飛   鳥   の   塔   跡

大和飛鳥の塔跡 (→飛鳥以外の大和の塔跡

2026/01/05追加:
佛教伝播と本邦伝来・受容

○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より

(1)はじめに
 日本で初めて建立された、本格的な伽藍をもつ仏教寺院は飛鳥寺(法興寺)である。
それは飛鳥の中央部にちかい真神原の地であった。その威容は、基壇上に礎石を据え、朱塗りの柱を立て、緑の連子窓、屋根には瓦を葺く「番神」であった、特に五重塔は天空を圧して建つ。
 『日本書紀』推古2年(594)2月1日条「皇太子及び大臣に詔して、三宝を興し、三宝を興し隆えしむ。是の時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競ひて仏舎を造る。」とある。推古天皇は仏教を推奨したのである。
 それから30年を経た推古32年(624)9月3日条には「寺四十六所、僧八百十六人、尼五百六十九人、䮒て一千三百八十五人有り。」とある。
さらに藤原京遷都直前の持統6年(692)9月条には「天下の諸寺をかぞえおよそ五百四十五寺」(『扶桑略記』)と記されている。
 以上に見られるように、仏教寺院は、100年余の間に、爆発的に増加したのである。
(2)東アジアにおける仏教
  ◇インド仏教とその伝播:
 仏教を開いたのは釈迦牟尼であり、紀元前560年に生まれ、480年代に亡くなったとされる。(「南伝仏教」あるいは「北伝仏教」ではその100年ほど後とする。)
 釈尊が入滅すると火葬され、舎利(遺骨)は8つに分けられ、各地に土を盛り上げた塔が建てられた。舎利とそれを蔵する仏塔は、次第に仏陀(釈尊)と同一視され、崇拝の対象となっていった。
入滅後、弟子たちはラージャグリハ(王舎城)に集まり、釈尊が説いた教えを経典としてまとめ、出家者の生活規則である律を確定した。
古代インドを統一したアショカ王の時代になると、全インドに宣布され、広がっていく。しかしその過程は様々の分派が広がっていく過程でもあった。一つは大乗仏教の成立である。
 インド北西地域に広がっていた仏教は、ガンダーラ地域にまで拡大するが、ここからは東に転じて、交易路を東進し、遂には長安・洛陽にまで伝わる。
  ◇東アジアにおける仏教政策:
 仏教が中国に伝わったのは、後漢の時代(1世紀頃)とされ、3世紀初めには山東半島あたりまで広がったと考えられている。そして、民衆から支配者層に至るまでの人々が仏教を熱狂的に信仰しはじめるのは4世紀の東晋・五胡十六国時代からである。
 439年、華北が北魏によって統一されると、二つの王朝が対峙する南北朝時代が始まる。この時代は中国の政治権力に、仏教が深く根ざす時代でもあった。
 581年に文帝が隋を建国して、中華を統一する。隋は仏教を国策とし、仏教を通じて統治する。
  ◇東アジア周辺諸国への仏教伝来:
 高句麗への仏教伝来は『三国史記』(巻18)によると、小獣林王2年(372)に、前秦の符堅から、僧侶・仏像・経典が送られたと記す。このとき、仏教を国家的に歓迎し、国民も抵抗をみせなかった。これは新興の百済が北上し、度々高句麗と交戦していた国際情勢があり、百済が南朝の冊封を受けたことから、仏教を伝えてきた前秦と友好関係を結ぶ必要があったからと考えられる。そして、小獣林王5年(375)に肖門寺と伊仏蘭寺を建立したとされ、これは「海東仏法の始なり」と記されている。
 但し、中国側の史料である『高僧伝』では別の説話が語られる。
  百済への仏教伝来は『三国史記』(巻24)によると、百済枕流王元年(384)に東晋から僧侶の摩羅難陀が至った時とされている。王はこれを迎え入れ、翌年に仏寺を創建し、10人の僧を得度して住まわせたという。
さらに高句麗との交戦の末、都を熊津へと遷すと、527年に梁の年号である「大通」を冠した大通寺を熊津に建立した。大通寺の瓦には南朝系の技術が使用されており、両国間の仏教を介した友好関係を象徴している。
 新羅は朝鮮三国の中でもっとも遅れて仏教を受容した。『三国史記』(巻4)によると法興王15年(528)条に、梁の使者と僧侶が至ったことを契機に公伝したとし、「肇めて仏法を行ふ」と記す。地理的にも中国から遠い新羅は、朝鮮半島情勢を有利に進めるため、梁と友好関係を構築する必要があり、梁の国教である仏教を公認することで、梁の関心を得ようとした。
  ◇我が国における仏教の導入過程:
 倭国への仏教公伝は、百済の聖明王が仏像と経典を献上したことにはじまる。
『日本書紀』ではその年代を欽明13年(552)と記すが、
『元興寺伽藍縁起䮒流記資財帳』(『元興寺縁起』)『上宮聖徳法王帝説』では戊午年(538)とする。
この異なる年代の真偽については、『日本書紀』の記事には、唐の『金光明最勝王経』による文飾があることや、その年紀が末法元年に設定されたと考えられることから、戊午年(538)説が有力視されている。
 しかし、仏教は公伝以前に、すでに民間レベルでは倭国にもたらされていたと考えられている。
伝河内国金剛輪寺の画文帯四仏獣鏡(5世紀)の仏像の図像が、顕宗3年には近江の三津首百枝が志賀の草屋において比丘(僧)を造形したとの説話、6世紀初に後魏孝荘帝の皇子・善正が豊前彦山に来て霊山寺を開いたとの伝承、継体16年(522)
に司馬達等が坂田原に草堂を建て、本尊を安置して礼拝した記事(『扶桑略記』欽明13年(552)10月13日条)などがその例証である。
 538年(あるいは552年)に百済から仏像と経典が献じられ、欽明天皇はここで仏教受容の可否について決断を迫られ、臣下に「その可否」を諮る。蘇我稲目は容認し、物部尾輿・中臣鎌子は非認とする。
そこで、天皇は蘇我稲目に礼拝することを許し、小墾田の家や向原の家で祀らせた。
ところが疫病が流行り、物部氏は仏像を難波堀江に投棄、仏堂を焼き払う挙に出る。
ここから崇仏派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏)の対立が激化する。
 敏達13年(584)には、百済より弥勒石像と仏像がもたらされ、蘇我馬子がこれをもらい受け、播磨国にいた高句麗僧の恵便を師として、司馬達等の娘・嶋(善信尼)ら3人を出家させた。
そして、邸宅の東に仏殿を造り、弥勒石像を祀った。
翌14年には、大野丘(甘樫丘)の北方に塔を建て、前年に得た舎利を納めたことが記されているが、この時に再び疫病が蔓延したことから塔を倒し、仏殿・仏像が焼き払われる。さらに善信尼らも海石榴市で弾圧された。
 しかし、今度は天皇と物部守屋が病に罹り、仏像を焼いたためだとなり、蘇我馬子だけは、仏教を敬うことが許された。
これに反発した物部氏と蘇我氏の対立は、武力衝突へと発展していく。蘇我・物部戦争(丁末/ていび/の役)である。
この戦いにおいて、仏に戦勝祈願をした蘇我氏と厩戸皇子は、勝利の暁には仏のために寺塔を建てると約束した。
丁未の役で勝利した蘇我氏は法興寺を、厩戸皇子は四天王寺を建立することになる。
一方、善信尼らは百済へと渡り、受戒をして、崇峻3年(590)に帰国し、桜井寺に住み、その後の仏教興隆に大きな役割を果たしたという。
 以上のように、仏教公伝以降、崇仏(蘇我氏)と廃仏(物部・中臣氏)との間で政治的対立が起こり、本格的な仏教寺院の建立はなされなかったのが実情であろう。崇仏派は居宅で仏を祀る、居宅内に仏堂を建てるなどの形式で敬ったのであろうと思われる。
本格的な伽藍をもつ寺院は飛鳥寺まで待たなければならなかったのである。
 ※厩戸皇子・蘇我氏と物部氏は対立し、物部氏は丁未の乱にて滅亡するが、
  以外にも、厩戸皇子建立という摂津四天王寺には物部守屋の祠が祀られているいることを今般知ったので、敢えて記載する。
  四天王寺守屋祠
   四天王寺伽藍の東が聖霊院伽藍であるが、その中の太子奥殿の東に守屋祠が存在する。
   ○「摂津名所圖會」>四天王寺>守屋祠では次のようにいう。
      摂津名所圖會守屋祠:次のようにいう。
      ○守屋祠(もりやのやしろ)
        太子堂の後にあり。今参詣の者守屋の名を悪むにや、礫を投げて祠を
       破壊す。寺僧これを傷んで熊野権現と表をうつ。祭る所、
       守屋大連・弓削小連・中臣勝梅連の三座なり。
        本願縁起 云ふ「守屋臣はこれ生々世々相伝の破賊なり。<中略>田地を掠め椒り
       寺塔を破滅しける事、これただ守屋変親するのみなり。われと守屋とは
       影と響とのごとし。寺塔を滅亡せば国家も壊失せん」と云々。
        伝に日く、釈尊出世のむかし菩提達多が生々世々の仏敵なりしも、つひには天王如
       来の記莂(きべつ)を蒙りぬ。守屋臣もかりには法敵となるといへども、かへつて太子の
       興隆を成ぜんが為の方便なり。
       唯円教意逆即是順の理なるペし。
      ○信濃善光寺「守屋柱」
       信濃善光寺本堂
        守屋柱と称する角柱が善光寺本堂内々陣に1本据えられているという。
        この柱の性格については諸説あるというが、
        やはり物部守屋の鎮魂あるいは守屋の怨霊の封じ込めの意味があるのではないかと推察する。
        →守屋と善光寺如来の由来は飛鳥豊浦寺を参照。
      なお、四天王寺守屋祠は未見に付き、GoogleMapより写真を転載する。
       摂津四天王寺守屋祠1
       摂津四天王寺金堂鷹の止り木:金堂東面に鳥居形の鷹の止り木がある、この東に守屋祠がある。
       摂津四天王寺守屋祠2     摂津四天王寺守屋祠3     摂津四天王寺守屋祠4
(3)寺院以前の「寺」
 史料にみる「寺」:
「日本書紀」欽明13年(552)10月条:
 「小墾田の家に安置せまつる」つまり、百済聖明王からもたらされた仏像及び経典等は、王宮ではなく、蘇我稲目に託される。
そして「向原の家を浄め捨ひて寺とす」とある。
「扶桑略記」欽明13年(552)10月13日条:
 坂田原に仏像を安置した「草堂」を建てる とある。
「扶桑略記」敏達11年(582):
 「牟久原の家を揩井に遷す。翌敏達十二年にこれを桜井道場とし」(元興寺縁起)とある。
 この「桜井道場」は敏達14年(564)2月15日の記事(元興寺縁起)から、「桜井寺」とも呼ばれたと考えられる。
「日本書紀」敏達13年(584):
 蘇我馬子が「仏殿を宅(槻曲)の東の方に経営りて、弥勒の石像を安置せまつる」とある。
「日本書紀」敏達13年(584)是歳条):
 「石川の宅にして、仏殿を修治る」とある。
以上はいわば、寺院未満の「礼拝施設」であったが、塔を建立した例もある。
「日本書紀」敏達14年2月15日条:
「蘇我大臣馬子宿禰、塔を大野丘の北に起てて、大会の設斎す。即ち達等が前に獲たる舎利を以て、塔の柱頭に蔵む。」
「大野丘」とは、「甘樫丘」のことで、甘樫丘の北に塔が建っていたことになる。
翌月(敏達14年(564)3月30日条)では大野丘北塔が物部守屋によって倒され、放火される。大野北塔は仏堂とともに焼失とある。
「日本書紀」崇峻即位前紀(587)7月条:
七堂伽藍をもつ飛鳥寺を発願、翌年に造営を開始する。
 以上、飛鳥寺以前の仏教施設としての「寺」は「道場」「草堂」「精舎」とも呼ばれ、居宅の一部あるいは仏堂(仏像礼拝用建物)として改修したもので、捨宅寺院とも呼ばれるものであることがわかる。
 考古資料にみる「寺」:
  (この項は多岐に渡るので省略)

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 ※本論考はこの後、各寺院毎にその概要が述べられる。
その概要は、各寺院別の論述であるので、各々の寺院別の項目に記載する。
次に示す寺院名がその対象寺院である。
  飛鳥寺、豊浦寺、和田廃寺、橘 寺、檜隈寺、坂田寺、立部寺、奥山廃寺、雷廃寺、丈六南遺跡、
  日向寺、大窪寺、軽 寺、吉備池廃寺、山田寺、阿倍寺、田中廃寺、呉原寺、桙削寺、木之本廃寺
 また、出土瓦の様式については、次の「飛鳥時代の軒瓦」を参照するので、次に転載する。

   飛鳥時代の軒瓦形式:下図拡大図
 飛鳥時代の軒瓦形式


2026/01/12追加:上記の続きである。
(4)飛鳥寺の創建  → 下に掲載の大和飛鳥寺 へ

(5)飛鳥寺の系譜  → 下に掲載の大和飛鳥寺 へ

(6)7世紀前半の寺院    → 下に掲載の各寺院 へ
 飛鳥寺、豊浦寺、和田廃寺、橘 寺、檜隈寺、坂田寺、立部寺、奥山廃寺、雷廃寺、丈六南遺跡、
  日向寺、大窪寺、軽 寺、吉備池廃寺、山田寺、阿倍寺、田中廃寺、呉原寺、桙削寺、木之本廃寺

 ※※以下については、要約しては分かり難いので、ほぼ「全文」を転載する。

(7)初期寺院の系譜
 7世紀前半に創建された飛鳥地域の各寺院についての概要を記してきたが、ここでは初期寺院の特色について検討することにする。

 古代寺院の造営期間
 古代寺院の造営期間・経過などについては不明な点が多いが、史料により、いくつかの寺院で判明する事例がある。
飛鳥寺についてはすでに記したので、次に明確な山田寺をみる。
 山田寺の造営過程は『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』(裏書)によってわかる。
山田寺は舒明13年(641)に蘇我倉山田石川麻呂が発願し、造営が開始される。
そして、皇極2年(643)に金堂を建立するが、大化5年(649)に石川麻呂は金堂で自害するので、造営は一時中断したと考えられる。
この段階で金堂はほぼ完成しており、塔の造営にも着手していたようである。
天智2年(663)には塔造営に着手するものの、進捗は遅く、心柱を立てたのは、天武2年(673)になってからである。
そして、天武5年(676)に塔が完成する。
天武14年(685)には丈六仏を開眼することから、講堂も完成していたことがわかる。
これらのことから、山田寺の堂塔の造営は、途中で中断期間はあるものの、舒明13年(641)〜天武14年(685)の44年をかけて、金堂→塔→講堂の順で建てられたことがわかる。
 一方、豊浦寺では造営記事はないものの、史料から窺うことができる。
豊浦寺の造営開始は、豊浦宮を寺にしたことから、小墾田宮遷宮の推古11年(603)が基準となる。
ここで金堂の造営がはじまり、推古36年(628)条には山背大兄皇子が蘇我蝦夷を見舞うため、豊浦寺に居した(舒明即位前紀条)とあり、この段階である程度整っていたことがわかる。
そして『聖徳太子伝暦』舒明6年(634)15日に「建豊浦寺塔心礎」とあり、塔の造営が進められていたことがわかる。
さらに朱鳥元年(686)には無遮大会を行っているので、主要伽藍はこの頃に完成していたのであろう。
このことから豊浦寺も推古11年(603)〜朱鳥元年(686)の83年かけて、金堂→塔→講堂の順で建てられたことがわかる。
 この二つの事例は、史料から造営の経過がわかるものであるが、両寺院の考古学的な調査においても、これらの造営過程が裏付けられている。そして、各堂塔の造営には、同時並行で建築されることもあるが、当時の一般的な(国の関与のない)寺院の場合、ほぼ10〜20年程度の期間が必要であったと考えられる。これを考えると、飛鳥寺は、驚異的なスピードで造営が進んだことが特筆される。

 第2図 日韓の伽藍配置の比較(1:4000):下図拡大図
 

 前期寺院と後期寺院
 7世紀後半に堂塔が建てられ、伽藍が整備されたことが判明する寺院の中で、7世紀前半の瓦が一定量出土する遺跡がある。
 檜隈寺は東漢氏の氏寺で、現在確認されている伽藍のうち、金堂及び中門は檜隈寺式瓦を葺く7世紀後半に建立されたことが明らかとなり、塔と講堂は藤原宮式瓦の7世紀末から8世紀初頭に建てられ、この頃に伽藍が整備されたことが明らかとなった(奈文研1980・1981b・1982a・1983)。
これは「檜隈寺・軽寺・大窪寺に各百戸を封ず。三十年を限る。」(朱鳥元年(686)8月21日条)の記事と整合すると考えられている。
その一方で、花組や山田寺式瓦も出土しており、少なくとも7世紀初頭には瓦を葺いた建物があったことが確実である。
この時期の遺構は少ないが、L形カマドを持つ竪穴建物が近辺で確認されており、渡来系の建物と推定されている(奈文研2010)。
先の瓦との関係は明確ではないが、併存するものである。
よって、7世紀初頭には瓦葺の仏堂や建物があり、その後、これらの建物を撤去して7世紀後半には、新たな伽藍が造営されたことになる。
ここでは、前身となる仏堂を「前期寺院」として前期檜隈寺、これを壊して、新たに造営した大規模な伽藍を「後期寺院」として、後期檜隈寺と呼ぶことにする。
 このような前期の仏堂を壊して、後期の伽藍を再建する事例は、滋賀県大津市の穴太廃寺でもみられる。
ここでは、7世紀前半の素弁瓦を葺いた前期穴太廃寺(遺構は未確認で、出土瓦から推定)と、その後、周辺の地割に即して、単弁瓦・方形瓦を葺いた後期穴太廃寺創建伽藍が建てられる。
さらに近江京遷都に合わせて、川原寺式瓦を葺き、同位置で正方位に建て替えられたのが後期穴太廃寺再建伽藍である(滋賀県2001)。
後期穴太廃寺の創建伽藍を再建伽藍に建て替えるのは、近江遷都の地割に合わせるという特殊事情があったと考えられるが、前期寺院と後期寺院の関係は、先の檜隈寺の前期・後期寺院と共通する。
 このような前期・後期寺院の関係は、和田廃寺や奥山廃寺・立部寺・坂田寺でも可能性を指摘することができる)。
 和田廃寺では遺構は未確認だが、船橋廃寺式瓦の葺かれた堂が建立され、続いて川原寺式瓦・高麗寺式瓦の塔が建てられたことが判明している。
しかし、これに先行する花組・雪組・奥山廃寺式瓦も出土している。
これらはいずれも先の堂塔よりも小型の瓦で、この段階での小規模な仏堂が推定される。
この仏堂と、7世紀前半の掘立柱建物群との関係は明確ではない。
掘立柱建物群の建物配置には、寺院を推定させる配置はみられない。
このことから、7世紀初頭に建てられた仏堂を、7世紀中頃から後半に大規模な伽藍に建て替えられたと推定されている(奈
文研1975・1976a)。
 一方、奥山廃寺では、金堂及び中門・回廊は奥山廃寺式瓦が葺かれ、塔は奥山廃寺式と素弁蓮華文が葺かれていたとされている(佐川2000)。
ここで注目されるのは、塔基壇の掘込事業よりもやや北にずれて一段階古い掘込事業があることである。
塔以前の掘込事業を伴う建物がここにあった可能性がある。
さらに塔基壇内には7世紀前半の星組・雪組などの瓦が多量に含まれており、前身の建物にこれらの瓦が葺かれていたことを想定させる(奈文研1988)。
つまり、前期奥山廃寺の仏堂を壊し、後期奥山廃寺の伽藍を建立した可能性がここでも指摘できる。
 さらに立部寺では、発掘調査があまり実施されておらず、出土瓦も少ないが、このうち最も古いのは星組瓦である。
これに続くのは川原寺式瓦、そして藤原宮式・岡寺式瓦が続く。
この中で星組瓦と川原寺式瓦の間には時間的な隔たりがある。
このことから、星組瓦の仏堂を壊して、川原寺式瓦以降に伽藍が整備された可能性もある。
もっとも、星組瓦の仏堂をまず建てて、この建物を含めて整備した(伽藍整備に時間がかかった)可能性もあるが、後に検討する伽藍変遷からみて、その可能性は低いと考える。
 坂田寺では、伽藍が判明しているのは、奈良時代中頃に整備した伽藍である。
これは天平勝宝元年(749)に東大寺大仏殿東脇侍を寄進した信勝尼の活躍記事とも合致する。
一方、7世紀の瓦も多く出土しており、最も古いのは星組瓦で、これにつづいて船橋廃寺式・山田寺式・坂田寺式・藤原宮式瓦と続く。これらは多くの型式の瓦が出土しており、時間的にも連続することから、ある程度の建物群(伽藍?)があった可能性がある。
しかし、奈良時代になると、これらの建物を新しい伽藍に変更している。
前期寺院に伽藍が想定される点は、これまでの小規模な仏堂とは異なる点であるが、ここでも前期・後期の関係がみられる。

 第3図 初期寺院の変遷:下図拡大図
 

 初期寺院の伽藍
 ここまでみた初期寺院のうち、伽藍配置が判明(推定)するものには、飛鳥寺・豊浦寺・奥山廃寺・坂田寺(奈良時代)・立部寺・橘寺・檜隈寺・吉備池廃寺・山田寺・安倍寺・軽寺がある。
これらは飛鳥寺が一塔三金堂式、豊浦寺・奥山廃寺・橘寺・山田寺が四天王寺式あるいは山田寺式、吉備池廃寺・安倍寺・軽寺が法隆寺式、立部寺・檜隈寺と奈良時代の坂田寺は特殊な配置である。
 これまで基本的には7世紀初頭の寺院は、直線的な百済式が多く、百済大寺以降には法隆寺式などの伽藍配置が出現する。これは斑鳩の法隆寺が、創建段階(若草伽藍)は四天王寺式であったものが、火災焼失後に再建した伽藍は、法隆寺式(西院伽藍)になることからも、大きな変遷としては肯定される。
しかし、必ずしもそうでない場合も指摘されてきた。
飛鳥寺の伽藍配置の系譜については、すでに検討したところであるが、7世紀初頭の伽藍配置については、百済式が多いことはすでに指摘されている。
しかし、この中では創建時期が古いにも関わらず、立部寺などは百済式でない寺もある。
ここで先の前期寺院・後期寺院の理解を入れると、スムーズに理解できる。
つまり、創建段階の仏堂のみの前期立部寺を壊し、川原寺式瓦を葺く後期立部寺に伽藍を整備し直すと考えられる。
これにより、百済式でない伽藍において、7世紀初頭の瓦が出土することをスムーズに理解できる。
そして、吉備池廃寺(639年創建)で、はじめて法隆寺式伽藍が採用され、それは安倍寺でも採用された。
また、檜隈寺・坂田寺が特殊な伽藍配置をするのは、山間部の丘陵上という立地上の制約と、渡来系の氏寺ということが関係しよう。

