書物。「帙」は書物を包むおおい。 厚紙に布を張ってつくる。 ※疑義…疑わしい意味。義は意味。 ※一穂…燈(とも)火(しび)は先が 尖って穂のようであるから、一つの燈を一穂という。
《通釈》
雪はこの山中の家を降り込めてしまい、木々のたたずまいも深々としている。軒端の風鈴もひっそりと動かず、 夜はしんしんと更けてゆく。心静かにとり散らした書物を整理しながら、読書中の疑問の意味を考えつづけながら、 青白くともる燈火を見つめていると、心は遠くはるかな聖賢の心に通うように思われてくるのである。
《作者》
菅茶山(1748~1827)江戸中期から末期にかけての漢詩人。本姓は「菅波(すがなみ)」と発音。 名は晋帥(ときのり)、字は礼卿、通称は太仲。茶山と号した。寛延元年、備後(広島県)神辺に生まれた。 家は代々儒者であった。幼少から書を好み、詩を作り、19歳のとき、備中の西山拙斎とともに京都に上り、 那波魯堂に従って学び、佐々良斎・中山子幹・中井竹山・篠崎安道等と交遊し、帰郷ののち、家事を弟に託し、 塾を開いて教授した。その塾が黄陽山に対していたので、「黄葉夕日村舎」と名付けたが、山陽・南海地方の 人が多く来て学び、その後、郷校となるに及んで「簾塾」と改めた。
【 三味線奮闘記 】
(2018年8月)
津軽三味線を始めた。
始めた理由は、三味線の音が好きでいつの日か
自分の手で奏でたいとの思いでした。
手にした日はウキウキで、見た目に合わず
結構重たいのには、まず驚きました。また
ギターにあるフレームがないので勘所のシールを
貼ってそれを見ながら練習する日々。
(今は1年と半年)
津軽三味線曲弾(6段)を譜面を見ながら
ミスをしながらゆっくりではあるけれど弾けるようになった。
しかし、いまだに前バチと後ろバチがうまくいかない。
また『津軽甚句』や『南部俵積み唄』を歌いながら
弾けるようになりたいので特訓中です。
三味線に興味がある方、一緒に練習いかがですか
(今は3年目)
なんとか弾くと曲らしく聞こえる曲目が増えた、津軽じょんがら新節と旧節、民謡では、『十三の砂山(青森県)』や『りんご節』 を譜面を見ながら、独学で続けて勉強しています。 十三(とさ)の砂山は、曲に哀愁を感じ 三味線の音色と相まってなんとも大好きな曲のひとつです。 青森県五所川原市の市浦地区は昔、湊町と栄えて船乗りたちが残した舟歌が現代まで伝えられました。 また、津軽じょんからは東北地方の厳しい冬と過酷な農耕生活から 口説き節として始まったといわれ、ともにその地方に生まれた日本の音楽ですね。 当面の三味線課題は、かまし、ゆり、押し撥の技法を身に着けることです。 その為には一曲につき七回練習を目標に毎日努力を重ねています。 しかしいまだ譜面を見ずに引くことができません。 『継続は力なり』と自分に言い聞かせつつも、七回練習曲を弾くことを目標としているが難しい。 まず、音がうるさいので近所迷惑にならないか心配、それに結構手が疲れてくるし 、集中力が散漫になる等いろいろあります。でも楽しい。
(今は4年目)
中級用の津軽三味線
世田谷の経堂にある邦楽器店で購入しました。店で気さくな社長さんに進められて 、そろそろ初級の津軽三味線から卒業時期かなと思っていたので、さわりのついた本格的なものがほしくなった。 舞台で演奏してもだいじょうぶだそうだ。太鼓の皮は人工皮にしてもらう 動物は自分の中で好まないし、破れやすく張替えに費用が掛かる為と丈夫な合成皮にしてもらう。 最近、外国の方も購入に来られるそうで、外国の方に合成皮を 好む方が多いのだそうだ。 音の違いはなかなか一般の人の耳では分からないと思う。 演奏の方は、未だ譜面をみながらでもおぼつかない。なかなか手ごわいのに自分に腹が立つ日々。