 初期寺院の前半と後半
 このように初期寺院の伽藍配置をみると、吉備池廃寺・山田寺を境に変化がみられる。それ
まで百済式の伽藍が主流であるが、これ以降、法隆寺式などの伽藍が増える。
 四天王寺式(山田寺式)は、中門を入ると、まず塔があり、その奥に仏像を安置する金堂が配置される。
飛鳥寺もそうであるが、これは仏舎利を安置する塔を中心に据えた伽藍配置であり、明らかに金堂よりも優位なことを意味している。
これに対して、吉備池廃寺ではじめて、金堂と塔が東西に併存する法隆寺式が現れる。
これは中門から入ると、塔と金堂が同時に見えることから、両者が同格になったことを意味している。
中門が金堂・塔前に二つ推定される(奈文研2006)のは、塔・金堂の両方を重視する画度期か。
さらに次の川原寺式伽藍配置になると、東西に塔と西金堂が併置されるが、さらに正面奥に中金堂を配置する一塔二金堂式となる。
これにより、塔よりも金堂の優位性が高くなったことを示唆している。
 このように伽藍の中心施設が、塔→塔・金堂→金堂への変化が読み取れる。
このような変化は、吉備池廃寺・山田寺あたりを境にみられる。
吉備池廃寺は百済大寺と考えられており、舒明天皇が舒明11年(639)に発願した寺院である。
一方の山田寺は蘇我倉山田石川麻呂が舒明13年(641)に発願した寺院である。
この時に伽藍配置も決められたと考えられるが、この2年の差は誤差の範囲内とみることもできよう。
あるいは天皇発願の吉備池廃寺が先行して、新しい伽藍配置を導入したとも考えられる。
いずれにしても、舒明朝末年に寺院の意識が変わったことを示唆する。
このことは、瓦当文様でも追認でき、それまでの素弁蓮華文が単弁蓮華文軒丸瓦にかわるのも山田寺式瓦の出現からで、段顎の重弧紋の軒平瓦の出現もこの頃である(納谷2005)。
このように、伽藍配置や瓦文様の変化が、初期寺院の前半(第1期)と後半(第2期)を区分する画期となる。

 百済大寺の位置づけ
 先にみたように、新様式伽藍の登場や単弁軒丸瓦・段顎付軒平瓦の出現によって、初期寺院は前半と後半に区分できる。
その画期に位置づけられるのが、百済大寺(吉備池廃寺)である。
伽藍様式の変化は信仰対象の変化とリンクしているが、それだけでなく、吉備池廃寺は初めての天皇勅願寺院であることに最大の特色がある。
それまで、氏族に対して、君臣統合の象徴として天皇の為に寺院の建立を促していたが、天皇勅願寺の建立は、天皇が自ら国家のシンボルとして巨大な寺院を建立したのである。
そして、「西の民は宮を造り、東の民は寺を作る」(舒明11年(639)7月条)とあるように、東国の仕丁を動員したことからも、一氏族のレベルを超えたものであった。
それは九重塔にも代表される。九重塔は、北魏洛陽の永寧寺・百済益山の弥勒寺・新羅慶州の皇龍寺にも建てられた東アジアの国家寺院のスタンダードであった。
しかし、この段階では、国家のシンボルを意識しながらも、あくまでも天皇勅願寺の域を脱し得ず、その建立場所も、王都である飛鳥ではなかった。
国家が王都に造営する国家寺院とは一線が画される。この百済大寺の造営は、皇極天皇にも引き継がれており、造営は継続されている。
そして、百済大寺の法灯を受け継ぐものとして、大官大寺が王都における国家寺院へと確立していくのである。

 初期寺院の立地
 これらの初期寺院の立地には、ある特色がみられる。まず幹線道路沿いに寺院が配置されることである。
特に、阿部山田道沿いには、西から丈六南遺跡・軽寺・田中廃寺・和田廃寺・豊浦寺・飛鳥寺・奥山廃寺・山田寺と安倍寺が並ぶ。
これらの寺院は計画的に配置されているものではなく、氏族の本拠地にある居宅を寺院にしたり、あるいは居宅の隣接地に寺院を建立することに由来する。
このことは、「寺」のはじまりが、居宅に仏像を祀る、あるいは居宅内に仏堂を建てることに由来することからもつながる。
つまり、古道を中心に氏族は本拠を構えたことから、必然的に、寺院も古道沿いに並ぶことになったのである(大脇1997)。
 これとは別に、飛鳥南部の丘陵地域に寺院が造られる事例がある。坂田寺・立部寺・檜隈寺・呉原寺などである。
これらは鞍作氏・平田氏・檜隈氏・坂上氏と、いずれも渡来系氏族の寺院である。
坂田寺の奈良時代の伽藍については、傾斜のきつい斜面地を造成して整備しており、立部寺・檜隈寺・呉原寺などは丘陵上を平坦化して伽藍を造る。
特に、檜隈寺が建立された丘陵の隣の尾根上には檜前大田遺跡があり、檜隈氏の居宅と推定されている(明日香村2013)。
また、定林寺の南の尾根上にも平坦面がみられ、ここに定林寺の造営に関わった平田氏の居宅があった可能性がある。
いずれにしても、渡来系氏族の寺院は、丘陵部の尾根上に造営されることが多く、その立地故に、変則的な伽藍配置になったと考えられる。
このことは、渡来人が平野部ではなく、檜隈をはじめとした、丘陵部に移植させられたことが想定できよう。
 また、異例の立地としては吉備池廃寺がある。
ここは、古道からは一定の距離があり、幹線道路沿いとは言えない。また、先にみたような丘陵部ではなく、平地にあり、寺院の敷地としては広大な面積が確保できる。
吉備池廃寺の地は「百済」と呼ばれており、磐余にも近く、王権ゆかりの地でもある。
天皇の勅願寺であるがゆえ、このような好地を確保できたのであろう。

初期寺院と史料上の「寺」
 初期寺院において、伽藍建立以前の瓦を出土するものについては、前期・後期寺院に区分が可能となった。
ここでは、史料でみたように瓦を用いない仏堂などの「寺」と、その後に伽藍をもつ「寺院」の関係も検討する。
「小墾田家」は居宅に仏像を祀るとする(欽明13年(552)10月条)だけで、仏堂ではないと思われる。
これと小墾田寺と推定される奥山廃寺との関係が問題となるが、前期奥山廃寺は7世紀初頭の瓦葺仏殿で、時間的にも、建物構造的にも直接的には関係が認められない。
ただし、蘇我氏の居宅を後に寺院としたことは想定され、居宅内での宗教施設を基にして、後に居宅あるいは隣接地に奥山廃寺を建立したのであろうか。
 一方、「牟久原殿」は、居宅建物の一部あるいは建物を改修して、仏堂として、仏像を祀っている。
この牟久原殿は、豊浦寺の前身ともされるが、この豊浦寺は豊浦宮の跡地に建立されたことがわかっている。
豊浦宮については、崇峻天皇暗殺後1ヶ月後に即位遷宮していることから、蘇我氏の向原家(牟久原殿)を豊浦宮とした可能性が高い。
このことから、向原家→豊浦宮→豊浦寺の流れが考えられる。
「石川の宅の仏殿」(敏達13年(584)是歳条)は、仏像専用の建物に改修した可能性がある。
この推定地には石川廃寺があるが、発掘調査が進んでいないので、伽藍は明らかではない。
しかし、瓦から見る限り、7世紀後半の建立であり、石川の宅史料との時間的距離は大きい。
ただし、居宅をあるいはその隣接地を後に寺院にすることは可能である。
「桜井寺」は、牟久原の家を桜井に遷す。
翌年にこれを桜井道場としたとある(元興寺縁起)。
ここでも仏教の修行を行う建物(道場)があったことがわかる。
その場所は、豊浦寺の西方に推定される(相原2018)が、遺跡としては明確ではない。
その後に伽藍寺院として整備された痕跡も、現在の所みられない。
ただし、桜井寺は、豊浦寺の前身との史料(元興寺縁起)もあり、史料上錯綜している。
「坂田草堂」は、『扶桑略記』欽明13年(552)10月13日条に草堂に仏像を安置した記事がみられる。
坂田原に瓦を葺かない仏堂があったことになる。
坂田寺の創建は、瓦から見る限り7世紀初頭まで遡り、ここから伽藍が造営されていく(前期坂田寺)。
この草堂は、年代的には、前期坂田寺の前身となる草堂であった可能性は高い。
 このように7世紀の寺院に先行する「寺」(道場・草堂など)が、伽藍寺院の前身となる可能性は高い。
しかし、史料上の仏堂と、瓦を葺く仏堂(前期寺院)の関係であるが、これは明確ではない。
史料の記載年代と瓦の年代に一致するものがないからである。
当然史料に残らない「寺」もあったであろう。ここでの課題は瓦葺仏堂の「寺」である。
伽藍を持たない前期寺院が、瓦葺の「寺」であった可能性はのこされる。
これは、前期寺院の「仏堂」の発掘調査における解明が必要であろう。
ここでは、「寺」→「前期寺院」→「後期寺院」の変遷モデルを提示しておきたい。

 前期寺院の性格
 最後に、これまでの検討を踏まえて、前期寺院の性格について検討しておきたい。
ここまで前期寺院を伽藍を持たない瓦葺仏堂として、伽藍寺院建立の前身施設として、単独の仏堂であると推定してきた。
それは伽藍が整備されるよりも古い瓦が出土することから推定してきた。
しかし、このような事例は、他の可能性も推定される。
史料でみたように、居宅の一部に瓦葺仏堂を建てる場合である。
所謂、(一部)捨宅寺院である。氏寺は、居宅に隣接して建てることが多い。そのため、まず居宅内に仏堂を建て、その後、居宅を壊して、伽藍寺院を造営した可能性である。
 居宅内に瓦葺建物を建てる事例を示唆する成果がある。
蘇我馬子の居宅である嶋家に推定されている島庄遺跡では、方形池の中や周辺から花組瓦が出土している。を葺いた建物は確認
されていないが、嶋家に瓦葺建物が存在したと思われる(橿考研1974)。
また、蘇我蝦夷の居宅である豊浦家に推定される古宮遺跡でも花組・星組・雪組が出土している(奈文研1974・1976b)。
そして、甘樫丘東麓遺跡でも瓦が出土しており、やはり瓦葺建物の存在を示唆する。
こここで注目されるのは、これらの遺跡から出土した瓦が飛鳥寺・豊浦寺と同笵・同系の瓦であることである。
いずれも蘇我氏に関わる居宅・寺院であり、蘇我氏との密接な関係を示している(相原2016・清水2017)。
このように蘇我氏の邸宅内に瓦葺建物があった可能性は高く、それが仏教施設(仏堂)であった可能性もある。
さらに、先に紹介した難波長柄豊碕宮(前期難波宮)や斑鳩宮(法隆寺東院下層)・岡本宮(法起寺下層)でも瓦が出土しており、宮殿内に仏堂や仏教施設があった可能性も推定されている。
 このように居宅内に仏堂を建てた事例があり、居宅を捨宅して寺院を建立すると、前期・後期寺院の調査成果と同一の現象となる。
ここで問題となるのは、居宅をすべて廃して、寺院を建立するかである。
確かに、豊浦宮や斑鳩宮、岡本宮の跡地に、豊浦寺・法隆寺東院・法起寺を建立しているが、この場合、宮の主人が、そこに居なくなったケースである。
つまり、氏族の場合、居宅のすべてを寺院にするためには、別の場所に居を遷さなければならない。
この事例になりそうなのが、檜隈寺である。
檜隈寺では7世紀前半の瓦が出土するが、その隣接地で、竪穴建物が確認されている。
他の建物は未確認であるが、同一丘陵上に居宅があった可能性がある。
これに対して、7世紀後半の伽藍を建立する時期には、隣接する丘陵上(檜前大田遺跡)に居宅を構えている。
伽藍寺院を造営するために、隣接する丘陵に居宅を遷したとも考えられよう。
 このように、前期寺院には、二つの解釈が可能であるが、いずれとも決しがたい。
瓦の出土から前期寺院を推定しているだけで、その瓦に伴う建物が未確認だからである。
おそらく、個々の遺跡における詳細な検討が必要であろう。

[.総括−我が国おける仏教寺院の導入−
 本稿では、我が国における仏教寺院の導入を探るため、東アジア仏教の伝播や、我が国への仏教導入、飛鳥寺以前の仏教施設の実態、飛鳥寺の造営とその系譜、初期寺院の変遷などを整理してきた。
ここではこれらを段階的に再整理し、仏教寺院導入の意味を提示しておきたい。
 東アジアの仏教政策
 中国における仏教政策は、民衆の仏教信仰心を権力に取り込むことにより、統治の手段、国家形成の手法として、国策として導入された。さらに中国の影響力は大きく、周辺国を冊封し、中華を中心とした支配に進んでゆく。
これら中国をはじめ、その周辺諸国では、律令・漢字・仏教を共有する東アジア文化圏が形成され、国際交渉に仏教を利用してきた。
それは朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)も同様である。
第0期(538〜588)
 仏教公伝以降、飛鳥寺創建までの段階を、前史として第0期とする。この中で、倭国にも百済を通じて仏教が538年に公伝するが、飛鳥寺創建までの約50年間、仏教崇拝に対して、天皇は中立の立場にたち、公認はしなかった。
このことは百済が倭国を東アジア文化圏に取り込み、中国に対して優位にたとうとする意図とは反して、倭国には国家形成の指標としての、律令・漢字・仏教の認識が薄かったこと、そして仏教を受け入れる土壌が十分には成熟していなかったことによる。
結局、蘇我稲目にのみ、仏像と経典を託し、その後、崇仏・排仏は、蘇我・物部の武力抗争へと発展していく。
この間の「寺」は、居宅を増改築して仏教施設としたものであり、あくまでも個人的な仏教崇拝の段階であることがわかる。
第1期(589〜630年代)
 第1期は飛鳥寺創建を契機とする。
飛鳥寺が建立されると、推古2年2月1日条「三宝を興し隆えしむ」にあるように、推古天皇が仏教を公認し、仏教興隆の詔をだす。
そして「各君親の恩の為に、競ひて仏舎を造る」とあるように、氏族たちが競って寺院の造営をはじめた。
飛鳥寺の造営により、個人崇拝から氏族の崇拝へと変化し、同時に、寺院造営の最新の知識・技術が百済・高句麗からもたらされたのである。
しかし、この段階においても天皇自らが寺院を建立することはなかった。
寺院は氏族たちが天皇・先祖のために建立するものであり、権力者にとっては、君臣統合の象徴でもあった。
 この段階の寺院は、伽藍をもつ瓦葺建築となっている。
その伽藍配置は、塔を重視した直線の配置であり、百済様式の採用ともみられる。
飛鳥寺は高句麗の影響が強いものの、塔を中心とした伽藍であることは違いない。
しかし、伽藍の造営には、莫大な財源と時間が必要となる。
そのため、瓦葺仏堂ひとつを造るだけのもの(前期寺院)もあり、これは後に伽藍寺院(後期寺院)へと整備される。
第2期(640年代〜650年代)
 第2期は、百済大寺創建を契機とする。
舒明11年(639)、天皇勅願の寺院である百済大寺を発願する。
この段階において天皇が自ら寺院を発願し、その堂塔並びに伽藍規模は、それまでの寺院とは比較にならないほど大規模なものであった。
特に九重塔は、東アジアの国家寺院のスタンダードであった。
さらに、百済大寺建立にあたり、東国の労働力が動員された。
それまでの氏族による寺院造営だけでなく、天皇の寺造営に仕丁に通じる労働力が動員された点においても画期的であった。
舒明天皇は、東アジアに通じる寺院の創建を目指したのである。
国家の統治に、東アジア宗教である仏教を積極的に導入しようとした。
しかし、百済大寺は都の寺ではなく、まだ、国家の首都寺院とはなっていない。
この時期を境に、法隆寺式伽藍配置が出現する。
これは、塔と金堂が対等の位置づけになったことを表す。寺院の崇拝対象が仏舎利から仏像へと移ってきたのである。
また、軒丸瓦文様が、素弁から単弁への変化、段顎の軒平瓦の出現もこの頃にあたる。
その先駆けとなったのが百済大寺であった。
 これ以降、第3期(660年代〜670年代)、第4期(680年代〜730年代)と続き、仏教伝来→飛鳥寺→百済大寺→川原寺→条坊寺院に、それぞれの画期を認められるが、これについては別稿にて検討したい。

 飛鳥寺創建の意義
 飛鳥寺は、我が国はじめての本格的伽藍をもつ寺院である。
これを契機として、仏教を天皇が公認し、氏族に対しても仏教興隆の詔をだしている。
これは仏教寺院を君臣統合の象徴とし、氏族に対して建立を促したものである。
しかし、この段階では、東アジア文化圏における倭国の寺院としての位置づけまではできていない。
 この仏教という最新の文化と同時に、最新の建築技術も導入されることになった。
基壇上の礎石建築、瓦葺建物など、我が国にはまだなかった技術である。
これらの技術を先導する師匠が来日し、これに師従する職人が育成され、その後の寺院造営の基礎となった。
これらの技術や知識は、直接的には百済と高句麗からもたらされ、飛鳥寺も両国からの僧侶が居住していたのである。
これらは、発掘成果からも追認できる。瓦文様・建築様式・塔埋納品などは、百済に近く、伽藍配置は高句麗式である。
さらに仏教も中国から朝鮮半島を経てもたらされた。
それに加えて、古墳時代からの流れを組むものも含まれている。
飛鳥寺の創建は、当時の国際交流を明瞭に表し、日本の伝統と外来文化の融合をここにみることができる。
 そして、飛鳥寺の創建は、その後の飛鳥の都市形成においても重要な定点となっていた。
飛鳥寺の場所は、龍門山地・多武峰と甘樫丘に囲まれた小さな盆地状の、北の狭まった入口にあたる。
なぜ盆地の中央ではなかったのか、それには二つの理由が推定される。
ひとつは古道「古山田道」に南接した場所であることである。
古道に面して居宅を配し、寺院を造営するが、飛
鳥寺に北接して小墾田宮も造営される(相原2013)。古山田道沿いに、飛鳥寺が造られたことにより、王宮も隣接して造営されたのである。
もうひとつは、当時、飛鳥寺南方は未開の地であったが、舒明朝以降、そこには王宮(飛鳥宮)が継続して建てられる。
つまり、飛鳥寺を盆地の入口に配置することにより、飛鳥盆地が強固な要塞と化し、飛鳥宮の地が一等地の空間になるのである。
 このように飛鳥寺の創建には、様々な意義がある。
斉明〜天武朝になると、飛鳥寺西地域(石神・水落・飛鳥寺西方遺跡)では化外民に対する服属儀礼や饗宴など、饗給の空間となった。
それは時を告げる漏刻も、時間を支配することにより、夷狄を服属させる意味をもち、須弥山も天下の中心を示す象徴であった。
ここは天下を治める飛鳥の中心と位置づけられたのである(相原2014)。
この意味でも君臣統合の象徴でもある飛鳥寺が、この地に創建された意義は大きい。

-----「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」---終---




飛鳥の古代寺院概要(一覧)

飛鳥の古代寺院一覧
2022/05/28追加:
参考文献:
○「飛鳥・藤原京の謎を掘る」千田稔・金子裕之、文英堂、2000.3 等

飛鳥の古代寺院一覧
寺院 法号・別名・推定寺院名 創建年次/発願・造営氏族など 所在 備考
1 飛鳥寺 法興寺・元興寺・法満寺・安居院 崇峻元年(588)創建・蘇我馬子 日本最初の本格寺院
2 豊浦寺 建興寺・向原寺・豊浦尼寺 推古11年(603)創建?・蘇我毛人 日本最初の精舎の跡・最初の尼寺
3 坂田寺 金剛寺・坂田尼寺 推古17年(609)創建?・鞍作鳥
4 和田廃寺 葛木寺・葛城尼寺 推古17年(609)創建?・葛城氏? 大野丘北塔跡との伝承
5 奥山廃寺 小治田寺 7世紀第1四半期創建・小墾田氏? 明日香村奥山
6 立部寺 定林寺 7世紀第1四半期創建・平田氏?
7 檜隈寺 道興寺 7世紀第1四半期創建・東漢氏 渡来人(倭漢氏)の建立
8 日向寺 八口寺? 7世紀第1四半期創建・箭口氏? 聖徳太子建立と伝える。
9 軽寺 法輪寺・駕籠寺・加留寺 7世紀第2四半期創建・高向玄理?・軽忌寸 法輪寺本堂下の土壇が金堂跡と推定される。
10 田中廃寺 7世紀第2四半期創建・田中臣(蘇我氏系)
11 大窪寺 7世紀第2四半期創建・大窪史
12 吉備池廃寺 百済大寺 舒明11年(639)?・舒明天皇 1997年巨大な堂塔遺構発掘・百濟大寺とされる。
13 木之本廃寺 7世紀第2四半期創建 高市大寺跡の候補地である。
14 呉原寺 竹林寺・栗原(くりはら)寺 7世紀第2四半期創建・呉原氏
15 山田寺 浄土寺 舒明13年(641)創建・蘇我倉山田石川麻呂 日本最古の木造建築出土
16 安倍寺 崇敬寺 7世紀中葉創建・安倍倉梯麻呂?
17 橘寺 菩提寺・橘尼寺 7世紀第3四半期創建 聖徳太子の生誕地の伝承
18 川原寺 弘福寺 7世紀第3四半期創建・天智天皇 天皇家創建の大寺
19 小山廃寺 紀寺? 7世紀第3四半期創建・紀氏?
20 雷廃寺 火雷寺? 7世紀第3四半期創建
21 浦坊廃寺 ウラン坊・石川精舎・厩坂寺? 7世紀第3四半期創建
22 丈六南遺跡 7世紀第3四半期創建
23 大井寺 7世紀第3四半期創建
24 膳夫寺 7世紀第4四半期創建・膳臣摩漏?
25 高田廃寺 7世紀第4四半期創建・高田首新家?
26 本薬師寺 天武9年(680)・天武/持統天皇
27 久米寺 7世紀第4四半期創建・久米氏
28 香久山寺 興善寺 7世紀第4四半期創建
29 大官大寺 7世紀第4四半期創建
30 八木廃寺 7世紀第4四半期創建・八木氏(楊貴氏)
31 岡寺 龍蓋寺 8世紀第1四半期創建
32 青木廃寺 青木千坊 8世紀第1四半期創建
 出典;大脇潔「倭京・新益京城の寺一覧」:「新益京の建設」(「古代の日本6・近畿U」角川書店、1991 所収)
   「日本書紀」天武天皇9年(680)5月条には京内に24ヶ寺があったという。
   1〜25の寺院は京内24ヶ寺の項補である。
 7世紀後半の飛鳥の五大寺:大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦尼寺・坂田尼寺
 飛鳥の三大寺:大官大寺・飛鳥寺・川原寺
 藤原京の四大寺:大安寺(大官大寺)・薬師寺(本薬師寺)・元興寺(飛鳥寺)・弘福寺(川原寺)

2022/05/28追加:
藤原京と周辺の遺蹟
参考文献:
○「なるほど!「藤原京」100のなぞ」橿原市教育委員会等、柳原出版、2012.3 より

    藤原京と周辺の遺蹟:下図拡大図

  

なお、「岩波 日本史辞典」岩波書店、1999 では
藤原宮跡の北西すぐ北の地点を「醍醐廃寺」、丈六南遺跡を「厩坂寺」として表示する。


2022/06/14追加:
飛鳥・藤原地域古代寺院分布図
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より

  飛鳥・藤原地域古代寺院分布図:下図拡大図

  

2022/06/29追加:
○京内廿四寺
「日本書紀」天武9年(680)5月乙亥朔条に「京内廿四寺に施等を施す」とある。
京内廿四寺とはどの寺院か、「京」とはどの範囲を想定するのか、京内廿四寺であるかどうかの判断は本薬師寺の創建より「古い」ということがが一つの基準となし得るであろうが、では本薬師寺の創建とは一体いつであるのはなど課題は多い。
これらは今後の待つとして、本論文は、「ともかくも飛鳥の主要寺院についての基礎資料を提供することで、本稿の責をぬぐいたい」という結論である。


2022/06/17追加:
飛鳥・大安寺前身寺院群

  大安寺前身寺院群
:下図拡大図

  

2022/06/29追加:
京内廿四寺
「日本書紀」天武9年(680)5月乙亥朔条に「京内廿四寺に施等を施す」とある。
京内廿四寺とはどの寺院か、「京」とはどの範囲を想定するのか、京内廿四寺であるかどうかの判断は本薬師寺の創建より「古い」ということがが一つの基準となし得るであろうが、では本薬師寺の創建とは一体いつであるのはなど課題は多い。これらは今後の待つとして、本論文は、「ともかくも飛鳥の主要寺院についての基礎資料を提供することで、本稿の責をぬぐいたい」ということである。


2022/11/10追加:
○2022/05/22撮影:
 藤原京跡模型:橿原市藤原京資料館に展示




飛 鳥 の 寺 院 ・ 塔 跡

 ※以下、「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収)などの論考で飛鳥時代の軒瓦の形式への言及がある。
その場合、上に掲載した「飛鳥時代の軒瓦形式」の参照を請う。


大和粟原寺跡(史跡)

 天満神社境内背後(南)に、塔・金堂跡が残存する。(桜井市粟原)
江戸中期、談山妙楽寺の宝庫から発見された「粟原寺三重塔露盤の伏鉢銘」(国宝・談山神社蔵)によると、当寺は仲臣朝臣大嶋が草壁皇子を偲び創立を誓願したが果さず没する。そこで比売朝臣額田が持続天皇8年(694)から元明天皇和銅8年(715)にかけてこの地に伽藍を建て、丈六釈迦仏像を鋳、金堂に安置する。また三重の塔を起し、草壁皇子とともに発願者大嶋の冥福をもあわせて祈ったとされる。中臣氏は鎌足一族であるが、藤原氏の姓は鎌足の直系のみが受け継ぎ、傍系の中臣氏は神祇伯として元姓を名乗る。
○塔跡には四天柱、側柱礎石(径約90cm内外の自然石・一部柱座の加工の痕跡もある)を完存し、大小2個の心礎が置かれる。2個のうち心礎(小)が四天柱礎の中央に置かれ、心礎(大)は心礎(小)脇に置かれる。
心礎(大)は1.8×1.67×1,2mの大きさで、中央に径82×3.6cmの円穴を彫り、1本の排水溝も彫る。この排水溝は円穴底の深さで、その意味で完全に排水溝の役割を果たす。
心礎(小)は割られていて、凡そ半分のものと1/4弱の大きさのものが残り、残りの1/4は欠失。
凡そ径60×15cmの円穴がある。心礎(大)に比べて格段に小さいものである。
○「日本の木造塔跡」:
 2個の心礎の関係については、研究結果によれば、心礎(大)は塔退転後一度礼拝所の台石として持ち出され、その後の塔再興にあたり、現在の心礎(小)が置かれたと思われる。さらに心礎(大)は再び元位置に戻されたが、塔跡ではなく、一段上の十三重塔の台石に転用されたのであろうということになっている。
以上が事実であれば、心礎(大)が本来の塔心礎で、心礎(小)はその後の再興塔心礎と解釈される。 <なお心礎(大)は現在の十三重塔のある金堂跡にあったと思われるが、現在は塔跡の現位置に移されたものと思われる。>塔1辺は約6m強と推定される。
2017/04/04追加:
○「大和の古代寺院をめぐる」網干善教 より
 上田三平氏の「奈良県に於ける指定史蹟 第2冊」昭和3年の「塔跡について」では最近判明した重要な事実として塔の中央よりやや偏して一個の石材があり「従来之を以て塔の心礎と見ていたが近年傍らにあった記念碑の台石を転倒してその表面を検し、初めて完全な心礎の存在を確かた。」とある。
即ち、従来心礎といわれていたものが心礎でなく、記念碑の台石をひっくり返して調べたところ、この方が心礎であったことを確かめたと。
2004/11/14撮影:
 大和粟原廃寺塔跡1     大和粟原廃寺塔跡2  
 大和粟原廃寺心礎(大)1  大和粟原廃寺心礎(大)2  大和粟原廃寺心礎(大)3  大和粟原廃寺心礎(大)4
 大和粟原廃寺心礎(大)5
 大和栗原廃寺心礎(小)四天柱礎    大和粟原廃寺心礎(小)2    大和粟原廃寺心礎(小)3    和粟原廃寺心礎(小)4
 大和粟原廃寺心礎(小)5
 大和粟原廃寺塔礎石1    大和粟原廃寺塔礎石2    大和粟原廃寺塔礎石3    大和粟原廃寺塔礎石4
 金堂跡は塔跡西の一段上にあり、十三重石塔と礎石が数個残る。
この石塔は「鶴の子の塔」と称し、鎌倉後期の作とされ、明治22年大宇陀町半坂に至る半坂道にあったものを、移設したと云う。
 大和粟原廃寺十三重石塔
 また塔跡東の一段低い平坦地に、金堂跡北西の竹薮等から出土した多数の礎石が並べられる。礎石は、円柱座・地覆座を連結した形式のものが多く、かなり精巧な礎石である。
 大和粟原廃寺礎石1   大和粟原廃寺礎石2   大和粟原廃寺礎石3   大和粟原廃寺礎石4    大和粟原廃寺礎石5
塔跡には石碑と役行者石像と石灯篭2期があり、石碑には「奉修(?)行両峯三百卅三度為現(?)當増益也」(寛政10年)と刻まれ、役行者台石には「大峯山上」(文政7年)とあり、これが近世の粟原寺のものとすると、江戸後期にも何らかの修験の活動拠点であったことも考えられる。
  同 石碑・役行者石像
寺跡は標高260m辺りのかなり急斜面地(北向斜面)にあり、大寺院があったとは思えない場所である。しかし三重塔跡真北に大門、すぐ南の檀上の畑に塔ノ上、さらに南に鐘ツキ堂の字を残し、塔跡北には大門の字があることから、北面していたと思われる。
 粟原寺旧仏と伝える仏像がかなり多く残存する。粟原寺は流失したことがある(時期不明)と伝えられ、その折当寺の仏像(「粟原流れ」といわれる)は近隣に移されたと云われる。桜井大願寺本尊、桜井来迎寺本尊木造地蔵菩薩立像、桜井外山(とび)報恩寺本尊、桜井興善寺毘沙門天像・薬師如来座像、石井寺薬師三尊石仏、遠くは信濃清水寺地蔵菩薩座像などが粟原寺旧仏とされる。いずれも国重文指定。
2007/01/31追加:
○「大和の古塔」 より
 塔跡と金堂跡の遺跡を残し、塔跡は礎石を完存する。塔跡には今土壇はないが方約20尺、脇柱礎は薄く柱座を彫り出し方3尺程度の自然石で、四天柱礎はただ表面を均した程度のもの、心礎は約1/4を欠損、径2尺4寸深さ5寸程度の心柱座が彫り凹めてある。
但し、心礎については今塔跡にもう一つ置かれているのが本来の心礎であるという説もある。その心礎は長5尺8寸ほどで、径2尺7寸7分深さ1寸2分の心柱座及び水抜き溝を持つ巨大な礎石である。しかしこの柱座径はこの塔の心礎として大きすぎ、また原位置にある礎石をわざわざ否定することもないであろう。
 粟原寺址実測図  粟原寺塔心礎(実測図)
◆粟原寺不鉢【国宝】
 粟原寺伏鉢(談山妙楽寺蔵・国宝):上径1尺5寸、下径2尺5寸、高1尺1寸4分。鋳銅鍍金。
塔は和銅8年竣工、三重宝塔七科露盤とは七輪の宝輪を持った塔であった。
 粟原寺塔伏鉢拓本
 2020/06/30追加:
 ○「多武峯 談山神社」談山神社、発行年不記載 より
  粟原寺塔伏鉢・銘文
 2025/09/23追加:
 ○「奈良国立博物館開館130年記念特別展 超 国宝ー祈りのかがやきー」奈良国立博物館、2025 より
  大和国粟原寺三重塔伏鉢     大和国粟原寺三重塔伏鉢部分     大和国粟原寺三重塔伏鉢銘文
 大意は、持統天皇(大倭國浄美原宮治天下天皇)の御代、中臣朝臣大嶋が草壁皇子(日並御宇東宮)の冥福を祈って発願したもので、
 大嶋の没後は比賣朝臣額田が事業を継承し、申午年(持統天皇8年/694)から和銅8年(715)まで22年の歳月を費やし
 丈六の釈迦像を祀る金堂及び三重塔を造る、というものである。
 銘文の最後は、草壁皇子・大嶋の菩提を祈る願文である。

大和安倍寺跡(史跡)

2026/01/03追加:
○「阿倍野区歴史講座 古図会、古地図などから見る阿倍野等の歴史」阿倍野区生涯学習推進会議、2008.3 より
第2回 古図会、古地図などから見る阿倍野等の歴史(その二)>
2.阿倍寺摂津阿倍寺を示す。
 ※残念ながら、この項(2.阿倍寺)の著者の記載がなく、著者は不明である。
 (摂津阿倍野に所在する)阿倍寺は大化の改新の頃、功績を挙げた阿倍内麻呂(左大臣まで昇進)をはじめとする阿倍氏一族の寺である。
阿倍氏の本貫地は大和桜井であり、大和桜井の阿倍寺(跡)も阿倍氏の氏寺であり、どちらも7世紀後半の建立とされる。
但し、伽藍配置は大和阿倍寺は法隆寺式であり、摂津阿倍寺は古式な四天王寺式配置である。おそらく摂津は北約1」kmに四天王寺があり、相互に影響を与えた可能性がある。

 桜井の阿倍寺も退転し、「仲麿屋敷」と称する方形の土壇(方12m)が塔跡で、東方の土壇が金堂跡(23×18m)、北方の土壇(未調査)が講堂であろうとされる。
 昭和42年の発掘で、中門、塔、金堂跡が判明し、法隆寺式の伽藍配置とされる。
当寺は孝徳天皇勅願あるいは阿倍倉橋麻呂の創建と伝えられる。創建時のものと思われる「山田寺式軒瓦」/単弁蓮華文の軒丸瓦等が出土していることなどから、山田寺の創建時代(641-685)とほぼ同時期に建立されたものと推定される。
現状は史蹟公園として整備され、塔および金堂土壇が復元されている。塔跡には隅柱礎石が一個残されているのみである。
○「飛鳥時代寺院址の研究」 より
 安倍寺塔址実測図
○2002/03/28撮影:
 安倍寺塔跡土壇1     安倍寺塔跡土壇2     安倍寺塔隅礎石
○2017/03/09撮影:
昭和42年の塔跡の発掘では基壇は版築であること、基壇規模は一辺約12.1mであることが確認され、基壇中央で基壇上面から2.25mほど下に心礎のための根石や東南隅の隅柱礎の抜取穴を検出する。
 ※2002年撮影の安倍寺塔隅礎石は浮遊した礎石なのか、それとも推定復元礎石なのかは不明。
 史蹟安倍寺跡石碑     安倍寺塔跡土壇3     安倍寺塔跡土壇4     安倍寺塔跡土壇5
 安倍寺金堂跡土壇1     安倍寺金堂跡土壇2    安倍寺西回廊趾土壇1    安倍寺西回廊趾土壇2
○2021/03/15撮影:
伽藍は南面する法隆寺式であり、北方に未調査であるが講堂跡と推定される土壇が残るという。
 安倍寺塔跡土壇6     安倍寺塔跡遺存礎石2
 安倍寺金堂跡土壇3     安倍寺西回廊趾土壇3     安倍寺西回廊趾土壇4
2021/04/28追加:
○「磐余・多武峰の道」金本朝一、綜文館、昭和52年 より
 *安倍寺跡
塔跡:
西辺中央部に「仲麻呂屋敷」と呼ばれる一辺11mのほぼ正方形の土壇があり、高さ約1mの壇上に礎石も残っていたが、売られて現在1個だけ残る。
講堂・金堂跡:
塔跡の北東にやや隆起したところがあるが、講堂跡と推定され、古瓦も散見され、礎石もあったという。
塔跡の西にある土壇が金堂跡と考えられ、この付近から礎石を掘り出しているが、すぐ前の中西正光氏の庭に造り出しのある伽藍石がある。
この塔と金堂を囲んだ東西94m、南北56mの回廊趾が確認されている。
由緒:
「和州舊蹟幽考」では安倍山崇敬寺と号し、・・大化年中の建立・・・
文殊堂は・・・奥州永井・丹後切戸・和州安倍山、本朝三文殊大士として信仰あらざるはなし・・・
 ※奥州永井とは出羽東置賜郡高畑町松高山大聖寺
「東大寺要録」巻六 では、崇敬寺は字を安倍寺といい、安倍倉橋大臣の建立である・・・
「拾芥抄」延文5年(1360)では1.東大寺、2.興福寺、3.元興寺、4.大安寺、5.薬師寺、6.西大寺、7.法隆寺、8.新薬師寺、9.大后寺、10.不退寺、11.法華寺、12.超澄寺、13.龍興寺、14.招提寺、15.宗鏡寺(安倍寺)の15大寺に数えられる。
永正元年(1504)多武峰の僧徒が押し寄せ、安倍寺を焼き払う。
永禄6年(1563)松永久秀の兵乱で伽藍焼失、その後、安倍寺は廃絶したようである。
しかし、その伝統は別所(現在の文殊院)に引き継がれる。
 *文殊院
元亀2年(1571)別所の文殊堂再興、文殊像などを奉安。
寛文5年(1665)現在の本堂と礼堂を建立。
享保年中、13院がある。金藏院・千手院・福智院が知られるが、中院・観音院・惣持院・照明院は退転という。
庫裡はもと大御輪寺の書院であり、明治17年に移建したもので、桃山期の遺構である。
本尊文殊菩薩は本尊銘文や胎内納入文書から快慶作とされる。
釋迦如来三尊像はもと多武峰妙楽寺講堂の本尊であったという。
2022/06/23追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
15.安倍寺
「東大寺要録」末寺章に「崇敬寺、字安倍寺、右安倍倉橋大臣建立也」とある。
大化元年(645)僧道昭建立との伝えもあるが、道昭の帰朝は斉明7年(661)と考えられるので、信を置くことはできない。
 ※現在の安倍文殊院のサイトでは、「大化元年(645)安倍倉梯麻呂が創建した安倍寺(崇敬寺)は、現在の寺の南西約300mの地に法隆寺式伽藍配置による大寺院として栄えていました。(東大寺要録末寺章)」と記載している。
 ※「東大寺要録」では崇敬寺(安倍寺)の建立年紀の記載はなし。
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
安倍寺(崇敬寺)
 安倍寺は上ッ道の西に接するところに位置する。
『東大寺要録』に「崇敬寺、宇安倍寺、右安倍倉橋大臣建立也」とあり、寺号を崇敬寺で、阿部倉梯麻呂の建立である。
一方、大化元年(645)に僧道昭が建立したとする伝承もあるが、道昭の帰国は斉明7年(661)なので、時期が合わない。
 発掘調査によると、金堂・塔と北面及び西面回廊の一部が確認されており、法隆寺式伽藍配置と推定される。ただし、清水真一氏は、西面する四天王寺式伽藍配置を想定している(清水1994)。
各堂塔の所用瓦の詳細は明らかではないが、最も古いのは7世紀中頃の山田寺式瓦が出土していることから、この頃の創建とみられる(桜井市1970)。

参考:安倍文殊院
大化元年(645)阿倍倉橋麻呂、現在の安倍寺跡に安倍寺(崇敬寺)を創建する。(「東大寺要録末寺章」)
鎌倉期、現在の安倍文殊院の地に移転するという。
永禄6年(1563)松永久秀の兵火により、全山焼失、現伽藍はその後の再興になる。
なを、
多武峰妙楽寺講堂本尊阿弥陀三尊像、地蔵菩薩三尊像が明治の神仏分離で文殊院に遷座。
大和三輪大御輪寺客殿が同じく明治の神仏分離で移建され、文殊院旧庫裡として現存する。
2021/03/15撮影:
妙楽寺講堂本尊阿弥陀三尊像
 → 多武峰妙楽寺仏像の行方 を参照
妙楽寺地蔵菩薩三尊像
 → 多武峰妙楽寺仏像の行方 を参照
文殊院本尊渡海文殊菩薩像:国宝
 渡海文殊菩薩像1     渡海文殊菩薩像2
安倍文殊院諸伽藍
 安倍文殊院景観     文殊院釈迦堂     文殊院本堂:向かって左が旧庫裡で大和三輪大御輪寺客殿の遺構という。
 文殊院金閣浮御堂
 文殊院西古墳1:特別史跡     文殊院西古墳2     文殊院西古墳3     文殊院西古墳4
 文殊院東古墳1     文殊院東古墳2     文殊院東古墳3
文殊院白山権現:一間社流造唐破風付き、屋根杮葺。室町期の建築。重文。
 文殊院白山権現1     文殊院白山権現2     文殊院白山権現3     文殊院白山権現4     文殊院白山権現5
 文殊院白山権現6     文殊院白山権現7     文殊院白山権現8     文殊院白山権現9     文殊院白山権現10


桜井高田廃寺

Webサイトに「高田廃寺案内板」が掲載されている。
山田道の山田寺と安倍寺との間にあり、山田道東の山中(安倍寺跡南)にある。
高田廃寺案内板
『続日本紀』天平宝字7年(763)10月丁酉(28日)の条や、保延6年(1140)に大江親通が著した『七大寺巡礼私記』にみえる高田寺は、この地に所在する遺構であろうと推定されている。
寺跡は、塔跡と考えられている土壇がわずかに残る。付近には、破壊された礎石のほか、古瓦片が散布している。出土瓦の多くは、奈良時代前・後期の軒丸瓦・軒平瓦である。
2022/06/26追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
24.高田寺
 「続日本紀」などには高田氏に関する記事が散見される。高田寺の文言は「続日本紀」天平宝宇7年(763)の条に現れる。
下って平安期の「南都七大寺巡礼私記」では唐招提寺講堂の本尊金銅弥勒三尊像が元は高田寺の本尊であるとの伝えを記録する。
なお、高田廃寺は未発掘。


桜井青木廃寺

Webサイトに各種情報がある。
山田道の山田寺と安倍寺との間にあり、山田道西(青木山の山懐)にある。
「創建当時の瓦が出土している。この寺は奈良時代の悲劇の宰相だった長屋王が、父高市皇子の冥福を祈って建てたと大脇潔氏が考証した。
創建当初の瓦は、平城京内の長屋王邸跡で集中的に出土した瓦と同笵である」(桜井市教育委員会)。
説明板:
創建当時の瓦のほか、「延喜六年造檀越高階茂生」と陽刻する軒平瓦や「大工和仁部貞行」と陰刻した軒丸瓦が出土する。
この寺は長屋王が父高市皇子の冥福を祈って建立したと大脇潔が考証する。
なお、創建当初の瓦は、平城京内の長屋王邸跡で集中的に出土した瓦と同笵である。
「桜井市橋本地蔵ヶ谷に所在する。谷を堰き止めた池が三つ連なり、その最上部の古池」の東側丘陵尾根上を中心に築かれたとみられる。
山中に設けられた小規模な寺院であり、初期山岳寺院のひとつといってもよい。池西岸には「掛地蔵」をまつる小堂が立つ。
明治末年に土地所有者による発掘があり、平安時代の瓦が多く採取された。奈良県史蹟勝地調査会報告書第2回(1914)として水木要太郎による報告がある。そのうちに文字瓦があり、軒平瓦は三重の圏線で囲ったなかに逆文字で「延喜六年(906)造檀越高階茂生」と陽刻したもの。軒丸瓦は複弁五弁の蓮華文に鋸歯文縁が付き、銘文は鋸歯文の間にあり、「大工和仁部貞行」の陽刻がある。
その後の研究で、銘文の入る瓦は平安時代前期の寺の修理時に用いられたものであることが判明し、他に出土した瓦からみて、奈良前期に創建されたとみなされるようになった。軒平瓦中に長屋王邸所用のものの同笵例があることがわかっっており、創建にあたり高市皇子や長屋王との関係性が示唆される。
○伝青木廃寺出土瓦
奈良国立博物館のサイトに写真が公開されている。(奈良国立博物館蔵)
 伝青木廃寺軒丸瓦・白鳳期     伝青木廃寺軒丸瓦・奈良期     伝青木廃寺軒丸瓦・平安期

大和大井寺

2022/06/26追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
22.大井寺(大福廃寺)
 「日本書紀」天武元年(672)大海人皇子の軍勢に「大井寺の奴、名徳麻呂ら五人」が加わっていた。
天平18年頃、「大井寺一切経目録」を金光明寺写経所に発注する記事がある。(「大日本古文書」)
延久2年(1070)に「・・大仏供庄20町・・大井寺田2反、上22条5里18坪・・」の記述がある。(「興福寺大和国雑役免坪付帳」)
上22条5里18坪は現在の大福集落の北に接した地点に相当する。
大脇潔は、大福に寺田があることや、大福小学校校庭から発見された本薬師寺式瓦や周辺の小字から「大福廃寺」の存在を推定し、これを大井寺あるいは東大寺供料所の一つである「河原寺」に充てる説を提唱する。
一方、「和州旧跡幽考」などは田原本町蔵戸(旧川東村蔵堂)の守屋坐弥富郡都比賣神社の南方に大井寺を想定する。
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

大和吉備池廃寺

 大和吉備池廃寺(百済大寺)・大和高市大寺・大和大官大寺跡(文武朝大官大寺)・大和木之本廃寺
   ※吉備池廃寺はほぼ間違いなく百済大寺跡であろうと推定される。

2022/06/17追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
12.百濟大寺
沿革については →大和吉備池廃寺(百済大寺跡)・大和大官大寺跡(文武朝大官大寺)・大和木之本廃寺(上のリンク)
 なお、百濟大寺を飛鳥周辺以外に求める以外に広瀬郡に求める説もある。
その法灯を継ぐという広陵町百濟寺はその周辺の調査で古代に遡る遺構や遺物が確認できていないことから、賀久山周辺とするのが妥当であろう。

大和膳夫寺(かしわてでら)

2002/04/20撮影:
 大和膳夫寺礎石
2008/05/29追加:大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
現在の香具山小学校敷地から多くの古瓦を出土し、附近には「古塔」の地名を残す。これは膳夫寺の跡であろう。膳夫寺は聖徳太子妃膳夫姫が養母巨勢女の菩提のため建立と云う。(「太子伝撰集抄別要巻」「和州寺社記」)今ここに膳夫山保寿院一宇(本尊虚空蔵)が残り、俗に二階堂と云う。
古瓦から見れば白鳳期創建で平安期まで寺運を維持する。鎌倉期には興福寺領となり、後には多武峰領となる。
「膳夫庄差図」(永正12年・多武峰蔵)には、この一帯に「タウノダン、コウトウ、カワラカマ・・」と記された地名がある。コウトウは今古塔と書くが金堂講堂で、タウノダンが塔跡であろう。
さて、三柱神社の神宮寺のような位置に保寿院(虚空蔵)1宇が残されているが、当境内に柱座を持つ礎石が2個残存する。その中の1個は径1尺9寸3分の2段式柱座を持ち、中央に径6寸5分深さ1寸7分の円孔を有する。
 多武峰蔵「膳夫庄差図」   膳夫寺跡附近図   膳夫寺礎石実測図
2022/06/26追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
23.膳夫寺
 膳夫町保寿院の境内には礎石があり、近辺に「タウノダン」「カウトウ」「カハラカマ」などの字があり、さらに古瓦が出土するので寺院址とされる。
「興福寺大和国雑役免坪付帳」には「膳夫寺田5反、25条2里30坪3反、31坪2反」とあり、膳夫寺の跡とみられる。25条2里に膳夫集落がある。
膳夫寺に関する記録は殆どなく、創立の事情は不明。「太子伝撰集抄別要巻」などが厩戸皇子妃膳夫姫を建立者に擬すのは後の聖徳太子信仰のなせる付会で、安井芳太郎のいうように、膳臣の氏寺とするのが穏当であろう。
保寿院の東の膳夫小学校建設の事前調査で瓦が多量に出土するも、伽藍の復元には至っていない。
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

大和山田寺(特別史跡)