(次回に続く)
【 仲間と歩く 】
おおよそ3か月に1回ぐらい、仲間3人で
健康維持の為、いろんな所を歩いている。
これについて程よく紹介してまいります。
~ コロナの為中断 ~
【 八丈島旅行 】
兼ねてより計画していた次男夫婦が仕事で赴任している 東京都八丈島へ妻と長男で、遊びに行った。 日程は、2022年11月5日(土)から7日(月)まで 羽田出発時刻、12時10分発にほぼ定刻出発し、13時10分頃 八丈島空港へ到着、あっという間である。 天気は、ほぼ曇りで変わりやすく時々雨であった。 次男が迎えに来てくれて、車で下記案内 してもらう。 費用は、飛行機、ホテル(朝食のみ)50,000円/一人 空港到着後、まず昼食腹ごしらえの為、地魚干物食堂(八丈町大賀郷)にて 漬丼、3年B組金八丼定食という名前がユニークな定食、 お刺身定食を頂く、魚は新鮮でうまい。だが値段が2000円もっぽう 高かかった。
= 八丈富士ふれあい牧場 =
八丈富士の中腹にある、見晴らしのいい牧場からは 飛行場や三原山と街が一望できるのだが、靄がかかり 天気が良ければきれいに見れるのに、あ~残念。 牧場では、牛が出迎えてくれた。 ここふれあい牧場と言うのではあるが、牛にさわらず 見るだけで帰った。
= 南原千畳岩海岸 =
八丈富士の噴火で流れ出た溶岩の海岸でごつごつしている。 天気のいい日の夕暮れは八丈小島に沈む夕日がきれいだそうだ。 何を狙うのか分からないが釣り人を一人見かけた。 またそこには、戦国時代、天下分け目の関ケ原で敗れ、島流しとなった 宇喜多秀家公と豪姫の碑が立っている。遥か向うの海に向かって 並んで座しているのだか、戦い以前の元の領地の備前国(岡山県)より 少しずれている方角に視線が向いているので皆と話題となった。 なぜずれているのかが謎である。
= ホテルチェックイン =
八丈島 ホテル リゾートシーピロスで2泊することにした。 場所は底土港の目の前にある。 モダンな平屋作りであったが、天候が良くない為なのか私は夜中風の音がうるさく眠れなかった。 朝食はバイキング形式でまあまあおいしい。
~11月6日~
= 八丈植物公園/八丈ビジターセンター =
九州大分県とほぼ同じ緯度の八丈島ではあるが、生息植物は 大分と異なり、南国のような感じがした。 キョンという動物が飼育されていた、外来種だと思う。 島の動物と言えばイタチがいるらしいが今回の旅は見かけなかった。 島の暮らしは、島自体が火山の土壌なので、米は育たず、粟、麦、芋、アシタバ 等が主食だったと資料に記載されていた。 虫も目にした、サソリもどきやでかいカタツムリがいた。
= 裏見ケ滝 =
三原山は水資源が豊富だそうだ、仲之郷エリアにある滝である。 滝の裏側を歩いてみることができる滝で、大変めずらしい。 西側の八丈富士は、標高854メートル、東側の三原山は標高700メートル である。
= 登竜峠展望台 =
底土港周辺、宿泊したホテルも見える。次の写真左側に八丈島空港が 見える。沖合の小島が三原山から見た八丈小島である。 「のぼりょう」と読むのだそうだ。天気がよくなかったので三宅島は 見えなかった。
~11月7日~
帰還日、気がかりだったのは、天候だ。 もやがかすかにかかっていたので、視界が悪いと飛行機が引き返して 着陸しないこともあるのだそうだ、そうなると帰れなく足止めをくらう。 その為、最終便を切り上げて昼の便に予約をしている。 今回は無事に13時55分に離陸、大よそ14時40分頃に羽田に無事着いた。
≪写真≫
八丈島旅行
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