  現在心礎は地下にあり、実見することは出来ない。
○塔・金堂・講堂が南北に並ぶ伽藍配置であるが、講堂は回廊外に配置される。(山田寺式伽藍配置)
 昭和12年、興福寺東金堂本尊台座下から発見された金銅佛佛頭は、興福寺衆徒によって強奪された山田寺講堂本尊であったとされる。
さらに1982年の発掘調査では倒壊した東面回廊が発見され、 これは日本で最古の木造建築遺構とされる。
塔と金堂は12世紀後半に焼失し、講堂も12世紀末に焼失したと推定される。
 塔跡は一辺12mの土壇で四周の中央に幅3mの階段がある。心礎と西北の四天柱礎石が原位置にあるとされる。
昭和51年の発掘調査で心礎は地下1mで発見される。心礎の大きさは1.7×1.8m高さ84cmで、径30cm深さ3cmの蓋受孔 および径23cm深さ15cmの舎利孔を穿つ。塔の一辺は7.2mと判明。
2002/03/28撮影:
 飛鳥山田寺塔跡       飛鳥山田寺復原図       飛鳥山田寺塔復原図
2007/01/31追加:
○「大和の古塔」昭和18年 より:
 塔跡は水田より高さ約2尺の土壇で東西約27尺南北約22尺あり、壇上には中央に5尺×5尺4寸程の大きさで3つに割れた心礎とその西北5,6寸離れて今1個の礎石を残す。
心礎は保井芳太郎氏の調査では、明治41・2年頃発掘して上部を割りその下半が残されたもので、上半には径2尺深さ1寸の柱座を彫り凹め、その中央に径6寸深さ3寸の舎利穴蓋と径2寸深さ1寸の舎利穴があったと云い、西北の礎石は後に任意に埋め置かれたものと云う。
2011/08/16追加:
○「新版 飛鳥」門脇禎二、NHKブックス305.昭和52
 「昭和51年発掘調査・・・、これまで塔心礎のところにあった石の下から心礎が発見」される。
○2007/01/31追加:
 大和山田寺心礎:発掘心礎
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院、1978.8 より
 大和山田寺心礎2:発掘心礎
2009/03/08追加:
○「山田寺展」奈良国立文化財研究所飛鳥資料館、1981 より
 昭和51〜54年に発掘調査、伽藍配置は一塔と一金堂を南北に直線に並べ、これを回廊で囲み、回廊南に中門を置き、回廊からやや離れてて講堂を配置するものであった。四天王寺式ではなく、飛鳥寺式から東西金堂を省略した配置であった。
 (同時代の橘寺<軸は東西>と同一とされる。)
講堂は8×4間と復原される。
塔基壇では、北西の四天柱礎石1個(径約1mの柱座を持つ)が原位置に残る。
基壇中央には4つに割れた礎石が裏返しに置かれていたが、これは後世の所業であった。当初の心礎は約1m地下から発掘された。
 ※上掲載の「大和の古塔」 昭和18年での、保井芳太郎氏報告の心礎は後世地表に置かれた礎石を報告したものであろう。
金堂土壇には2個の礎石と13個の礎石抜取穴を発掘、その結果金堂は特異な構造を持つ建築であると判明した。その構造は身舎および庇とも桁行3間・梁間2間の特殊な構造であり、これは伊賀夏見廃寺の構造と同一であるとされる。
 大和山田寺心礎:南から
 大和山田寺塔遺構1:西から     大和山田寺塔遺構2:南から     大和山田寺塔遺構3:東から
 山田寺塔平面復原図
山田寺は中世に当初伽藍が廃絶し、伽藍地は次第に耕地となり、水田の中に塔と金堂の土壇と講堂跡に江戸期に建てられた小宇を残すのみになる。土壇は幾度も耕作されたが強固な基壇はその姿を留め、明治初頭には礎石もほぼ完存したという。
明治37年高橋健自は「古刹の遺址」(「考古界」第4編第1号所収)で「土壇の崩され、礎石の失われしは比較的近年のこと」との聞き取りを載せ、附図では金堂跡に12個の礎石の現存を記す。
 高橋健自報告附図:明治37年
次いで大正6年には天沼俊一の報告(「奈良県史蹟勝地調査会報告書」第4冊)がある。講堂礎石から講堂は7×4間と復原、金堂跡には2個の礎石が残るのみ。
 天沼俊一報告附図:大正6年
2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
心礎は基壇上面から1mの所にあり、大きさは1.7×1.8m、舎利孔は2段で、蓋受孔は径30cm深さ3cm、下段は径23cm深さ15cmである。中には朱を塗った痕跡がある。
 大和山田寺心礎2
舎利容器は現存しないが、「上宮聖徳法王帝説」に舎利容器の詳細な記録が残る。
「・・・塔の心柱を建てたり。其の柱の礎の中に円き孔を作りて浄土寺と刻めり。其の中に蓋ある大鋎一口を置き、内に種々の珠玉を盛れり、其の中に金を塗れり壷あり、壷の中に亦種々の珠玉を盛れり、其の中に銀の壷あり、壷の中内に純金の壷あり、其の内に青玉の玉の瓶あり、其の中に舎利八粒納めたり」
○2011/08/16追加:
 山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の発願によって建立される。
蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏一族で、祖父は蘇我馬子、伯父は蘇我蝦夷、従兄弟には蘇我入鹿にあたる。
しかし石川麻呂は蘇我本宗家(蝦夷・入鹿)とは敵対し、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らと謀り、皇極天皇4年(645)乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)に加担し、石川麻呂は右大臣に任ぜられる。
大化5年(649)蘇我日向(石川麻呂の異母弟)は、石川麻呂に謀反の意図ありと中大兄皇子に密告する。そのため、孝徳天皇の追討軍が差し向けられ、山田寺で自害し果てる。(「日本書記」)
真相は不明ながら、石川麻呂は冤罪であるとの説も広く流布するが、権力闘争には正義などないのが本当のところであろう。
「上宮聖徳法王帝説」裏書には、以上の事件により、造営途中であった山田寺建立は中断するも、天智天皇2年(663)塔の造立が始められ、天武天皇5年(676)「相輪を上げる」とあり、石川麻呂の死後、塔の完成を見る。
天武天皇14年(685)講堂本尊丈六薬師如来像が開眼される。(この丈六仏像は頭部のみが興福寺に現存、国宝に指定される。)
平安期には伽藍は健在である記録が残るも、中世には多武峰の末寺となり、興福寺と多武峰との抗争などで荒廃する。
明治の廃仏毀釈の煽りで廃寺、明治25年再興、現在は小宇のみ残るも無住。
○「新版・古代の日本 6 近畿U」坪井清足・平野邦雄、角川書店、1991 より
 大和山田寺金堂跡発掘     大和山田寺塔跡発掘
○山田寺模造心礎
奈文研/飛鳥資料館庭園に展示
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

2008/08/31撮影:
 大和山田寺模造心礎1     大和山田寺模造心礎2     大和山田寺模造心礎3     大和山田寺模造心礎4
 2017/03/09撮影:
  山田寺復元心礎5       山田寺復元心礎6        山田寺復元心礎7        山田寺復元心礎8
2017/03/09撮影:
 山田寺復元塔土壇1     山田寺復元塔土壇2     山田寺復元塔土壇3     山田寺復元塔土壇4
 山田寺復元塔/金堂土壇:東回廊から撮影、手前は東回廊礎石、向かって左が塔跡
 山田寺復原金堂土壇     山田寺講堂趾遺物1     山田寺講堂趾遺物2     山田寺講堂趾遺物3     山田寺講堂趾遺物4
 山田寺北回廊趾      山田寺東回廊趾1      山田寺東回廊趾2      山田寺東回廊趾礎石
 ◇奈文研/飛鳥資料館展示
 ・東回廊部材一式は重文、東回廊は単廊で23間(67m)あり、中央間に扉口を構える。回廊は東から西に向かって倒れ、地下水によって、腐朽を免れる。最古の木造建築とされる法隆寺西院伽藍より古い7世紀前半の建築部材である。
 山田寺東回廊部材11     山田寺東回廊部材12     山田寺東回廊部材13     山田寺東回廊部材14
 山田寺東回廊部材15     山田寺東回廊部材16     山田寺東回廊部材17     山田寺東回廊部材18
 山田寺東回廊部材19     山田寺東回廊部材20     山田寺東回廊部材21     山田寺東回廊部材22
 山田寺東回廊部材23     山田寺東回廊部材24     山田寺東回廊部材25
 山田寺跡出土風招:重文     出土隅木先飾金具1:重文     出土隅木先飾金具2:重文
 宝蔵附近出土銅板五尊像:重文      宝蔵附近出土銅製押出佛:重文
 山田寺仏頭1     山田寺仏頭2:南都興福寺東金堂蔵、複製
 金堂石階耳石の羽目石:重文      金堂跡出土地覆石:重文      山田寺出土品(礎石か?)
2017/01/19追加:
○百濟大寺式伽藍配置(百濟大寺式軒瓦)
吉備池廃寺が百濟大寺であるならば、将来は、現在の法隆寺式伽藍j配置は百濟大寺式伽藍配置と言い換えることになるかも知れない。
同様に山田寺式軒瓦は百濟大寺式軒瓦と言い換えることになるかも知れない。
 → 百濟大寺式伽藍配置(百濟大寺式軒瓦)
○2012/06/24追加:
 →京都北村美術館四君子苑に山田寺より移したと伝わる金堂礎石が残る。但し本当に山田寺から移したかどうかの確証はない。
もし山田寺の四天柱礎であるとすると、形状や過剰な装飾などから見て、後世に相当手程度の加工があったものと思われる。
2017/04/25追加:
○「山田寺発掘調査報告」2002 より
山田寺における戦前までの概要
 山田寺の廃址について、近世の地誌には特別の記載は見られないが、そのような中にあっても、天保21年(1841)蘇我倉山田石川麻呂の後裔と称する越前藩士の山田重貞が、この寺跡の一部に「雪冤の碑」(穂井田忠友撰文、菘翁貫名海屋筆、現存する。)を建てている。
このことからすれば、一部の識者には、山田寺の遺址のことも、それなりに知られてはいたのである。
 明治のはじめまでは、堂塔の跡には礎石が多く残っていたといわれる。
しかし明治8、9年頃、講堂跡に小学校を建てるため礎石が割られたり、明治21年には塔心礎が盗掘されるなど、遺跡は荒れるに任せられる。
 高橋健自が、明治37年(1904年)に寺跡を訪れた時、付近の住民から近年堂塔跡の土壇が崩され、礎石も持ち去られたことを聞く。
そこでは、高橋は塔、金堂、講堂とそれらを囲む南北に長い回廊などから、四天王寺に類似する伽藍配置であったことを指摘している。
 この当時まだ、金堂跡には12個の、講堂跡には13個の礎石が残っていたというが、大正のはじめには金堂の礎石はわずか 2個だけになる。その間、心ない人によって礎石は売却されたらしく、これらの礎石の一部は、めぐり巡って今、大阪藤田美術館の構内に保管されている。
 大正6年(1917)現地の状況を実測調査した天沼俊一は、その時点での伽藍の現況と講堂礎石の測量図を作製し、講堂については7×4間の建物であると指摘する。
 昭和10年(1935)史蹟名勝天然記念物法が施行されるとすぐに、山田寺は史蹟に指定さる。
翌年の昭和11年、上田三平は山田寺跡を訪れ、その時の現況図を「奈良県に於ける指定史蹟 第2冊」に記している。そして、そ中で講堂東北方の水田中から、かって礎石20個が発見されたとの伝聞を紹介し、そこに僧房の存在を推定する。
保井芳太郎は、塔土壇南方の門跡と思われるところから8個の礎石が発見されたことを紹介する。
石田茂作「飛鳥時代寺院址の研究」では、講堂の東西両脇に回廊が取り付くいわゆる「四天王寺」式の伽藍配置を初めて想定する。
昭和16年(1941)大岡実が講堂礎石の精度の高い実測図を「建築史」第3巻第2号に載せる。(以下略)
2022/06/23追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
14.山田寺
寺号、浄土寺。孝徳の代に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が発願する。
「上宮聖徳法王帝説裏書」に舒明13年(641)寺地の整理、皇極2年(643)金堂建立、大化4年(648)僧住、大化5年石川麻呂が害に遭い、造営は中断する。
天智2年(663)造営再会、塔を構え、天武2年(673)心柱立柱、心礎に浄土寺と刻み宝物を納める。天武5年(676)露盤を上げ、天武7年丈六仏鋳造、天武14年(685)仏眼供養。
「日本書紀」では大化5年(649)石川麻呂自害の時、仏殿の前で妻子8人と共に自経するという。
完成後、天武14年天武は浄土寺に行幸する。
○参考ながら、その後の山田寺の事績には次が知られる。
弘仁14年(823))護命が山田寺に隠棲する(「続日本後紀」)。
治安3年(1023)藤原道長が山田寺を訪れる(「扶桑略記」)。なお、発掘調査によれば、道長来訪から程なくして土砂崩れにより伽藍東側の回廊や宝蔵が埋没したと思われる。
嘉保3年(1096)多武峰寺末寺となっていたと考えられる(「多武峰略記」)。
「玉葉」(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187)興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、講堂本尊の薬師三尊像を強奪して興福寺東金堂の本尊に据えたという。
当時の興福寺は治承4年(1180)の平重衡の焼討で炎上、再建途中であった。
この薬師如来像は応永18年(1411)東金堂の火災の際に焼け落ち、焼け残った頭部だけが、その後新造された本尊像の台座内に格納されていた。この仏頭は昭和12年に再発見される。
なお、共に強奪された脇侍の日光菩薩・月光菩薩は興福寺東金堂に今も安置され、再興像の薬師如来像とともに重文指定。
発掘調査では金堂・塔・講堂が12世紀末に焼失した事が確認されており、この事件の際に焼き討ちされたと思われる。
さらに「興福寺略年代記」承久2年(1220)の条に「山田寺鐘西金堂引之」とあるといい、この時に収奪された鐘である可能性がある。
「鎌倉遺文」には、弘安2年(1279)に多武峰寺との間で寺領をめぐる争いが記録されているという。
発掘調査によれば、鎌倉期から室町期の瓦や、鐘を鋳造した痕跡が出土しており、講堂を中心に再興されたことがわかる。
なお、興福寺と刻する軒瓦が出土していることから、興福寺の末寺であったと思われる。
また、関連する遺物には次があると云われる。
現・山田寺には江戸期の紀年銘をもつ石碑などが残る。
隣接する東大谷日女命神社境内に山田寺境内にあったという石燈籠(永和元年/1375銘・重文)が残存する。
大阪藤田美術館に明治期に持ち出された山田寺礎石1個が残存という。
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
山田寺(浄土寺)
 阿倍山田道に面して建てられた山田寺は、当時の境内地は南北185m、東西117mの境内地をもつ。
現在は旧講堂上に法灯を伝える浄土寺がある。
 山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の発願により、舒明13(641)年に造営、整地作業が開始された。
その造営過程は、史料と発掘成果から詳細に判明している。
南北250m、東西150mの範囲を平坦にするため、幾つもの尾根を削り、谷を埋めて、山田寺式の伽藍配置が造られている。
2年後の皇極2年(643)には金堂を起工し、大化4(648)年には「始めて僧住む」という記事から、このころには金堂が竣工しており、僧房も完成していたことがわかる。
また、発掘調査では金堂に続いて回廊・中門・大垣もこの頃に造営されたと考えられる。
しかし、大化5年(649)石川麻呂が蘇我日向の讒言によって自害したことによって、その造営は頓挫する。
その後、石川麻呂の無実が判明し、造営が再開されたのは天智2年(663)になってからである。
ここで「塔を構える」とあり、天武2年(673)には「心柱を立てて舎利を納め」と、天武5年(676)には「露盤をあげる」とあることから、塔の本格的な造営は天武2年まで下り、天武5年に完成したと考えられる。
その後、天武7年(678)に丈六仏像の鋳造が始まり、天武14年(685)に開眼した。この仏像は後に興福寺へと持ち去られた仏頭であり、講堂に安置されていたものであることから、この頃には講堂も完成していた。と考えられる。
7世紀後半には金堂・回廊の瓦を補修し、南門及び大垣も建替えている。さらに僧房や宝蔵を建築している。
これらの経緯は、発掘調査によっても判明しており、山田寺式(重圏文縁単弁八弁蓮華文軒丸瓦)・四重孤文軒平瓦を長期生産・使用し続けている。
 文武3年(699)には、30年を限りに封三百戸が施入されており、大宝3年(703)には四大寺(飛鳥寺・大官大寺・薬師寺・川原寺)などと共に、斎会が設けられており、四大寺に次ぐ、寺格を有していたことがわかる。
しかし、奈良時代になると、石川麻呂の弟の連子の曾孫である石川年足が大般若経一部を寺田からとして納めたことが知られる程度で、記録は少ない。
8世紀中頃には回廊内を瓦敷にしたり、東北院を増設したりしており、8世紀後半〜9世紀初頭にかけて小規模な屋根の修理が行われていた(奈文研2002)

残存する山田寺礎石
1.藤田美術館
 まず、「山田寺第2次(金堂・北面回廊)の調査(昭和53年2月〜昭和53年10月)」(良国立奈文化財研究所(「飛鳥・藤原宮発掘調査概報」1979 所収)では次のようにいう。
 調査前の金堂基壇は、北と西側が削平され東西約18碗、南北約12阿の方墳状の上壇となり、その上に2個の礎石と3個の地覆石が残っていた。
発掘によって判明した金堂基壇は、四周に犬走りを巡し、四面各中央に石階を配する壇上積み基壇であり、東西21.6統(約65尺)、南北182R(約55尺)、高さ約2紀の規模をもつ。
 上述の地覆石3個は移動していたが、礎石2個は創建時の位置をとどめていた。
原位置を保つ2個の礎石は、身舎南面の東隅間のものであり、柱間は2駒をはかる。この住間寸法は、一尺を約30mとする従来の規準尺度では整数値がえられない。
そのことは礎石抜取り穴などから復原される建物の各柱間寸法についても同様である。そこで上述の柱間2駒を6尺とみなし、一尺33.3側の規準尺を求めて、各柱間にあてはまると、各々で整数値がえられたのである。
すなわち、正面3間は15尺(約5紀)等間、側面2間は18尺(約6紀)等間となり、身舎については中央間15尺、両脇間6尺、側面2間9尺(約3乳)となる。
 金堂の礎石は、花南岩を用い一辺1乳の方座の上に円柱座を造出している。
山田寺の礎石については、かつて塔跡に蓮弁を伴う礎石が存在したという報告があり、山田寺礎石を所蔵する藤田美術館の御好意により調査したところ、単弁十二弁の蓮弁をもつ礎石数個を確認した。この結果を得て、金堂基壇上の礎石を精査すると、蓮弁の先端部がわずかながらも残っており、上辺1乳の方座の上に径90cmの単弁十二弁の蓮華座を造出し、その中央に径60cmの円柱座をもつ礎石が復原できる。
基壇上にあった3個の地覆石は、いずれも花南岩であり、幅25〜35cm、長さ1、3m、高さ25cmの長方形の地覆座をもつ。うち2個には、地覆座中央に壁内の間柱をうける平面長方形の「くりこみ」(40×20cm)がある。
この礎石や地覆石の据付けは、基壇築成に並行しておこなわれている。
すなわち、一定の高さまで基壇を築成した段階で据付け掘形を掘り、根固め石などを用いず直接版築土上に置き、その後再び版築層を積みあげて基壇を完成している。
なお、地覆石抜取り穴が入側柱列では検出されず、さらに現存する2個の礎石に地覆座がないことから、入側柱間は開放であったものと考えられるのである。
 藤田美術館蔵山田寺礎石     山田寺第二次調査遺構配置図
GoogleMap>StreetViewで確認すると、山田寺礎石と思われる礎石が多宝塔附近に複数個(?)存在すると思われる。
 山田寺礎石(推定):StreetView
なお、
「奈良県桜井市 特別史跡 山田寺跡 保存活用計画書」では次のように云う。
 仏像以外では、明治年間に山田寺跡から多くの礎石が持ち出されています。
近代の数奇者・高橋箒庵の日記『萬象録』に東京赤坂で大正5〜6年に造営した伽藍洞一木庵に用いる庭石のため山田寺跡の礎石計4個を古物商から買い受け、東京汐留で実見した記事があり、遠く東京にも運ばれたことがわかっています。
しかし、残念ながら伽藍洞一木庵は戦災により失われて、みることができません。
現在みることができる山田寺の礎石としては、
大阪市の藤田美術館の庭園に金堂の礎石が、京都市の北村美術館の庭園に回廊の礎石があります。
その他、山田寺跡周辺の民家などにも礎石をはじめとする寺院に使用されていた石材をみることができます。
発掘調査以前にも農作業の際や個人収集家により採集された山田寺跡の瓦類や塼仏などが多くあり、個人収集家などを経て、各地の博物館などで収蔵され、展示されています。
2022/12/06追加:
○「山田寺の発掘調査から」工藤圭章(前沼津工業高等専門学校校長)
http://www.sogogakushu.gr.jp/kosen/jissen_2_248yamadaji.html
昭和五十一年四月に第一次の山田寺発掘調査を実施することとした。
 第一次調査は買上地の南から塔を対象主体として始められた。
この調査では塔の階段の突出や基壇周辺の犬走りの一部石敷きが発見され、基壇の大きさが確認されている。
基壇上は周縁がかなり削られていたが、礎石一個が残ることや礎石の抜取り痕跡が検出されて、塔の平面規模が明らかにされた。
しかし、地中に据えられた心礎周辺は明治末に盗掘されており、舎利孔には蓋もなく埋納品も発見できなかった。
なお、
この心礎は別の礎石を裏返しにして造られたものであった
 ところで、北面回廊の礎石はこの時代の礎石に見られるように、柱座が二重に造り出されていたが、下の座には反花の蓮弁が付けられていた。
そのつもりで金堂の礎石を細見すると、確かにかすかながら二重の柱座と蓮弁の輪郭があるのが認められた。
金堂の礎石は大阪の藤田邸(いまの藤田美術館)に運ばれたようだと地元の古老から聞き大阪に出向き調査したところ、案の定、美術館の庭園で蓮弁の造り出しのある礎石が多数発見できた。
要するに、蓮弁がハッキリ残っていない礎石は売買の際に売値が安いので金堂跡に留めれたということだったのである。

 この調査で、山田寺の伽藍配置が、大阪の四天王寺式であるといわれていた定説が崩れ、回廊は塔と金堂を囲み、講堂は飛鳥寺のように回廊外に建てられたことが分かった。
これも新しい建築史上の発見であった。現法隆寺も建立当初は回廊が塔と金堂だけを囲んでいたことが知られており、山田寺の伽藍配置は飛鳥時代の伽藍配置に一つの確定要素を加えたことになる。
○「奈良県の近代和風造園」(奈文研紀要2010 所収)
 藤田は大阪の毛馬桜ノ宮に庭園を築造するにあたり、本薬師寺の礎石の購入を企図するも失敗、
その後正倉院前に置かれていた東大寺の大量の礎石を取得して庭に持ち込んだ。
藤田美術館前庭には「東大寺心礎」と称される巨大な礎石のほか、山田寺の礎石も確認される。
東京目白の椿山荘に配された唐招提寺の塔心礎も藤田の購入したものと思われる。
2022/06/24撮影:
藤田美術館の「庭園案内図」によれば、山田寺礎石は8個あるという。
 大和山田寺金堂礎石その1の1     大和山田寺金堂礎石その1の2
 大和山田寺金堂礎石その2の1     大和山田寺金堂礎石その2の2
 大和山田寺金堂礎石1
 大和山田寺金堂礎石その3の1     大和山田寺金堂礎石その3の2
 大和山田寺金堂礎石その4の1     大和山田寺金堂礎石その4の2
 大和山田寺金堂礎石2
 大和山田寺金堂礎石その5        大和山田寺金堂礎石その6
 大和山田寺金堂礎石その7の1     大和山田寺金堂礎石その7の2


2.北村美術館四君子苑
 四君子苑庭園には、流出した山田寺塔四天柱礎もしくは回廊礎石が蒐集されている。
ページ:北村美術館四君子苑に掲載写真の説明は次の通りである。
奈良県桜井市山田にあった古代寺院、山田寺の四天端礎石水鉢(飛鳥時代)
あるいは
○「奈良県の近代和風造園」(「奈文研紀要」2010 所収)
 図 10.2 北村美術館所蔵の山田寺回廊礎石の3D モデル
  山田寺回廊礎石3Dモデル:山田寺四天柱礎とされるものである。
   参考文献:<「山田寺の発掘調査から」工藤圭章>
あるいは
  伝飛鳥山田寺塔四天柱礎1     伝飛鳥山田寺塔四天柱礎2
あるいは
 ○「四君子苑の庭と石」 より
 解説文:山田寺から明治40年に発掘された礎石を手水鉢に見立てる。
  四君子苑・大和大安寺礎石

   →以上は、拙サイト中>京都北村美術館四君子苑に記載の礎石写真を転載

大和本龍蓋寺(本岡寺)跡

 大和龍蓋寺の「大和本龍蓋寺跡」の項を参照。

大和木之本廃寺 あるいは 一説には「高市大寺」後補地

 大和吉備池廃寺(百済大寺)・大和高市大寺・大和大官大寺跡(文武朝大官大寺)・大和木之本廃寺
    大和木之本廃寺

大和香久山寺(興善寺)

2022/05/28追加:
○「飛鳥・藤原京の謎を掘る」千田稔・金子裕之、文英堂、2000.3 より
興善寺:江戸期の本堂と庫裡が残る。
白鳳期創建説と8世紀前半に大安寺道慈が開いたという説がある。
香山寺(こうざん)が「コウゼン」に転化し、興善寺となった考えられている。
創建時の遺構はまだ発見されていない。
2022/06/26追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
27.香久山寺
香山寺とも書く。寺号は興善寺、のち三学院とも呼ばれる。
福山敏男によれば、「日本三代実録」貞観8年(866)及び元慶4年(880)に「香山(寺)」とあり、貞観8年には「大和国香山、長谷、壺阪等寺」と記される。
ただ、同じ「日本三代実録」に香山とあっても、新薬師寺(香山薬師)を指す場合もあり、注意を要する。
その後、「帝王編年記」永仁6年(1298)には「山学院、十市郡、天香山」とある。
遺蹟は天香久山の南東麓にあるが、明確な寺院遺構は発見されていない。
興福寺官務牒疏」では香久山寺の創建を大安寺道慈とするが、他に資料がなく判定し難い。
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

大和日向寺

 「亡失心礎」の「大和日向寺」の項  明治8年頃心礎は掘り出され、破壊されたと云う。

大和大官大寺(史跡)

 大和吉備池廃寺(百済大寺)・大和高市大寺・大和大官大寺跡(文武朝大官大寺)・大和木之本廃寺
    >大和大官大寺
      >「亡失心礎」の「大和大官大寺」の項も参照。

大和奥山久米寺(大和奥山廃寺)

2002/03/28撮影:
 四天王寺もしくは山田寺式伽藍配置とされる。塔跡と礎石(四天柱礎4個、側柱礎6個)が保存され、心礎の位置に十三重石塔(鎌倉期?)が建つ。そのため心礎については確認がなされていないとも思われる。なお塔の一辺は約7mを測る。
寺暦についてはほとんど資料がなく、詳細は不明とされる。
 奥山久米寺塔跡1     奥山久米寺塔跡2     奥山久米寺塔跡3     奥山久米寺塔跡4     奥山久米寺塔跡5
○「飛鳥時代寺院址の研究」:
 奥山久米寺跡実測図    奥山久米寺塔跡実測図
2025/12/07追加:
石造露盤:
 心礎の位置に十三重石塔が建てられているが、その台石は石造露盤を転用したものとされる。
  →大和奥山久米寺石造露盤
2007/05/01追加:
○「大和の古代寺院跡をめぐる」より
奥山久米寺は橿原久米寺の前身あるいは奥の院とする考察もあるが、確証は勿論ない。
 奥山久米寺心礎:「心礎(昭和51年再発掘)」という説明の写真の掲載があるが、
  この写真が本当に心礎写真なのかどうかは、判断できない。
2008/08/31撮影:
 大和奥山久米寺講堂礎石:「飛鳥資料館」に展示
2017/03/09撮影:
 奥山久米寺出土瓦:奈文研/飛鳥資料館展示

2008/07/25追加:
○「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」より:
 近年の発掘調査の結果、塔・金堂・講堂を直線に並べる山田寺式伽藍配置と判明する。寺域は凡そ200m四方、金堂創建は620年代と推定、塔の建立は7世紀後半で一辺6.6mと確認される。また平安期まで伽藍は維持されると思われる。
なお当廃寺は一級の伽藍であり、百済大寺もしくは高市大寺に比定される説もあったが、金堂・塔の創建や退転時期が百済大寺・高市大寺のそれと一致せず、また塔の規模も九重塔とは思われず、 現在ではこの説は否定されている。
なお寺域東辺の井戸から「小治田寺」の墨書のある平安期の土器が出土と云う。近世は浄土宗久米寺と称する小寺院であった。
2022/06/14追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
5.奥山廃寺
 これまで、寺号や沿革が殆ど分からない寺であった。かっては高市大寺に擬せられたが、瓦の示す創建年代が合致しない。
最近、小沢毅が「小治田寺」に充てる仮説を発表する。 <小墾田宮・飛鳥宮・嶋宮ー7世紀の飛鳥地域における宮都空間の形成ー」(「文化財論叢U」奈良国立文化財研究所創立40周年記念論文集、同朋社、1995)
なお、小治田寺は直木幸次郎がその存在を推定したものである。
大脇潔もこの小澤説に賛同し、「少治田寺」(寺域井戸から出土)らしき墨書土器を紹介する。さらに大脇潔は造営氏族を小治田臣とし、蘇我氏の同族とした。
これに対し、小笠原好彦は造営氏族を境部臣摩理勢とした。 <「同笵軒瓦からみた奥山久米寺の造営氏族」小笠原好彦(「日本考古学 第7号」1999.5.14発行 所収)>
 これまでの発掘調査で、金堂と塔の基壇規模が判明、講堂の位置もほぼ推測できる。
金堂は東西80尺(23.4m)南北64尺(19.2m)で、川原寺中金堂とほぼ土井逸規模、塔は基壇一辺40尺(約12m)高さ5尺(1.45m)。四天王寺式伽藍配置と見てよいだろう。
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

2022/06/04追加:追加論文:
○→「小治田寺・大后寺の基礎的考」吉川真司(「国立歴史民俗博物館研究報告第179集」2013.11 所収)
論文要旨
奈良県明日香村奥山に所在する奥山廃寺(奥山久米寺)は、620〜630年代に創建された古代寺院と考えられ、古代文献に見える小治田寺に比定されている。
しかし、小治田寺の創建事情については、いまだ確固たる定説がない。そこで本稿では、古代〜中世の関連史料を読み直すことによって、おおむね次のような結論を得た。
 一、飛鳥の小治田寺は7世紀後葉には筆頭格の尼寺であり、8世紀になっても天皇家と深い関わりを有していた。平城遷都とともに平城京北郊への移転が行なわれ、新寺も小治田寺と呼ばれたことが確認される。
 二、平安時代以降の史料に見える奈良の大后寺は、その地理的位置から見て、平城小治田寺と同一実体と推定することができる。平城遷都以前から、小治田寺は大后寺という法号を有していたと見るのが自然であろう。
 三、『簡要類聚抄』に記された大和国の大后寺領荘園群は、中ツ道の陸運と大和川の水運を押さえる場所に計画的に配置されており、その背後に巨大な権力・財力の存在が窺われる。これらの荘園は小治田寺が創建されて間もない時期に施入されたと考えられ、その立地は奥山廃寺式軒瓦の分布とも照応する点がある。
 四、小治田寺は、推古天皇の死を契機として創建された小墾田宮付属寺院と推測され、その意味で、倭国最初の勅願寺・百済大寺の先蹤をなすものと評価することができる。

2022/06/06追加:追加論文
○→「同笵軒瓦からみた奥山久米寺の造営氏族」小笠原好彦(「日本考古学 第7号」1999.5.14発行 所収)
・要旨
 奥山久米寺は飛鳥川流域の飛鳥の中心地域に建てられた古代寺院で、この寺院に葺かれた角端点珠形式の軒瓦は、奥山久米寺式とも呼ばれてよく知られている。
この寺院は飛鳥寺、豊浦寺の創建期の軒瓦と同笵瓦が出土していることから、蘇我傍系氏族の寺院とみなされている。
しかも近年の調査で寺名を記した墨書土器が出土したことから、小治田寺と呼ばれたことが想定されるようになり、その造営氏族も小墾田臣が有力視されている。
しかし、これまでの研究では、この寺院に葺かれた軒瓦を製作した瓦窯と造営者との関連の検討が、なお不十分なように思われる。
そこで小稿では、奥山久米寺の造営にあたって軒瓦を供給した大和国天神山瓦窯、山背国と河内国の境にある平野山瓦窯、播磨国高丘瓦窯と蘇我傍系氏族との関連を重視して検討した。
 奥山久米寺の創建時に葺かれた軒瓦の一つであるIIIA型式軒瓦を製作した天神山瓦窯は、大和国宇智郡坂合部郷に設けられたとみられる瓦窯である。
ここと最も深い関連をもったとみなされるのは、蘇我傍系氏族のうち境部臣摩理勢とみてよい。
また、奥山久米寺のIIID型式を供給した平野山瓦窯は、四天王寺の瓦を生産した上宮王家の瓦窯である。
この上宮王家と最も関係が深かったのも、推古天皇の後継者として山背大兄王を強く推したことからみて境部臣摩理勢であったと推測される。
 これらの点からみると、奥山久米寺を建立したのは小墾田臣を想定するよりも、蘇我馬子の弟に想定されている境部臣摩理勢の可能性が最も高い。
このように奥山久米寺が境部臣氏によって造営されたとすると、飛鳥の中心部にあたる飛鳥川流域に広がる空間には、山田道を主要幹道として蘇我氏関連の豊浦寺、飛鳥寺、和田廃寺、奥山久米寺、山田寺が計画的に建立されたことが推測される。
また飛鳥時代の古代寺院に葺かれた軒瓦には、奥山久米寺をはじめ他の寺院の同笵軒瓦が顕著にふくまれている。このような同笵軒瓦の分有関係がもつ歴史的意義にも言及した。

2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
奥山廃寺(小墾田寺)
 奥山廃寺は山田道の北方に位置する。
伽藍は南から塔・金堂・講堂と並び、これらを囲む回廊が講堂に取り付く四天王寺式伽藍配置の寺院である。
現在は奥山集落が伽藍中心部と重なっており、金堂跡地には、現在も久米寺があり、その境内地に塔基壇が良好に残され、十三重石
塔が建てられている。
 奥山廃寺はその創建の由来や造営氏族については明らかではないが、小墾田臣や境部臣摩理勢などの名があげられている。
そこで奥山廃寺を高市大寺とする説(田村1960・網干1980)もあったが、近年は、当地が「小墾田」にあたること、平安時代の井戸から「少治田寺」と読
める墨書土器が出土していることから、「小墾田寺」と推定する説が有力である(大脇1997・小澤1995)。
小墾田寺に関する最初の記録は朱鳥元(686)年の天武天皇のために行われた無遮大会が五大寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・小墾田豊浦寺・坂田寺)で行われたことである(朱鳥元年(686)8月21日条)。
この頃すでに伽藍がある程度整っていたことはわかる。
これまでの発掘調査によると、7世紀前半に金堂、7世後半に塔の造営と金堂の改修が推定されてきた(奈文研1990)が、近年、佐川正敏・西川雄大氏によって、瓦の分布と年代から、塔の年代を金堂に後続する7世紀前半とした(佐川・西川2000・花谷2000a)。
ここではこれに従う。
 金堂及び中門・回廊の創建が奥山廃寺式瓦、塔が奥山廃寺式・船橋廃寺式瓦とみて、山田寺式瓦の7世紀後半の屋根葺き替え用とした。
この大改修の時期と先の朱鳥元(686)年の無遮大会の時期がほぼ重なる。
ただし、奥山廃寺出土瓦には7世紀初頭の星組・雪組の軒瓦が出土しており、塔基壇下層には別の掘込み事業があり、あるいは7世紀初頭に小規模な仏堂があったのかもしれない(奈文研1988)。

大和飛鳥寺(史跡)

 寺号は法興寺、本元興寺。あるいは法満寺。
昭和31-32年の発掘調査により、1塔3金堂形式の伽藍配置が確定される。
すなわち塔を中心にして、北に中金堂、東西に東金堂・西金堂が建ち、この区画は回廊で囲まれ、南に南門・中門、北に講堂を持つ伽藍配置であった。塔は建久7年(1196)落雷によって焼亡し、中世には全ての建物が失われたと伝えられる。また塔の中央部の発掘調査で、日本最古の舎利を発見。鎌倉時代に舎利を再埋納した舎利であった。心礎は地中2.7mの位置にある。
 (現地には心礎が埋納されている位置を示す「標」があるのみ。)
2025/12/07追加:
飛鳥寺石造露盤:
 飛鳥寺の北・講堂跡に江戸期に建立された浄土宗来迎寺に、半裁された飛鳥寺のものと思われる石造露盤が「手水鉢」として転用されている。
 →大和飛鳥寺石造露盤(在飛鳥来迎寺)
2021/12/30追加:
大和飛鳥寺
○「日本書紀」推古元年(593)正月の条には次のようにあるという。
 「元年春正月壬寅朔丙辰、以仏舎利、置于法興寺刹柱礎中。」
2022/02/07追加:
○「日本仏教はじまりの寺 元興寺」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
○「飛鳥寺(法興寺)の創建」相原嘉之
 仏教公伝について、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」「上宮聖徳法王帝説」では戊午年(538)とし、「日本書紀」では欣明13年(552)とする。
しかし、仏教公伝以前にも仏教は日本にもたらされていたと考えられる。
(5世紀の「画文帯四佛鏡」や継体16年(522)司馬達等が坂田原に草堂を建て仏像を礼拝する。「扶桑略記」)
即ち、私的な仏堂(草堂レベル)や私邸での礼拝などの形では既に公伝以前に伝わってはいたものと考えられる。
 仏教公伝のあと、崇佛派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏)が対立し、相争い、最終的には崇佛派が勝利するのは良く知られた話である。
この間、私的に草堂を建てあるいは自宅に仏像を祀ることが行われ、またある時にはそれらが破壊・遺棄される事件が散見される。
敏達14年(585)蘇我馬子は大野丘(甘樫丘)に塔と仏堂を建てるも、同年再び疫病が蔓延し、塔・堂・仏像は破壊される。
 それらの伏線の結果、丁末の変(587)が勃発、蘇我氏(馬子)と物部氏(守屋)は武力衝突し、蘇我氏が勝利する。
崇佛派の勝利により、戦前の誓約の通り、蘇我氏は飛鳥寺を、厩戸皇子は四天王寺を建立することとなる。
また、司馬達等の娘(善信尼)は百濟で受戒し、帰国後、桜井寺に住する。
蘇我馬子は、日本で初めてとなる本格的な伽藍を持つ仏教寺院を建立し、この寺院が法興寺(飛鳥寺・本元興寺)である。
 (「日本仏教はじまりの寺 元興寺」)
 かくして、飛鳥寺の造営が開始される。
その造営の過程は「日本書紀」「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に詳しい。
素俊元年(588)飛鳥寺造営開始、推古4年(596)「法興寺、造り竟(おわ)りぬ。」とある。
その法興寺(飛鳥寺)の伽藍配置はどのようなものだったのかは、飛鳥寺(安居院)の発掘調査で明らかになる。
それは中央に塔を置き、北と東西に金堂を配置する一塔三金堂の特殊なものであった。
 その法興寺を鏑矢として、仏教は国家に”公認”され、寺院は広く建立されることとなる。
「日本書紀」推古2年(594)では「皇太子及び大臣に詔して、三宝を興し隆(さかえ)しむ。是の時、諸臣連等、各君親の恩の為に、爭いて仏者を造る」とあり、推古天皇は子息や氏族に対し、寺院建立を推奨し、多くの氏族たちは寺院を建立する。
「日本書紀」推古32年(624)畿内を中心に「寺46所、僧816人、尼569人、并て1385人あり。」
「扶桑略記」持統6年(692)「天下の諸寺をかぞえ、およそ545寺」と云われるように、寺院は爆発的に増加する。
 ※「古代の寺院を復元する」2002 では、飛鳥期の古瓦出土地は畿内(特に大和・河内)に集中し、40数か所を数え、白鳳期には地方豪族も盛んに寺院を建立し、白鳳期の寺院跡596ヶ所とその数は符合するという。
 ※「季刊 明日香風」1982春<p.64〜65> では 飛鳥・白鳳・奈良期の寺院は北は秋田市の四天王寺跡から南は種子島多褹島分寺まで955ヶ寺が知られる。なお、このページには古代寺院跡の全国マップ図が掲載され、寺院跡は飛鳥・白鳳・奈良・国分寺・国分尼寺に区分表記されている。)
 飛鳥寺の発掘調査
伽藍中心の塔は地下2.7mほどの深さに巨大な心礎を据え、上方に方形の舎利孔がある。
 大和飛鳥寺心礎2
心礎埋納品には多様な遺物が含まれる。
鈎玉・管玉・切子玉・銀製空玉・銀製山梔玉・丸玉・トンボ玉・ガラス小玉・金環・金延べ板・金小粒・銀延板・銀小粒・金銅製打金具・杏葉形金具・鍔付半球形金銅金具・金銅鈴・金銅製瓔珞・馬齢・けい甲・蛇行状鉄器・刀子・雲母片である。
横穴式石室の副葬品に共通する遺物と同時に、仏舎利埋納品と共通する遺物が混在する。佛教揺籃期の新旧儀礼の融合を示す。
 大和飛鳥寺心礎埋納品2:ただし、出典は「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

2008/05/12追加:
○2008/04/16朝日新聞記事 より
朝鮮王興寺(百済の都・扶余)跡から、2007/10月、金・銀・青銅の舎利容器が出土、そこに刻まれた銘文から百済王の発願で577年2月に創建されたことが判明する(国立扶余文化財研究所の調査)と云う。
遺跡を確認した大橋一章・早大教授は、両寺とも同じ系統の技術者がかかわったのは間違いないとする。その根拠は塔の構造、出土品、瓦の文様などがよく似ている。法興寺・元興寺(飛鳥寺)と王興寺とは類似する。また日本書記によれば、この年(577年)に百済から技術者が派遣されたと云い、その11年後飛鳥寺塔が完成したと云う。
王興寺塔(木造)は一辺14.1m、心礎から金・銀・銅の入れ子状の舎利容器が発見され、銘文から威徳王が皇子の菩提のため丁酉年(577)に創建したと判明した。
 ※銘文:「丁酉年二月十五日百済王昌為亡王子 立刹 本舍利二枚葬時 神化為三」
但し、飛鳥寺の伽藍配置は1塔3金堂形式で、王興寺は1塔1金堂で回廊東西に付属建物を持つ形式とされる。
 百済王興寺伽藍配置:国立扶余文化財研究所
 百済王興寺舎利容器1   百済王興寺舎利容器2
しかし、以上の王興寺の飛鳥寺原形説はいささか恣意的に過ぎる(我田引水的)との批判もある。
即ち、飛鳥寺造営開始の10年以上も前から飛鳥寺建立の技術者を派遣してくるなどとは、まず考えられない。この派遣は飛鳥寺とは別の寺院(大別王寺)への派遣で あろう、飛鳥寺への派遣は丁未の年(587)である。
また舎利埋納の類似性云々より、伽藍配置が決定的に違う。飛鳥寺の1塔3金堂の形式は高句麗清岩里廃寺で見られる形式であるのは周知のことである。

2002/03/28撮影:
  飛鳥寺心礎標
2008/05/12追加:
○「飛鳥 その古代史と風土」門脇禎二、昭和45年 より
 飛鳥寺伽藍配置・周辺地形:奈良国立文化財研究所「飛鳥寺発掘調査報告」:○2007/01/31追加:
 大和飛鳥寺心礎
2007/05/01追加:
○「大和の古代寺院跡をめぐる」 より
塔基壇は金堂と同様の壇上積、方40尺(12m)、階段は南北2方にある。基壇上は削平され礎石は1個も遺存しない。
 法興寺塔心礎発掘:昭和32年:2.7mの地下にある。

2026/01/03追加:
○「阿倍野区歴史講座 古図会、古地図などから見る阿倍野等の歴史」阿倍野区生涯学習推進会議、2008.3 より
第2回 古図会、古地図などから見る阿倍野等の歴史(その二)>
3.四天王寺
 (中略)
 この地下式心礎は古い塔の建立様式と考えられている。
 四天王寺心礎発掘調査:昭和12年、写真に3人の人物が写るが、これとの比較で心礎は大深度に据えられたことが分かる。
例えば、日本で最初の本格的寺院と云われる飛鳥寺の塔がそうである。飛鳥寺心礎も2m以上の地下深くに据えられている。
以上からすれば、四天王寺塔は若草伽藍塔に先行するものではないかと思われる。
飛鳥寺塔の舎利埋納は593年飛鳥寺に宝物を納めた記事(「日本書紀」)があるので、その頃には飛鳥寺は完成に近づいていたと思われる。
つまり、四天王寺塔は若草伽藍塔に先行して建立されたことを示す。
 飛鳥寺心礎の埋設状況
 (後略)

2008/07/25追加:
○「日本の木造塔跡」:
 昭和32年の発掘調査で、中門を入ると、正面に一辺12mの高い石積基壇に塔が建ち、その北に同じく高い石積基壇(21.2×17.6m)の上に建つ中金堂、塔の東西にそれぞれ二重基壇(上成基壇14×19m、下成基壇15×20m、下成基壇に礎石列がある)の上に東金堂・西金堂があり、それらを回廊が囲み、回廊外に大きい講堂(8×4間)が発掘される。珍しい一塔三金堂の伽藍配置であった。
心礎は現存基壇下2.7m(推定基壇からは3.3m下)にあり、その大きさは2.6×2.4m×62cmで中央部分は削平され、中央に一辺33×30cm深さ21cmの方孔が穿孔され、さらに東壁に12×12×12cm(幅・高さ・奥行)の孔を穿つ。中央の方孔は舎利孔で下部の孔は鎮檀具孔であろう。
また方孔の周囲には一辺45cm幅3cm深さ1.5cmの周溝があり、ここから四方に幅6cmの直線の放射状の溝を出す。
建久7年(1196)塔焼失、翌年塔跡より舎利などが取り出され、再埋納されるも塔の再建はならず。
昭和32年の発掘では再埋納の舎利が取り出される。心礎の上に長径76cmほどの2個の石を組み合わせた石櫃があり、その中央には径21cm深さ15cmの円錐形孔を彫り、それを合わせた中に木箱を入れ中に金銅の舎利容器を入れたものであった。心礎上部には勾玉・金銀延板、隅には馬鈴・金銅金具・金環・鉄器などが埋納当初の状態で出土する。
2022/02/08追加:
○「古代の寺院を復元する」鈴木嘉吉監修、学習研究社、2002 より
心礎の上面からは鉄製の挂甲(けいこう)(鎧)、金銅製の飾り金具、耳飾り、青銅製の馬鈴、勾玉など、古墳の副葬品と共通するものが出土する。
 心礎出土状況・復元:向かって右が出土状況、左が出土状況を復元したもの。下方が挂甲、左上は砥石(砥石ではないという見解もある)で、砥石だとすれば、刀剣の研磨に用いられた可能性もある。(「日本仏教はじまりの寺 元興寺」p.102)

2009/09/01追加;
○「飛鳥の寺院 飛鳥の考古学図録3」明日香村教育委員会、平成19年 より
 飛鳥寺塔心礎埋納品
2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
心礎中央に一辺50cm、深さ25cm(この法量は蓋受孔か)のニ段の方形孔がある。東壁下部に幅・高さ・奥行とも12cmの龕のような横孔がある。舎利孔である。昭和30年の発掘調査では舎利容器は既に姿を消していた。
推古元年(593)「刹柱礎中」に仏舎利が安置される。
建久2年(1196)雷火によって塔焼失、寺僧によって舎利容器は取り出され、舎利は再安置される。
この様子は「本元興寺塔下堀出御舎利縁起」(建久8年)に記されると云う。舎利数百余粒と金銀器物などが取り出されと云う。
 飛鳥寺出土舎利容器:鎌倉(建久)期再安置
   ▽出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。

2026/01/05追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入 (4)飛鳥寺の創建、(5)飛鳥寺の系譜」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
(4)飛鳥寺の創建

 飛鳥寺は崇峻即位前紀(587)に発願された本格的な伽藍をもつ我が国はじめての寺院である。
 ◇史料にみる飛鳥寺の造営:
 これには「日本書紀」と「元興寺伽藍縁起」の2系統がある。
「日本書紀」では、崇峻即位前紀(587)蘇我・物部戦争(丁末の役)の最中、蘇我馬子が戦勝祈願を行い、寺院を建立し、仏法僧の興隆に努めるとしたことを発願とする。
「元興寺伽藍縁起」では、尼寺(桜井寺)はあるが、法師寺(僧寺)がなく、用明天皇は法師寺の造立を伯戸皇子・蘇我馬子に指示する。これが元興寺建立の発端であるとする。
 なお、「書紀」では寺院造立にあたり、百済から人的及び技術的な支援を受けたとする。
 (詳細な造立記事は省略)
推古17年(609)に本尊を安置とあり、堂塔を備える飛鳥寺が完成する。
 考古資料にみる飛鳥寺の造営:
 飛鳥川の右岸に位置する飛鳥寺は、当時の境内地が南北293m、東西215〜260mにも及ぶ。
現在は旧寺域の北2/3が「飛鳥」集落となっており、寺域内を東西と、それに接続する南北の幹線道路がT形に貫通している。
南1/3は水田が広がっており、遺跡は水田下に眠っている。
中心伽藍跡地には飛鳥寺(安居院)があり、釈迦如来坐像(飛鳥大仏)が坐す現在の本堂は、飛鳥寺中金堂の地にあたる。
 飛鳥寺の伽藍配置は、中央に塔をおき、その北及び東西に金堂を配置する一塔三金堂の特殊な配置で、中門からのびた回廊がこれらを取り囲んでいる。講堂は回廊の北方に位置している「飛鳥寺式伽藍配置」である。このうち東西金堂は、二重基壇で基壇築成がなされている
 塔は地下2.7m程の深さに巨大な心礎を据え、上面に方形の舎利孔がある。
この心礎埋納品には、多様な遺物が含まれていた。
その品々を示すと、玉類:勾玉4、管玉5、切子玉2、銀製空玉3、銀製山梔玉1、丸玉1、トンボ玉3、ガラス小玉2366。金環23以上。金銀:金延板7、金小粒1、銀延板5、銀小粒7。金銅製打金具:円形金具14、杏葉形金具25以上。鍔付半球形金銅金具7以上。金銅鈴7。金銅製瓔珞146以上。馬鈴1。挂甲1。蛇行状鉄器1。刀子12(うち5点は破片)。雲母片数点となる。
横穴式石室の副葬品に共通する遺物であると同時に、後期古墳にはみられない仏舎利埋納品と共通する遺物も混在するという特色がある。
 飛鳥寺は、我が国最古の伽藍寺院である。
よって、はじめての瓦葺建築であった。当然、基壇をもち、礎石の上に柱を立てる建築としても初めてということになる。
 瓦については、花組(素弁十一弁蓮華文)と星組(弁端点珠素弁蓮華文)の2系統の瓦が、飛鳥寺の創建瓦であり、百済地域の瓦と共通すると同時に、その後の瓦に受け継がれていく。
これらの瓦は大量に必要となり、瓦成形時の当て具の痕跡に、須恵器甕にみられる痕跡と同じものがみられることから、瓦作りには、当時の須恵器工人が大量に動員されたことがわかる。
 奈良元興寺は、養老2年(718)に、飛鳥から平城京へと法灯を遷した寺院である。
その後も飛鳥には主要伽藍が残されており、平城京へは一部建物の移築と、新築の寺院である。
現在の元興寺極楽房の屋根には、飛鳥時代の瓦が今も使われており、飛鳥寺から移築した時に運ばれたものであろう。
他にも古材が多く保管されており、その中には、巻斗も含まれている。
この材の年輪を計測すると、590年頃の伐採と推定された。
 現在、安居院本堂に安置されている釈迦如来坐像(飛鳥大仏)は、飛鳥寺中金堂にあった本尊である。
建久7年(1196)に落雷で伽藍は焼失し、飛鳥大仏も焼失した。
その時に仏頭と手だけが残されたと「上宮太子捨遺記」には記されている。
昭和48年の仏像の詳細な調査では、残留しているのは頭部の額・両眉・両眼鼻梁のほか、左手の掌の一部、右膝上にはめこまれる左足裏と足指などとされる。これに対しては、疑問も呈されているが、将来の研究に待たざるをえない。

(5)飛鳥寺の系譜
 飛鳥寺の創建軒丸瓦は、花組(素弁十一弁蓮華文)と星組(弁端点珠素弁蓮華文)である。
これらの瓦文様や造瓦技術は、百済にルーツがあり、さらには南朝にまでたどれることがすでに指摘されている。
 飛鳥寺の伽藍配置は一塔三金堂の飛鳥寺式伽藍配置をとる。
7世紀初頭の伽藍配置は四天王寺式あるいは山田寺式の伽藍配置が多く、中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶもので、百済大寺以降に、金堂と塔が東西に並列する法隆寺式伽藍配置が現れる。
これは舎利(塔)を中心とした信仰から、仏像(金堂)の信仰への変化と考えられる(石田1956・森1998)。
その後、法起寺式・川原寺式伽藍配置など、金堂の配置が多様化するのは、本尊の種類(釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来など)と象徴する方位に関連するともみられている(菱田2005)。
さらに7世紀後半には双塔式(薬師寺式)の伽藍が出現する。
 韓半島の百済寺院の伽藍配置は、回廊が単純に講堂に接続しないが、いずれも堂塔が一直線上に並ぶ一塔一金堂式である(東ほか1989)。
同様に古新羅の寺院も、皇龍寺創建伽藍(推定)や芬皇寺などのように一塔一金堂であるが、芬皇寺の創建伽藍(634)は飛鳥寺とはやや異なる品形の一塔三金堂式である(慶文研2005)。
 一方、統一新羅になると四天王寺や感恩寺のように双塔式伽藍が採用され、主流となる(東ほか1988)。
ただし、統一新羅以降に創建された寺院の中でも、天官寺跡・甘山寺跡は単塔式伽藍の可能性が高いと推定されている(田中2019)。
これに対して、高句麗寺院には一塔三金堂の配置が清岩里廃寺・上五里廃寺・土城里寺や定陵寺跡にみられる(東ほか1995・千田2015)。
そして、南北朝・隋代の中国では、伽藍配置が不明なものが多いが、北魏洛陽城の永寧寺や東魏北斉䌋南城の趙彭城遺跡、長安城の青龍寺など、塔院を中心としたものが多い。
ただし、唐代初頭には絵図によると西明寺が双塔式に描かれている(佐川2010・向井2013)。
 このような伽藍配置の類似から、四天王寺式は百済式の配置を祖型とみることができ、薬師寺式は統一新羅の双塔式の影響とみられる。
ただし、一塔一金堂は、百済だけでなく、古新羅でも見られる事から韓半島の古式寺院のスタンダードとすることも可能であろう。
そして塔から金堂へと主眼が移り、双塔式が中国・新羅にみられるようになる。
これに対して、飛鳥寺式伽藍配置は百済・新羅・隋にはなく、高句麗の清岩里廃寺に類例が求められることから、高麗に祖型を求めることができる。
しかし、高句麗の直接の影響ではなく、百済経由でもたらされた可能性は考えられる(李2015)。
近年、扶余定林寺や王興寺が中門・塔・金堂・講堂と並ぶ配置の東西回廊に建物が接続する事例が確認されている。
この東西建物が、飛鳥寺の東西金堂の祖型という理解もある(佐川2010)が、この建物は附属建物であり、金堂ではない。
よって、この事例から、飛鳥寺式伽藍配置が百済由来のみということはできないと考える。
 飛鳥寺の東西金堂は中金堂の凝灰岩壇正積基壇とは異なり、二重基壇で上段が玉石積みの基壇で、下成部にも礎石が据えられている。このことは、中金堂よりも、東西金堂の格が低いことを意味している。
その意味では、中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ百済式伽藍配置に、東西金堂が付加されたものともいえる。
二重基壇の類例は、我が国にはなく、高句麗の清岩里廃寺をはじめ、百済の扶蘇山廃寺・定林寺・四天王寺・平済塔廃寺や新羅の皇龍寺などでみられる(奈文研1958)。このことから、二重基壇が韓半島からの影響であることはわかる(李2015)。
 飛鳥寺塔心礎埋納品は、すでに見たように舎利荘厳具の他、挂甲・馬具・耳環・刀子・歩揺などの飾金具・各種玉類などの古墳副葬品に共通する品があることは知られている。
これは古墳時代から律令時代への過渡期にあたるためと理解されている。
しかし、近年、扶余王興寺の舎利容器と舎利荘厳具が確認され、塔基壇の地下に舎利孔をもつ大きな石を据えていることが判明した。
舎利容器には「丁酉年(577)」の銘が刻まれており、塔建立の年代がわかる。
また8000点にも及ぶ舎利荘厳具には、装身具が多く確認されている。
また、益山弥勒寺西石塔の心礎石からも、舎利容器と10000点以上の舎利荘厳具、そして「己亥年(639)」銘の金板が出土している。
ここでも装身具が多く含まれている。
このように塔地下に舎利孔をもつ心礎(舎利装置石)は、今のところ中国では確認されておらず、百済で誕生した方法である可能性が高い。
また、舎利荘厳具についても、王興寺・弥勒寺で、装身具との共通性がみられ、飛鳥寺の埋納品が、百済からの影響も窺えることになる(佐川2010)。
崇峻元年(588)是歳条には、百済から舎利・僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工などの造営工人の技術援助があったことが記されるが、飛鳥寺の舎利方法は百済の影響がつよいことがわかる。
また、『扶桑略記』には、舎利埋納儀礼において、蘇我馬子ほかの人々が百済服を着用していたことも記されており、百済式の儀礼が行われた可能性が高い(諫早2017)。
しかし、飛鳥寺埋納品には、装身具だけでなく、馬具も含まれている。
これは百済の儀式様式だけではなく、やはり古墳副葬品との共通点を示唆しているとみるべきで、倭国のこの時期独自のことである。
 飛鳥寺塔基壇は、版築によって築成されている。
掘込地業は、橙黄色砂と茶褐色粘質土を互層に積み重ね、さらに基壇を構築している。
このような版築は山田寺の金堂・塔跡や奥山廃寺塔跡・川原寺塔跡などでもみられる。
青木敬氏は、百済王興寺や弥勒寺・帝釈寺、さらに南朝の寺院でも採用されるような性状の異なる山土を使い分けて突き固める版築技術を「南朝・百済系統の技術」と呼称する。
また、吉備池廃寺や大官大寺・斑鳩寺若草伽藍では、同質の山土を一貫して積み上げており、永寧寺にもみられる技法を「華北系統の技術」とする。さらに和田廃寺塔跡では、礫と土を交互に積み上げた基壇が作られており、このような事例は新羅皇龍寺・四天王寺などでみられ、さらに北朝の䌋城でもみられることから「北朝・新羅系統の技術」とする。
これらのことから版築技術だけでも、「南朝・百済系統」→「華北系統」→「北朝・新羅系統」と導入され、飛鳥寺の場合は、「南朝・百済系統の技術」の版築が用いられていたとする(青木2017)。
 飛鳥大仏の止利様式は、中国河南省龍門石窟の北魏様式の諸仏像との共通性から、中国北魏様式の影響を受けたものと推定されていた(松村1971・水野1949・毛利1978)が、北朝の仏像群も中国南朝の様式の影響を強く受けたものであり、中国南朝の仏像様式が百済を経由してもたらされたと考える研究者も多い。
また、山東半島にある山東省青州市の龍興寺跡で発見された400体にのぼる北魏から北斉にかけての仏像が、アーモンド形の目・古式微笑・鰭状衣文・裾のしわの表現などが、飛鳥様式と類似する点に注目が集まっていた。
この地は北朝領域には入るが、長く南朝支配を受けるとともに、南朝の影響を強く反映されると理解される(吉村1983・1992・1995)。
 これらの検討により、飛鳥寺の造営には史料的にも、考古学的にも、南朝及び百済の影響が色濃く残されていることがわかる。
しかし、百済だけでなく、高句麗僧の来日や本尊の黄金供与、一塔三金堂の伽藍配置からみて、高句麗の影響を受けていることも間違いない。
そして、これらの外来文化は、瓦製作に須恵器工人が動員されていること、塔埋納品に馬具など古墳副葬品と共通するものが含まれることから、我が国の古来からの文化・風習・技術とが融合していることも判明する。

2017/03/09撮影:
 飛鳥大佛碑と礎石     飛鳥寺心礎標2     飛鳥大佛本堂
 飛鳥寺礎石1     飛鳥寺礎石2     飛鳥寺礎石3     蘇我入鹿首塚
 ◇奈文研/飛鳥資料館展示
 飛鳥寺舎利容器及木箱     飛鳥寺金銀延板・小粒     勾玉・管玉・水晶製切子玉・琥珀玉等     金銅金具・瓔珞
 飛鳥寺玉類
 飛鳥寺伽藍模型1     飛鳥寺伽藍模型2     飛鳥寺伽藍模型3     飛鳥寺伽藍模型4     飛鳥寺伽藍模型5

大和川原寺(史跡)

2022/05/28追加:
○「飛鳥・藤原京の謎を掘る」千田稔・金子裕之、文英堂、2000.3 より
川原寺の創建については文献資料を欠き、まったく分からない。
日本書紀には全く語られず、そのため後世の「東大寺要録」「扶桑略記」などが参照され、様々な創建説が語られる。
即ち、敏達13年(584)、斉最明7年(661)、天智朝説、天武朝説などである。
しかし、数次の発掘調査で、天智天皇建立ということが定説となる。
川原寺は天智天皇が母の斉明死後、その殯宮になった飛鳥川原宮跡地に建立されたと推定される。
天智建立とする根拠は
1.川原寺下層遺構から宮殿用の唐居敷が出土、土器を7世紀前期を遡らない。
2.1塔2金堂の伽藍配置が近江南滋賀廃寺や崇福寺に採用され、同笵の軒丸瓦も出土する。
3.飛鳥寺の高麗尺よりも短い唐尺を用いて建立されている。
の根拠で天智天皇の建立ということが定説となる。
○2002/03/28撮影:
 発掘調査により、1塔2金堂形式の伽藍配置が確定される。中金堂の南東に塔・南西に西金堂が配置され、塔と西金堂は対面する配置であった。(すなわち南大門・中門・中金堂・講堂が中軸線上に並び、中門と中金堂の西に西金堂、東に塔婆が対峙する配置を採る。)
塔は天智天皇により創建され、この塔は建久2年(1191)に焼失。その後13世紀後半に再建され、おそらく慶長年間前後に焼失し、その後再建されることは無かったとされる。
塔基壇は壇上積みで一辺11.7m、高さ1.5m、塔の一辺は6m(再建塔と同じ)とされる。
 川原寺塔跡遠望1     川原寺塔跡2     川原寺塔跡3
鎌倉再興礎石:塔跡基壇上には心礎・四天柱礎3個・側柱礎10個が残されるが、これは鎌倉期再建時の礎石とされる。
 川原寺鎌倉期心礎      川原寺鎌倉期塔礎石
創建時礎石:創建時の心礎は地下1.1mのところで発見され、大きさは2.5m×1.9m×76cm、表面には径1.03m×深さ60cmの孔を持つ。また地下から四天柱礎1個、側柱礎6個も発見される。
  (この法量は「日本の木造塔跡」からの引用であるが、深さは10cmが正しいと思われる。)
 川原寺創建時心礎
 川原寺放置礎石:放置礎石
 川原寺瑪瑙礎石:中金堂跡には弘福寺(豊山派)が現存、その境内には瑪瑙の礎石が残る。
 川原寺五重塔復元模型:川原寺五重塔復元模型(飛鳥資料館)
○創建の事情については史料が乏しく良く分からないとされるが、天智天皇が斉明天皇(皇極天皇重祚・天智天皇母・川原宮造営)の菩提のために川原宮の跡地に創建したとする説が有力とされる。
○「飛鳥時代寺院址の研究」より転載:
 川原寺址実測図    川原寺塔址実測図(鎌倉再興塔跡)    川原寺塔土壇
2008/01/08撮影:
 大和川原寺塔復元基壇1     大和川原寺塔復元基壇2
 川原寺鎌倉再興塔礎石1     川原寺鎌倉再興塔礎石2     川原寺鎌倉再興塔礎石3
 川原寺鎌倉再興塔礎石4     川原寺鎌倉再興塔礎石5     川原寺鎌倉再興塔礎石6
2009/09/01追加;
○「飛鳥の寺院 飛鳥の考古学図録3」明日香村教育委員会、平成19年 より
 大和川原寺塔跡発掘
2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
 川原寺創建時心礎2
○2017/03/09撮影:
奈文研/飛鳥資料館に川原寺伽藍模型がある。
 川原寺伽藍模型1     川原寺伽藍模型2-1     川原寺伽藍模型2-2     川原寺伽藍模型2-3
 川原寺出土瓦
川原寺現況
 弘福寺全景     川原寺塔復元基壇3     川原寺塔復元基壇4
 川原寺鎌倉再興塔礎石4    川原寺鎌倉再興塔礎石5    川原寺鎌倉再興塔礎石6
 川原寺鎌倉再興心礎2      川原寺鎌倉再興心礎3      川原寺鎌倉再興脇柱礎1     川原寺鎌倉再興脇柱礎2
 川原寺西金堂跡
 川原寺散乱礎石11     川原寺散乱礎石12     川原寺散乱礎石13     川原寺散乱礎石14     川原寺散乱礎石15
 川原寺散乱礎石16     川原寺散乱礎石17     川原寺散乱礎石18     川原寺散乱礎石19     川原寺散乱礎石20
2022/06/10追加:
○「古墳と寺院 琵琶湖をめぐる古代王権」田中勝弘、サンライズ出版、2008 より
×川原寺伽藍配置・・・省略
川原寺式軒瓦と近江の寺院
川原寺は天智天皇が母の齋明天皇の死を悼み、飛鳥の川原宮の故地に発願した寺で、天智天皇の死後も、天武天皇の厚い保護を受けている。
この川原寺の軒丸瓦は今まで例にない1枚の花弁に2枚の子葉を配する複弁の蓮華文を採用する。
この新様式の文様と同じ系統の瓦を出土する寺院跡が、近江においても大津の天智天皇発願の崇福寺跡や南滋賀町廃寺を始め、真野・坂本・穴太・膳所・石居廃寺跡、草津の笠寺・花摘寺・下寺・長束廃寺跡、栗東の手原廃寺、近江八幡の安養寺跡・舟木廃寺、龍王の雪野寺跡など、つまり大津や湖南・湖東南部に集中する。その理由は大津の寺院は天智・天武の関わりが推測できるが、その他の寺院については直接的な建立理由は分からないが、壬申の乱で有功者の氏寺であって、それに対して乱後の論功行賞があり、寺院建立に対し国家的支援があったのかも知れない。
壬申の乱の激戦地と寺院
天武天皇が鸕野皇后の病気平癒を願って建立した薬師寺の軒丸瓦・軒平瓦の同笵もしくは同系統のものが米原の三大寺跡・彦根の高宮廃寺・草津の花摘寺跡・大津国昌寺跡の4カ所で出土する。
これらの地は何れも、壬申の乱の激戦地と重なっていることである。
おそらくは、これらの瓦を使用した寺院は壬申の乱の戦死者の菩提を弔うため、天武天皇の発願で建立されたとみることも可能ではないだろうか。
2022/06/23追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
17.川原寺
寺号は弘福寺。「日本書紀」の初見は白雉4年(653)であるが、割注では別の寺院のことともとされ、疑問がある。
確実な記事は天武2年(673)「川原寺に一切経を写す」とある記事である。
創建については敏達13年(584)、斉明元年(655)、斉明7年(661)、天武代、宝亀5年(774)などがあるが、福山敏雄は大津遷都前(天智天皇6年(667)前)の天智代を提起し、現在のところこの福山説が最も妥当であろう。
伽藍配置は戦前からの調査を経て、中金堂の南東に塔、その西に当面する西金堂があり、これらを回廊が囲む。
中金堂北方に講堂があり、これを取り巻いてさ三面僧坊が並ぶ。僧坊の西に小子房、さらに食堂が想定される。
廻廊に開く中門の南に南門があるが、東門はそれより規模が大きく、東門に隣接して東南院がある。また伽藍北方に礎石建物がある。
1957〜59年の発掘以来、膨大な数の数の、しかも創建から江戸期迄の軒瓦で出土している。それらの瓦の型式分類は「川原寺発掘調査報告」に詳しい。

大和橘寺(史跡)

珍しく東面する四天王寺式伽藍配置を採る(講堂が回廊外配置とされるため山田寺式ともされる)。
塔心礎の柱座は美しい形に整形される。心礎は地下1.15mにあるが、露出している状態にある。
大きさは1.9×2.8m、長方形の花崗岩を用い、中央は一段高く作り出され、その中心に径89cm深さ9cmの円柱孔があり、円柱孔を囲み3つの半円状の副柱孔が穿られている。
側柱礎(いずれも円形柱座を持つ)8個、四天柱礎2個が残存する。
塔の一辺は6.97m、基壇一辺は13.3mとされる。
当寺は聖徳太子生誕伝承地の一つであり、太子建立寺院とされる。
橘寺とは俗称で、仏頭山上宮皇院菩提寺(近世に天台宗となる)と称する。
「聖徳太子伝暦」では太子がこの地で勝鬘経を講ぜられたとき、瑞祥があり、仏堂を建立したとする。
「河内野中寺弥勒像の丙寅(天智天皇5年666)紀年銘」:
 「橘寺智識之等(詣)中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也」とある。
  (この史料は疑問とする見解もある。)
「法隆寺東院資材帳」:推古天皇14年7月、「天皇詔太子日、於朕前講説勝鬘経、則依詔太子講説三日、講竟夜蓮花零、花長二三尺溢方三四丈之地、則其地誓立寺院、是今菩提寺也」とある。
「日本書記」天武天皇9年、「乙卯(十一月)、橘寺尼房失火、以焚十房」とある。
「類従国史」延暦14年、「大和国稲二千束施入菩提寺以遭火災也」とある。
「上宮太子拾遺記」:久安4年(1148)五重塔が雷火のため焼失と云う。建仁3年(1203)ようやく三重塔が再建されると云う。
永正2年(1505)多武峰の衆徒の焼討ちでほとんどの伽藍を焼失。
近世には「今は講堂一宇残りて、・・・余は、只礎の址のみ残れり」、「正堂、念仏堂、僧舎一区あり」(大和名所圖會)の状態であった。
元治元年(1864)漸く現伽藍が再興される。
2002/03/28撮影:
 大和橘寺塔跡1     大和橘寺塔跡2     大和橘寺塔跡3     大和橘寺心礎1     大和橘寺心礎2
2008/01/08撮影:
 大和橘寺心礎11    大和橘寺心礎12    大和橘寺心礎13    大和橘寺心礎14    大和橘寺心礎15    大和橘寺心礎16
 大和橘寺塔礎石     大和橘寺塔脇柱礎
2009/09/01追加;
「飛鳥の寺院 飛鳥の考古学図録3」明日香村教育委員会、平成19年 より
 大和橘寺塔跡発掘     大和橘寺塔跡版築
2017/03/09撮影:
奈文研/飛鳥資料館にて
 大和橘寺伽藍模型
2022/06/23追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
16.橘寺
寺号は菩提寺、橘樹寺あるいは橘尼寺とも称する。
「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」(天平19年/747)に「橘尼寺」、「上宮聖徳法王帝説」に「橘寺」として厩戸王子建立七ヶ寺の一つという。
「七代記」は「菩提寺、時人喚為橘尼寺」として太子造立八ヶ寺の一つに数える。
「聖徳太子伝暦」では、推古14年(606)厩戸王子が勝鬘経講説の地を寺にしたという。
だがこれらの説は太子信仰の流布で生まれたもので、にわかに信は置きがたい。
「日本書紀」天武9年(680)の尼坊焼失記事が草創期の唯一の記事であろう。(天武9年以前の創建と分かる。)
橘寺の創建時期については、出土瓦から見て、諸説があり、飛鳥寺と同じ頃なのか、川原寺と同時期の天智天皇の頃なのか結論は出ていない。
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
橘 寺(菩提寺・橘樹寺・橘尼寺)
 飛鳥川の左岸に位置する橘寺は、川原寺と対峙するような立地にある。
当時の境内地については北辺を除いて明確ではないが、東辺は地形からみて南北道まで、西辺はこれまでの成果から東西約400mの範囲が旧境内地であったと考えられる。
現在は中心伽藍の地に、現橘寺が法灯を伝えており、当時の伽藍配置は東面する四天王寺式と推定されている。
 橘寺の創建については記録がなく、明確ではないが、聖徳太子建立の寺のひとつとする説は天平19(747)年の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』にみえる。
橘寺の最も古い記録は「橘寺の尼房に失火して、十坊を焚く」(天武9年(680)4月11日条)である。
このことから天武9年には尼房が完成しているほど、伽藍が整備されていたことがわかる。
その創建は境内での発掘調査で飛鳥寺と同笵の花組が出土することから、7世紀初頭には金堂が建てられたと考えられる。
その後、山田寺式瓦(重圏紋縁単弁蓮華文・7世紀中頃)には塔が建設され、川原寺式の瓦が出土することから、7世紀後半に川原寺と同時期に整備されたことがわかる。
その後、藤原宮式瓦(7世紀末)が出土することから、この頃にも伽藍が整備されたと考えられる。(橿考研1999・亀田1997・花谷2000a・大脇1989)。
 

醍醐廃寺

多くのWebサイトでは醍醐集落の醍醐寺跡土壇と称する写真を掲載する。
○「奈良県の地名 日本歴史地名大系」平凡社、1981/6 より
藤原旧跡の西北、醍醐の集落のはずれに土壇があり、堂垣内、寺の前、長谷田などの小字と礎石が残る。出土瓦は法隆寺系の複弁蓮華文巴瓦と忍冬文唐草瓦、藤原京系の巴瓦と唐草瓦。
地名と法隆寺系の古瓦によって、「法空抄」に「大后寺 本元興寺北」、「私注抄一義」に聖徳太子建立56箇寺の一として「大后寺 大和国市郡(ママ)成不入」と記す大后寺にあてる説もある。
○関連項目:
 →大后寺については「小治田寺・大后寺の基礎的考」吉川真司 を参照(大和奥山廃寺中にあり。)
  また聖徳太子建立46ヶ院を参照。
2022/06/28追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
30.醍醐廃寺
「私注抄一義」に太子建立46ヶ寺の一つとして「大后寺 大和国高市郡或不入」があり、これは「法空抄」にみえる「大后寺 本元興寺北」にあたるとされる。
「興福寺大和国雑役免坪付帳」に17条3里4坪と6条3里1坪に「大后寺田」を記載する。
寺跡自体は、醍醐集落を流れる水路の擁壁に礎石2個があり、また周辺から採取される瓦によってその存在は認められていた。だが、採取される瓦は藤原京式が多く、場所が藤原l京北面西門の推定位置にお近いので、藤原京関連の瓦と見た方がよいだろう。
醍醐集落の西にある所謂「長谷田土壇」がこの寺跡に関連するという考えもあるが、土壇周辺の発掘調査では、寺の遺構や遺物は確認されていない。
保井芳太郎は「瓦はこの礎石附近では殆ど出土しないが、西北の池中より採取した」と記す。この池は「新賀池」という事で、これは岩井孝次が「鴨公村醍醐、新賀池の池底」から瓦を採取してと記すことに符合する。
新賀池とは耳成山の北にあり、醍醐集落から1.2kmほど離れる。
これまで醍醐廃寺出土と報告された瓦は、藤原京式を除外すると、法隆寺式軒瓦がのこる。これが、醍醐寺の所用瓦だろう。
2022/06/28追加:
○「大和上代寺院志」保井芳太郎、大和史学会、1932 より
醍醐寺(高市郡鴨公村醍醐)
 持統天皇の藤原京跡と称される鴨公村小学校の西北に醍醐集落があり、その中に寺院跡がある。即ち堂垣内、寺の前等の地字があるほかに礎石が残る。
 ※昭和7年当時、鴨公村小学校は現在の史跡藤原京跡の只中にあったようである。
 醍醐寺跡圖
礎石は溝の中に2個あるが、上より転落したものかあるいは原位置であるかは明らかでない。妙な形の造り出しがあるが如何なる場所に用いられたかは不明である。
この付近にはまた長谷田という地名があり一の芝生を残すが、これ亦寺趾なりと云われている。
 (中略)
瓦はこの礎石附近からは殆ど出土しないが西北の池中より図版に示す如きものを出した。
 (後略)
○情報の整理
以上から、「長谷田土壇」「醍醐廃寺の2個の礎石」などの情報を整理する。
1.上図「醍醐寺跡圖」から、「字」、いわゆる「長谷田土壇」位置、2個の礎石位置、礎石の概要などが知れる。
 なお、右端にある養國寺は現存する。そして、「傳藤原宮海犬飼門趾」の東すぐに養國寺がある。「傳藤原宮海犬飼門趾」とは保井芳太郎が醍醐寺礎石が2個あるとした場所を指すようである。
 ※養國寺の情報はWeb上ではほぼ皆無、境内に鎮守と思われる春日明神がある。この社には丹波佐吉が奉納した狛犬があり、台座には「安政三丙辰歳十一月吉日」の年紀を刻む。
2.「長谷田土壇」
○サイト「橿原市」の「ドキュメント」中論文(タイトルが特定できず) より
 長谷田土壇について、次の一節がある。
「鷺栖神社のほぼ真北一粁、醍醐の集落の西に、長谷田土壇と呼ばれる低い基壇状の高まりが残っている。その周辺からは礎石が掘り出され、古瓦も出土しており、喜田(貞吉)はここを藤原宮の地と考えた。」
○「藤原京二条大路の調査(第33-3次)」(昭和56年8月) より
 昭和56年の調査報告書であるが、この当時は長谷田土壇が醍醐寺跡と認識されている。
「この調査は、橿原市醍醐町内での住宅新築工事に先立つ事前調査として実施したものである。調査地は大極殿の西北600mにある東西に細長い水田で、北方130mには「長谷田土檀」と俗称される土壇がある。東方170mでは、礎石や法隆寺式軒瓦が発見されており、寺院址(醍醐廃寺)と推定されている。また、調査地は藤原京二条大路と右京二坊坊間路の想定位置にある。」
○「5/22の史跡探訪ご案内(橿原校)」「下ッ道から藤原京へ」奈良まほろばソムリエの会
のページに「長谷田土壇」の位置が明示されているので転載する。
 長谷田土壇位置図
3.醍醐廃寺礎石
溝の中に2個あるとされる醍醐廃寺礎石は現地案内板ではWeb情報では「傳藤原宮海犬飼門趾」とされ、その礎石とされるようである。
現段階では、藤原宮海犬飼門推定礎石をするのが妥当と思われる。
 「傳藤原宮海犬飼門趾」案内板:転載
「・・小川中の二大石はその礎石と考えられている・・・」
4.「新賀池」
花谷浩「京内廿四寺について」で言及する「新賀池」の位置は次の通りである。
 「新賀池」位置図

八木廃寺

2022/06/28追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
29.八木廃寺
「興福寺大和国雑役免坪付帳」高市郡雲飛庄に「八木寺田4段十ト25条10里4坪」とある。これが八木寺に関する殆ど唯一の文献記録である。
寺跡はJR畝傍駅前の春日明神周辺とされ、八木寺の字が残る。
八木寺の造営氏族は楊貴氏(八木造・陽疑造)が挙げられている。
寺の関する遺構は散在する礎石以外には明らかでなく、軒瓦に1955年に出土した大官大寺金堂創建瓦が唯一である。この瓦が創建瓦とすれば、創建は7世紀末となるが、明らかではない。
2022/11/10追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。
2022/05/22撮影:
「略縁起」:境内に掲示
神亀6年(729)長谷寺開山俊徳上人の創立で、本尊は長谷寺本尊と同木の延命十一面観音である。以下荒唐無稽につき、省略。
 八木寺延命院1     八木寺延命院2     八木寺延命院3     八木寺延命院4
 八木春日明神1     八木春日明神2
なお、大和八木の大和国分寺の十一面観音立像は延命院のものと云う。

本薬師寺東塔・西塔(特別史跡)

 大和本薬師寺     大和薬師寺

大和塔垣内廃寺

 大和大窪廃寺心礎・大和塔垣内廃寺

大和大窪寺

 大和大窪廃寺心礎・大和塔垣内廃寺
 

参考:橿原考古学研究所付属博物館礎石

2008/02/27撮影:
橿原考古学研究所付属博物館に礎石4個の展示がある。内1個は心礎様礎石(礎石1と2)で、あとの3個はかなり破損している礎石もあるが、いずれも柱座を造り出す礎石(礎石3)である。
 橿原考古研展示礎石1     橿原考古研展示礎石2     橿原考古研展示礎石3
これらの礎石についての橿原考古学研究所説明:
 出所は不明(研究所は何度か移転したこともあり、寄贈された礎石なのか発掘して展示している礎石なのかは今では全て不明、当然出所・由来なども不明、但し、形式上白鳳期の礎石と推定される。)
・心礎様礎石(図1および2):大きさは100×70cm、経25×深さ10cmの円錐形の孔がある。
表面は明らかに削平されている。しかしその大きさ(古代寺院の心礎としては小さすぎるであろう)や孔の形状(円孔ではなく、円錐形に近い)や表面の削平や孔の穿孔が後世の ものである可能性もあり、心礎である可能性は非常に少ないであろうと思われる。また研究所説明のように心礎であることは勿論、礎石である確証もない。
2022/05/22撮影:
 橿原考古研展示礎石4     橿原考古研展示礎石5

大和紀寺(大和小山廃寺)

 「亡失心礎」の「大和紀寺」の項を参照

2022/06/23追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
18.小山廃寺
 小山字キテラに所在する。字から紀氏の氏寺跡とされてきた。明治初年までは塔跡に土壇と巨大な心礎と四天柱礎が残っていたという。
「続日本紀」の天平宝宇8年(763)に唯一の史料がのこり、これによれば「平城京紀寺の奴婢が、遷都以前にも紀寺におり、それが庚午年籍作成の時点はで遡ることがわかり、また天保宝宇8年時点の氏上が紀朝臣伊保であったことが分かる。さらに遠年の資財帳があったことも分かる。」
 さて、平城京紀寺は今、紀寺町にその名を残し、l城寺がその跡を継ぐという。
寺伝では、行基開基といい、紀有常が伽藍中興という。また紀氏を檀越とし百濟・高句麗の訳語(通事)が建立し、譯田寺と称し、檀越によって紀寺とも呼んだという伝承もあるが、はっきりとしたものではない。
 本廃寺の伽藍であるが、本廃寺は1973〜74年の発掘調査が行われ、この時、金堂跡(18.5×16m)、講堂跡(32×19.9m)、中門跡(12×8.2m)、回廊跡(76?×82m)、南門跡(2×3間:柱間3.6m)、南面と東面の大垣、南面の道路跡などが確認された。
伽藍は南門・中門・金堂・講堂が南北に並び、廻廊は金堂を囲み講堂に取付く。東側に塔があったが、塔跡は発掘調査されていない。
その後、南面大垣と八条大路、寺域東南部、東面大垣を調査する。
これらの成果から、藤原京左京八条二坊の四坪分が寺域とされたことが判明。
 なお、本廃寺が紀寺とされた理由は字名がキテラであること、伽藍配置・創建瓦が川原寺に近似することであるが、本廃寺が天武発願の薬師寺と八条大路に面して東西に並ぶことや「紀寺式」瓦が広い範囲に分布するも、紀氏の本拠地紀伊にないことなどから、これを高市大寺(天武朝大官大寺)のあてる説がある。
しかい、これには大きな難点がある。本廃寺は天武5年(676)以前には遡れないという。
(※天武5年以前には遡れないという根拠は、本廃寺は藤原京の条坊に従って占地されていて、藤原京の条坊施工が開始されたのは天武5年ということであるという事だと思われる。)
このことは天武2年(673)創建の高市廃寺とは相いれない。吉備池廃寺=百濟大寺という前提にたてば、高市廃寺へは移転・移築が伴ったはずで、吉備池廃寺と本廃寺との伽藍規模の違い、さらには吉備池廃寺と同笵の瓦が1点も出土しないなど決定的な否定材料がある。

2022/06/23追加:追加論文
○→「大和紀寺(小山廃寺)の性格と造営氏族」小笠原好彦(「日本考古学 11巻第18号」日本考古学協会、2004 所収)
おわりに:
 飛鳥にある紀寺(小山廃寺)は、その小字名から長いこと紀氏の氏寺とみなされてきた。しかも、この氏寺に葺かれた雷文縁軒丸瓦は広く各地の寺院に葺かれ、紀寺式軒丸瓦と呼称されてきた。
しかし、近年では紀氏の瓦当文様が広範に分布することに疑問がだされ、さらにこの廃寺の調査によって、藤原京の条坊の施工後に造営されたことが判明したことから、そのようにはみなしえないことになった。
 このような経緯から、ここでは藤原京の条坊に建てられた本薬師寺の位置との関連を特に重視し、また『日本書紀』天武9年11月丁酉条の記事に注目し、天武天皇の不予に対し、藤原氏によって誓願された新造寺院を推測した。
雷文縁軒丸瓦は山背では大宅廃寺に古式のものが葺かれた。この大宅廃寺はすでに山階寺、あるいは藤原氏の氏寺とみなす見解が山崎氏によってだされてきた。
その研究成果との関連からすると、大宅廃寺は鎌足が建てた精舎の山階寺を、新造寺院(紀寺・小山廃寺)の造営が一定の進展をみた段階で、本格的な寺院に修復、もしくは藤原氏の氏寺として造営した寺院の可能性が高いものと推測する。
また、新造寺院(紀寺・小山廃寺)が藤原不比等と持統天皇によって造営が進められたことが、この雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦が山背の宇治郡、紀伊郡、葛野郡の氏寺はもとより、さらに多くの地方寺院にも採用された要因とみなされるのである。
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

大和雷廃寺

2022/06/26追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
19.雷廃寺・雷丘北方遺蹟
 遺蹟の正確は範囲は未だ明らかではない。
通称雷丘の北、大官大寺の西方から比較的多量の瓦が出土することは古くから知られていて、雷廃寺あるいは雷村廃寺と呼ばれてきた。
保井芳太郎は出土瓦が全く大官大寺と同じことから、大官大寺と何らかの関係があった寺院とした。
その後、数回の散発的な発掘調査が行われるも、明確な遺構などの出土は見なかった。
大脇潔は、出土瓦から、雷丘北方遺蹟の西北方向に寺院址を想定し、これを高市大寺の候補地とした。
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
雷廃寺(高市大寺?)
 雷丘の北西、飛鳥川右岸にある比較的多くの瓦が出土する場所で、雷廃寺と仮称されている。
雷丘の北方には、藤原京条坊に沿う邸宅遺構(雷丘北方遺跡)がある(奈文研1994・1995)が、ここでの瓦は、溝や井戸に転用されたもので、この遺跡の北西が雷廃寺の中心されている。
しかし、寺院にかかわる遺構は未確認で、遺物も瓦が出土しているのみである。
瓦は、東方にある大官大寺式のものもあることから、百済大寺から673年に遷されてきた高市大寺・天武朝大官大寺とも推定する理解もある(大脇1995b・小澤2018)。
「小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂を以て、高市大寺造る司にめす」(天武2年(673)12月17日条)、「高市大寺を改め、大官大寺とす」(大安寺縁起・天武6年(677)9月)とあり、天武朝大官大寺が高市大寺で、これが百済大寺から遷されたものであることがわかる。
 当遺跡出土瓦は、7世紀前半の星組・雪組・細弁十六弁蓮華文などの軒丸瓦があり、7世紀後半以降のものには、川原寺式・重圏紋縁鬼面文・紀寺式(雷紋縁複弁蓮華文)・藤原宮式・大官大寺式瓦がある。
当遺跡が百済大寺から遷された高市大寺であるとすると、7世紀前半の瓦の由来が不明であることと、吉備池廃寺から移されたとされる瓦がないこと、基壇痕跡がみられないことが課題となる。
 

大和豊浦寺

2002/04/29撮影:
現在は広厳寺(向原寺)が法燈を伝える。境内他に礎石が残る。
 大和豊浦寺跡1:豊浦寺跡碑(向原寺門前)     大和豊浦寺跡2:推定豊浦寺礎石(向原寺内)
2008/01/08撮影:
広厳寺境内から、難波池の西の小路を、南に40mほど入った民家の間に、「推古天皇豊浦宮跡」の碑と礎石(豊浦寺心礎と云われる)がある。
 大和豊浦寺心礎11     大和豊浦寺心礎12     大和豊浦寺心礎13     大和豊浦寺心礎14     大和豊浦寺心礎15
2022/05/22撮影:
 豊浦寺心礎16     豊浦寺心礎17     豊浦寺心礎18     豊浦寺心礎19     豊浦寺心礎20
 豊浦寺心礎21     豊浦寺心礎22     豊浦寺心礎23     豊浦寺心礎24     豊浦寺心礎25

○「飛鳥時代寺院址の研究」:
 塔心礎は方約5尺(151cm)で、径3尺6寸4分(110cm)の造出を持ち、その中央に径6寸9分(21cm)×4寸(12cm)の孔を穿つ。但し火災により荒れていて、原形はよく分からない。日本書記では欽明天皇13年百済から献上された仏像経論を曽我稲目が最初に祀ったのを始まりとする。その後白鳳期に隆盛を迎えたとされる。
○「飛鳥時代寺院址の研究」 より
 豊浦寺塔心礎実測図
○「日本の木造塔跡」:
礎石は1/3を欠失、径1.6mほどの丸い石の表面を削平し、その上に径100cmほどの柱座があり、中央に径21×深さ12cmの孔を穿つ。
2022/06/14追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
2.豊浦寺
 寺号は建興寺、また向原寺、豊浦尼寺ともいう。桜井寺もこの寺を指すようである。
「日本書紀」は欣明13年(552)百済聖明王から贈られた仏像・経論を蘇我稲目に礼拝させたところ、稲目大いに悦び、小墾田の家に安置し、向原の家を浄捨して寺にするという。(「扶桑略記」「三代実録」も蘇我稲目を発願という。)
「元興寺縁起」では推古天皇が推古元年(593)か2年に等由良宮を寺とし、等由良寺と名付けたことに始まるという。
これまでの発掘調査で、金堂、「塔」、講堂、推定西回廊、尼房が確認される。ただし「塔」は、「塔」のみ方位が違い、出土瓦の大半も鎌倉期以降のものなので、これが創建時の塔跡なのかはかなり疑問がある。
調査が断片的なので、伽藍配置の詳細は明らかでない。(金堂南に塔を置く四天王寺式伽藍と想定か>)
なお、下層尾からは等由良宮と思われる建物と石敷が発見されている。
2022/06/14追加:
○サイト:第44回定例会/帝塚山大学考古学研究所・両槻会共催行事/薫風そよぐ宮都・飛鳥/散策資料 より
 豊浦寺は、飛鳥寺に続いて造営された寺になる。
「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」や「日本書紀」、「聖徳太子伝暦」などに、豊浦寺に関わる記録がある。
「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」によれば、戊午年(538)に牟久原殿に初めて仏殿が設けられ、これが敏達天皇11年(582)に至って桜井道場と呼ばれ、翌12年には司馬達等の娘善信尼ら3人を住まわせたと云う。また、推古天皇元年(593)には、等由羅宮を等由羅寺としたという記載がある。
一方で、「聖徳太子伝暦」には、舒明天皇6年(634)に塔の心柱が建てられたと記されている。
「日本書紀」には、欽明天皇13年(552)10月、百済から献上された金銅仏像・幡蓋・経論などを蘇我稲目が授かって小墾田の家に安置し、また向原の家を寺としたとあり、舒明天皇即位前記(628)に山背大兄皇子が病床の叔父を見舞った折りに豊浦寺に滞在したことや、朱鳥元年(686)12月に天武天皇のための無遮大会を行った六大寺の一つに豊浦寺の名がある。
これらを総合すると、蘇我稲目の向原の邸宅が寺(仏殿)に改修され、それが豊浦寺へと発展していったと考えることができる。
 今までの数次にわたる発掘調査で、寺院遺構などの存在が明らかになりつつある。
  豊浦寺伽藍想定図
 豊浦寺の講堂は、向原寺境内とほぼ重なるように存在し、南北約20m、東西約40mの基壇の上に南北15m以上、東西30m以上の規模を持つ(飛鳥寺講堂とほぼ同規模)。
金堂は、南側の豊浦集落の集会所付近に東西17m・南北15mの規模と推定されている。
塔跡は、塔心礎とされる石の存在する付近に石敷をめぐらした基壇の一部が発見されているが、小規模な調査であったため、位置や方位などに疑問もあり、塔と確定するには至らずという。
 伽藍配置は、四天王寺式と推定されるも、地形に影響された特異な伽藍配置であった可能性もある。
なお、豊浦寺講堂跡の下層には、直径約30cmの柱を用いた高床式南北棟建物として復元出来る掘立柱建物跡(南北4間以上、東西3間以上)が検出される。
建物の周囲には石列がめぐり、さらにその外側には約4m幅のバラス敷が検出されていることから、講堂下層遺構が宮殿などの特殊な建物跡(推古天皇豊浦宮)であると判明する。
※この遺構は埋め戻されず、覆屋が建てられ、現状保存され、見学可能(住職談)という。
 なお、講堂礎石が向原寺境内に残置されている。
2022/11/10追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。
2022/05/22撮影:
和田廃寺のページ>「和田廃寺第2次の調査」奈文研 の項で次のようにある。
〔豊浦寺門前礎石〕
 なお、塔の礎石に関連していえば、現在豊浦の向原寺門前に置かれている花闘岩製の礎石は、かつて和田廃寺から持ち運ばれたものと言われている。その大きさは1.5m×l.2mほどで、上面に径0.72mの円形柱区に直角方向に交差する2方向の地覆座を造り出しており、隅柱の礎石と考えられる。この礎石も外から見えない内側の加工を省略しており、今回塔で検出した礎石と極めてよく似ている。したがって、塔の隅柱として使用していた可能性が高い。
 ※向原寺山門前にはいくつかの石があるが、意識して見ていなかたので、どの石が和田廃寺塔の礎石かは特定できていない。
 向原寺山門:近年造替されたようである。     向原寺本堂     向原寺薬師堂     向原寺堂宇:名称不明
 向原寺堂跡:基壇が残るが堂の名称不明
向原寺の一角に難波池がある。
この池は「日本書紀」欽明天皇13年仏教伝来の記事に排仏派の物部尾輿が仏像を投げ込んだ難波の堀江であるとの伝承をもつ。
その後、推古天皇の時、信濃國の本田善光がこの打ち棄てられたこの仏像を発見し、信濃に祀ったのが、信濃善光寺の始まりと云われる。
 ※難波の堀江について、この向原寺の池がそうであるのかどうかは分からない。
一般的には大阪阿弥陀池(攝津放光寺)がそれであると知られるが、これは近世の「こじ付け」の類とされるようである。
 難波池跡1     難波池跡2
2025/01/05追加:
◆参考事項:
   →四天王寺守屋祠の項を参照、四天王寺に守屋祠が祀られている。
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
 豊浦寺(建興寺・豊浦尼寺・向原寺)
 飛鳥川左岸に位置する豊浦寺は、山田道の南側の甘樫丘山裾にある。寺域については明確ではない。
豊浦寺の創建については『日本書紀』によると、仏教公伝の過程で登場する。欽明13年(552)に百済の聖明王が献上した金銅仏などを蘇我稲目が小墾田の家に安置し、その後、仏像を向原の家に移して寺としたことにはじまるとされる。
さらに物部尾輿は仏殿を焼き払い、仏像を難波の堀江に捨てたと記す(欽明13年10月条)。
一方、『元興寺縁起并流記資財帳』によると、戊午(538)年に牟久原殿に仏殿が設けられ(宣化3年12月条)、これが敏達11(582)年には桜井に遷され、「桜井道場」と呼ばれ、同15年には桜井寺と改称し、等由羅寺に発展したとする(敏達11年条)。また、『元興寺縁起』推古元年(593)には「等由良の宮を寺と成しき」とあり、推古天皇の豊浦宮跡地を豊浦寺としたとする。
 豊浦寺が正史に登場するのは舒明即位前紀(628)で、山背大兄王が蘇我蝦夷の病の見舞いに来たときに、豊浦寺に滞在したと記されており、さらに『聖徳太子伝暦』には舒明6年(634)に塔の心柱を建てるとある。
朱鳥元年(686)、天武天皇の追福のため、豊浦寺をはじめ五大寺で無遮大会が行われている。よって、創建の年代は史料からは明確にはし難いが、628年には何らかの建物(金堂?)が建てられており、舒明6年(634)に塔を造営し、朱鳥元年(686)の段階では完成していたと考えられる。
これらのことは講堂の下層に6世紀後半から7世紀初頭の掘立柱建物があり、豊浦宮の一部であると考えられることや、金堂が寺域造成の整地と一連で造られていること、金堂・西面回廊?の創建瓦が星組、塔が雪組、講堂が船橋廃寺式瓦(素文縁素弁蓮華文)であるので、金堂の創建時期は590〜610年の間に位置付けられる。
塔は発掘調査で遺構を確認していないが、出土瓦から7世紀第T四半期に考えられる。
また、講堂と尼房あるいは回廊と考えられる遺構もこの頃に造営されており、7世紀後半には完成していたことを裏付けている(橿考研1995・1998・奈文研1981a・1986)。
伽藍配置については、回廊が明確ではないが、金堂・講堂が南北に並び、推定される塔がその南方に配置される四天王寺式が有力である。(花谷2000b)。

大和坂田寺(金剛寺、坂田金剛寺、南淵坂田尼寺)

○「飛鳥時代寺院址の研究」:
日本書記では用明天皇の時代司馬多須奈の本願とする。 (南淵坂田尼寺)明確な遺跡がなく詳細は不明と云う。
 坂田寺金銅製舎利塔(室町末期、高さ2尺5寸)が伝来する。
2007/02/11追加:
 「日本書記」では、用明天皇2年(587)、天皇の病気平癒を祈願し、鞍作多須奈(鞍作止利の父)が発願、丈六の仏像を造顕、寺を建立したという。
また金剛寺については、推古天皇14年(606)、鞍作鳥(止利仏師)が近江国坂田郡の水田20町をもって建立した寺が金剛寺であると云う。(2代目あるいは3代目坂田金剛寺)
あるいは、「扶桑略記」では、継体16年(522)渡来した司馬達止が造った高市郡坂田原の草堂が坂田寺の起源とも云う。いずれにしろ鞍作氏の氏寺であったとされる。
「日本書記」:
朱鳥元年(686)、五大寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺・坂田寺)の一つに数えられる。伽藍は10世紀後半、土砂崩れより、崩壊。承安2年(1172)、多武峯の末寺の記録。
現状は坂田金剛寺址碑を残すのみで、昭和48年、49年、55年、平成2年の発掘調査で、土師器、須恵器、手彫の軒平瓦、木簡6点、「坂田寺」と記された墨書土器などが出土し、奈良期の仏堂と回廊が確認されている。飛鳥期の伽藍については不明。
なお、「坂田寺址」東・阪田の集落に、浄土宗「金剛寺」があり、「坂田寺」の系統を引くと云われるが関係は不明。
○「聖徳太子の寺を歩く(太子ゆかりの三十三ヶ寺めぐり)」:
 坂田寺が火災に遭い、金剛寺の門前に移り、それも焼失し、仮堂として営まれた寺院(天台宗)が現在に伝わる(浄土宗)と伝えられる。現在先代金剛寺址と本堂兼庫裏及び近江坂田から遷されたという薬師堂がある。
○「増補 大日本地名辞書」吉田東伍:
坂田寺址 高市村大字坂田にあるべし。書紀通証云、坂田寺一名小墾田坂田尼寺、万葉集小墾田之坂田、一書曰司馬達等居址。日本書紀云、用明帝疾病、司馬達子鞍部多須那進奏曰、臣奉為天皇出家修道、又奉造丈六仏像及寺、天皇為悲慟、今南坂田寺仏像是也。多武峰略記云、日本紀第二十二、推古天皇十四年夏五月五日、勅鞍作鳥即賜大仁位、因以給近江国坂田郡水田廿町焉、以此田為天皇作金剛寺、是今謂南淵坂田尼寺矣、太子伝上云、用明天皇二丁未年、仏工鞍部多須奈為天皇自身出家、造丈六仏像并坂田寺矣、承安二年八月四日、南淵坂田等永可為当寺之末寺由、賜長者宣、三年正月晦、彼寺本主木幡寺上座永厳、以坂田寺流記公験等永寄進当寺了。司馬達等継体天皇の朝に仏像を以て梁国より渡来し坂田原に廬居したる事扶桑略記水鏡及元亨釈書に見ゆ、本邦の仏像最初の所なり、達等の子多須那は河内鞍部の村主と為り其子を止利と曰ふ、一門力を興法に致す、推古天皇の止利を褒美したまへる詔旨、日本書紀に曰、朕欲興隆内典方将建仏刹、肇求舎利時、汝祖司馬達等便献舎利又於国無僧尼、於是汝父多須那、為橘豊日天皇出家、又汝姨島女初為諸尼導者、以修行釈教、今汝所献仏又合朕心、此皆汝之功也。
 小墾田の坂田の橋のくづれなば桁より行かむな恋そ吾妹〔万葉集〕
歌人等中世に当り此坂田を板田に謬り換歌多し。扶桑略記云、継体天皇即位十六年壬寅、大唐漢人鞍部村主司馬達止入朝、即結草堂於高市郡坂田原、安置本尊、帰依礼拝、挙世皆云是大唐神也、然而非流布也。
2017/03/09撮影:
金堂には格狭間を浮彫りする須弥壇跡が残り、その中央から鏡・玉類・金箔・銅銭などの鎮壇具が発見されたという。
以下いずれも奈文研/飛鳥資料館 にて撮影:
 坂田寺鎮壇具:瑞雲双鸞八花鏡、灰釉小型耳瓶、刀子、金銅製抉子、水晶玉
 坂田寺地鎮銭貨:和同開珎2点、萬年通宝3点、神功開寶7点などの皇朝12銭
2022/06/14追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
3.坂田寺
寺号は金剛寺。また坂田尼寺ともいう。
坂田寺の初出は「日本書紀」朱鳥元年(686)、天武のため無遮大会を開いた記事である。
「書紀」ではこれ以前の用明2年(587)鞍部多須奈が天皇のため出家し仏像と寺をつくることを申出、この時につくった仏像が坂田寺の木造丈六仏であるとの所伝を記す。
また、推古14年(606)飛鳥寺金堂に銅造丈六仏を巧みに納めた所労として、鞍作鳥に近江坂田郡に水田を与え、鳥はこれを以て金剛寺=南淵坂田尼寺を興したと伝える。
奈良期には隆盛した様子が伝えられる。その後、
「仏教伝来の頃の飛鳥」については、
○サイト:第30回定例会/両槻会主催講演会/仏教伝来の頃の飛鳥/事務局作製事策用資料
 に詳しい解説がある。
その中から坂田寺について以下抜粋・転載する。
  坂田寺は、鞍作氏の氏寺として建立される、飛鳥寺と並ぶ最古級の寺院と考えられている。
創建に関しては『扶桑略記』によると、継体16年(522)に渡来した司馬達等が造った高市郡坂田原の草堂に由来するとされる。
また『日本書紀』によれば、用明天皇2年(587)に鞍作多須奈が天皇の為に発願した丈六仏と寺や、推古天皇14年(606)に鞍作鳥(止利仏師)が近江国坂田郡の水田20町をもって建てた金剛寺が坂田寺とされるなど、創建の経緯には諸説がある。
『日本書紀』朱鳥元年(686)には、天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で行ったことが記されており、五大寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺・坂田寺)の一つに数えられている。
  <※五大寺については、六大寺であり、これは「日本書紀」の失錯あるいは誤写との指摘がある。下に掲載。>
 しかし、現在発見されている遺構は奈良期もので、創建期の伽藍は未だ発見されていない。
 坂田寺跡発掘調査遺構概略図
坂田寺発掘概況については明日香村の解説では次のように云う。
 初和47年以降10数次の調査が行われる。
寺域は山側から飛鳥川に向かっての傾斜地を雛壇蔵に平坦面を造成する。伽藍中心部は東西63m、南北56mのほぼ正方形に回廊が廻り、その東面回廊に金堂あが取付く。
中門は金堂の対面(西面)には無く、北面回廊に推定される。
廻廊内部には2棟の基壇建物が配されるが、その規模・性格は不明。
廻廊の外側は、金堂背後に鎮壇具を持つ基壇建物がり、回廊西側には掘立式建物がある。伽藍保木舞には井戸や石組溝がある。
 ※上記五大寺については「『日本書紀』原本の失錯か、後世の誤写かはわからないものの、「六寺」の誤りと考えるのが最も妥当であろう。」との見解がある。
<「小治田寺・大后寺の基礎的考」吉川真司(「国立歴史民俗博物館研究報告第179集」2013.11 所収)参照>
 日本書紀 巻第三十 持統天皇紀
 朱鳥元年・・・十二月丁卯朔乙酉、奉爲天渟中原瀛眞人天皇、設無遮大會於五寺大官・飛鳥・川原・小墾田豐浦・坂田。壬辰、賜京師孤獨高年布帛各有差。
即ち、小墾田豐浦は小墾田・豐浦の2寺と解し、大官・飛鳥・川原・小墾田・豊浦・坂田の六寺とすべきではないか、と。
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
坂田寺(金剛寺・坂田尼寺)
 坂田寺は石舞台の南方の山間部から飛鳥川へ下る斜面部を造成して造られている。
奈良時代の伽藍中枢部には斜めに県道が通過しているが、これは近年の新しい道路である。
これ以前には現在も地割として残る里道が主要な道路であった。
 坂田寺の創建については諸説があり、『扶桑略記』には継体16(522)年に司馬達等が坂田原に草堂を建て、本尊を安置したとある。
また、『日本書紀』には鞍部多須奈が天皇の病気平癒のために出家し、仏像と寺をつくったとする(用明2年(587)4月2日条)。
さらに推古14(606)年に飛鳥大仏の金堂への安置の功績により、鞍作鳥が近江坂田郡の田を賜り、これを坂田寺の造営にあてたとする(推古14年(606)5月5日条)。
これらの記事、特に継体16(522)年の年代の信憑性については明らかではないが、渡来系氏族である鞍作氏の氏寺として飛鳥時代でも早い段階で造られた寺院であることは間違いなさそうである。
このことは、坂田寺跡から花組や、坂田寺式瓦(単弁蓮華文)・手彫り偏行忍冬唐草紋軒平瓦が出土することから、その創建は7世紀初頭に遡ることがわかる。飛鳥時代の坂田寺の伽藍はいまだ確認されていないが、7世紀前半の石組溝や方形池が見つかっている(奈文研1973)。
また、7世紀後半の土坑や溝もあり、出土瓦からは7世紀初頭の創建後、7世紀前半・中頃・後半・藤原宮期の瓦も出土しており、伽藍造営の継続、あるいは屋根の補修が行われていたことが推測される。
これを証するように『日本書紀』には朱鳥元(686)年に天武天皇のために大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺と共に無遮大会が開かれており、当時、格の高い寺院として飛鳥五大寺に含まれていた。
 その後、坂田寺が注目を集めるのは、奈良時代前半のことである。
坂田寺の信勝尼は天平9(737)年に経典を内裏に進上するなど、内裏と密接な関係を持つようになる。
さらに天平勝宝元(749)年には東大寺大仏殿東脇侍を寄進する。
西脇侍を寄進したのは法華寺であったことを考えると、この頃の坂田寺はかなりの財政力と中央との太いパイプを持っていたことが伺われる。
奈良時代の坂田寺は発掘調査でかなり判明してきている。
信勝尼のいた奈良時代前半にはすでに金堂は建てられており、出土する土器から法会も催されていたことがわかる。
また、伽藍の西方に大型の掘立柱建物があり、信勝尼の住居として有力視されている。
回廊や講堂、回廊内建物がこの段階で建てられていたかは確認できないが、少なくとも、金堂の須弥壇が改修される765年以降には存在していたものと考えられる。
その伽藍配置は、北面回廊に中門があり、東面回廊に金堂が接続する。
回廊内には2棟の建物があり、回廊外の東方にも須弥壇をもつ建物がある。
さらに山側にも、瓦葺建物が推定されている。(飛鳥資料館1983・明日香村2000・奈文研1981c・1992・1993・西川2005・西口2002)。
 

大和和田廃寺

2021/12/30追加:
大和和田廃寺(大野丘北塔)
○「日本書紀」敏達天皇14年(583)二月の条には次のようにあるという。
 「14年春2月戌子朔壬寅、蘇我大臣馬子宿称、起塔於大野丘北、大会設齋。即以達等前所獲舎利、藏塔柱頭」
2002/04/29撮影:
 水田中に「大野丘」と呼ばれる塔跡の土壇を残す。
寺域は藤原京右京十一・十二条一坊に当たると云い、この付近にはトウノモト・堂の前の字名を残す。
土壇は南北約14m、東西約9.5m、高さ約1.7mを測り、発掘調査により、礎石抜き取り穴や根固め石が発見され、一辺が12.2mに復元できる塔基壇の西半分が残在したものである と結論づけられる。この塔は、基壇の版築土中の出土瓦などから、7世紀後半に創建され8世紀後半まで存続していたとされる。なお土壇上には側柱礎2個が残る。
 大和和田廃寺塔跡1     大和和田廃寺塔跡2     大和和田廃寺塔跡3
古くから大野丘北塔跡に疑せられている経緯がある。ただしこの遺跡から出土する瓦は7世紀中葉のもので、時代が合わないとされる。
 ※大野丘北塔:日本で最初に建てられた仏塔が大野丘北塔と云われる。どのような建築であったのかは全く不明と云う。「元興寺縁起」には刹柱を建てるとのみ記載される。
敏達天皇14年(585)仏教伝来とともに蘇我馬子によって建立されるも、1ヶ月後に物部氏により破壊されたとされる。(位置は今も不明)
西国三十三所名所圖會:巻之8:大野丘塔古跡
(和田村田圃の中にあり。今僅に小高く墳のごときもの存せり。この周の田の字を塔の田といふ。これにてその古跡なること明らかなり。昔は礎石ありしかども、田圃の普請に用ひし由聞こゆ。)
2007/02/10追加:(注)
葛木寺<葛城寺>の位置は確定していないが、飛鳥和田廃寺、大和尼寺廃寺(南)、御所朝妻廃寺の3ヶ所がその候補地とされる。
 ※葛木寺は聖徳太子建立の7ヶ寺の一という。
和田廃寺を葛木尼寺とする説の根拠は以下の通りで有力と思われる。
「続日本紀」光仁天皇即位前紀、「葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、於志止度、刀志止度、桜井爾」(童謡)が収録され、葛木寺が豊浦寺の西にあったと伝えられている。
「興福寺大和国雑役免坪付帳」(延久2年)には、和田廃寺の寺域が11世紀後半まで葛木寺の田であったと記す。
2008/02/27撮影:
 大和和田廃寺塔跡11   大和和田廃寺塔跡12   大和和田廃寺塔跡13   大和和田廃寺塔跡14   大和和田廃寺塔跡礎石
  土壇11・12の背景の山は畝傍山。礎石は土壇上面には3個露出、
  さらに礎石かどうかは不明であるが北側土壇立ち上り面に1個の礎石様の石がある。
2009/09/01追加;
「飛鳥の寺院 飛鳥の考古学図録3」明日香村教育委員会、平成19年 より
 大和和田廃寺発掘:西から撮影
2022/06/14追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
4.和田廃寺
 現在は水田の中に塔の基壇と若干の礎石を残すのみである。
1974年と75年に塔の南側と西側を調査するも、塔は7世紀後半に造営されたものと判明したが、それ以外の伽藍の痕跡は全く見出すことができずであった。
但し、出土瓦には7世紀前半に遡るものが多数あり、寺の創建は飛鳥時代のかなり早い時期であることも判明する。
 ところで、この古跡は大野北塔跡にあてる説と葛木寺跡とする2説がある。
大野北塔跡説は前述の「日本書紀」敏達14年(583)記事に基づくもので、和田廃寺には塔跡しか残っていなかった等の理由によったものであろう。
しかし、発掘調査の結果、塔の創建は7世紀後半と判明した為、大野北塔説は成立し得ない。
 葛木寺説は以下による。
「上宮聖徳法王帝説」に「葛木寺、葛木臣に賜う」とあり、「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」も推古と厩戸王子が「葛城尼寺」を建立したという。
宝亀2年(771)の「七代記」には「妙安寺、世人名為葛木尼寺」とあり、「日本霊異記」中巻縁第23にも「葛城尼寺」とある。
「聖徳太子傳暦」が「葛木寺また妙安寺という。蘇我葛木臣に賜う」とするのはこれらの記録を纏めたものであろう。
 →聖徳太子建立四六院
「続日本紀」宝亀11年(780)正月14日の条に、雷のため「葛城寺の塔并せて金堂等、皆焼け尽きぬ」とある葛城寺は、平城京左京5条6坊4坪にあり、平城京遷都後に飛鳥の葛城寺の法灯を受け継いだものであろう。
同じく「続日本紀」光仁即位前紀に、白壁王(光仁)の即位を予言した童謡の一節、「・・・葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、・・・」とあり、葛城寺は豊浦寺の西にあることになる。
延久2年(1070)の「興福寺大和国雑役免坪付帳」には、葛木寺の田一町九反六十歩が南貴殿町にあって、その位置は完全に重なる(大脇1997a)。
和田廃寺が葛木寺であることはかなり有力である。
なお、康和3年(1101)の「定林寺妙安寺所司等解」には定林寺と共に法隆寺末であった。
2022/11/10追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。
2022/11/14追加:
○「和田廃寺第2次の調査」奈文研、昭和50年10月〜51年3月
通称「大野塚」土壇を中心とした地域の発掘調査を実施する。
【塔】〔概要〕
 「大野塚」の上壇は、東西9.5m、南北14m、高さ1.7mの大きさで、やや南北に細長い精円形である。
上壇上には、礎石が2個露出し、瓦の破片が多量に散乱する。
調査の結果、基壇上において、礎石3、礎石抜取痕跡3、根石群2を検出し、塔であることを確認する。
塔SB200は東半部が破壊され、西半部が残存していた。
〔心礎抜取穴〕
 まず心礎跡として、土壇東辺中央部で、径1.5m、深さ1.2mを測る大型の礎石抜取跡と、その西よりに半円形に並ぶ根石5個を検出する。
心礎抜取痕跡には、多量の灰化物と焼けた花闘岩片が散乱しており、心礎を焼いて破砕したことを示している。
〔西側四天柱礎根石〕
 心礎抜取痕跡の西1.5mで南北に並ぶ四天柱跡の位置を示す根石2カ所を検出する。
〔北側柱礎抜取跡〕
 その北側には北側柱列の西第2とみてよい礎石抜取痕跡がある。この礎石抜取痕跡も焼けた形跡がある。
〔南側柱礎根石〕
 また南側には、南側柱列の西第2とみられる礎石と露出した根石がある。礎石は南へ傾斜し、わずかながら原位置から移動している。
〔西側礎石/抜取痕〕
 四天柱列の2.4m西側で、南北に並ぶ西側柱列の北第2、北第3にあたる2個の礎石、北第4にあたる礎石抜取痕跡を検出する。北第2、北第3の礎石は、いずれも西に大き
く傾斜し、根石も露出している。また北第4の礎石跡では、礎石を焼いて抜取った痕跡をとどめる。
 礎石は花脇岩製である。西側柱列北第2の礎石は、約1.3m×l1.0m、厚さ0.9m大で、その上面に径0.72mの円形柱座とその両脇に幅0.4mの地覆座を造り出す。
北第3の礎石は、1.5m×0.9m、厚さ0.8m大で、やはり同規模の円形柱座と地覆座を造り出している。
両者とも、円形柱座と地覆座は、建物に隠れ、外から見えない部分の加工を省略している。
〔南側柱礎石〕
 また南側柱列の西第2の礎石は、1.1m×1.5m、厚さ0.9m大で、火をうけて上面が割りとられている。
 塔心礎の上面高は、四天柱及び側柱礎石の上面高とほぼ同一に復原できる。
〔塔基壇〕
 基壇の築成方法は、旧地表面を40〜50cm掘りこんで、掘込み地業を行う。
掘込み地業は、径15〜20cm大の礫を敷き、その上に裾色土と黒褐色上の混った土で25cm程の高さまで、数cmずつつきかためる版築をおこない、再び同様の礫を敷き、さらに基壇上端まで版築する。
掘込み地業と基壇の関係は、北面では掘込み地業の外側まで基壇積土が延びる。
 現在する基壇の高さは、掘込み地業の面から1.3mで、礎石を根石上に据え直して復原すれば、約1.8mとなる。
基壇化粧石およびその据えつけ痕跡は検出されなかった。ただ、基壇をおおう表土および基壇の南SX214で廷石とみられる凝灰岩切石が出上しているので、凝灰岩を使用していたことはまちがいない。
以上の調査結果からすれば、塔の規模は基壇化粧部分を除けば一辺12.2m(約41尺)に復原でき、柱間は3間を2.4m(8尺)等間に割り付けられる。
【塔に関するまとめ】
〔塔の創建と廃絶時期〕
まず塔の築造年代は、7世紀後半と想定できる。
その理由として、一つには基壇版築土中から、豊浦寺・奥山久米寺および法輪寺の塔心礎羨から出上した瓦と同型式とみてよい、中房が半円球状に突出する単弁8弁蓮華文軒九瓦および同時期の九・平瓦が出上していること。
二つには塔および周辺から出上した軒丸瓦の70%近くを複弁8弁蓮華文軒丸瓦が占めていること。
三つには、心礎上面と四天柱の礎石上面はほぼ同一高をなすことがあげられる。
 またその存続年代は、基壇上および周辺から出土する軒平瓦のうち、奈良時代後半の軒平瓦がその80%を占めており、この時期以降の軒瓦の出土が皆無に近いので、8世紀後半までは少なくとも存続していたと考えられる。
〔豊浦寺門前礎石〕
 なお、塔の礎石に関連していえば、現在豊浦の向原寺門前に置かれている花闘岩製の礎石は、かつて和田廃寺から持ち運ばれたものと言われている。その大きさは1.5m×l.2mほどで、上面に径0.72mの円形柱区に直角方向に交差する2方向の地覆座を造り出しており、隅柱の礎石と考えられる。この礎石も外から見えない内側の加工を省略しており、今回塔で検出した礎石と極めてよく似ている。したがって、塔の隅柱として使用していた可能性が高い。
〔和田廃寺の比定〕
ところで、「大野塚」を中心とするこの一帯については、「大野塚」を書紀にみえる「大野丘北塔跡」に推定する『大和志』の説や、「和田廃寺」を「葛木寺」に比定する福山敏男氏の説がある。
前説については、塔の造営時期が7世紀後半と考えられるので問題があり、後説についてはそれを確定する材料は得ることができず。
 和田廃寺塔跡発掘
2022/05/22撮影:
礎石写真の名称は上掲の「和田廃寺第2次の調査」に準拠する。
 和田廃寺塔土壇     西側柱列の北第2・北第3礎石
 西側柱列の北第2礎石1     西側柱列の北第2礎石2     西側柱列の北第2礎石3
 西側柱列の北第3礎石1     西側柱列の北第3礎石2     西側柱列の北第3礎石3
 南側柱列の西第2礎石1     南側柱列の西第2礎石2     南側柱列の西第2礎石3
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
和田廃寺(妙安寺・葛城寺・葛城尼寺)
 和田廃寺は山田道の北方水田にある。現在は塔の土壇と、若干の礎石が土壇上に残されているのみである。
 和田廃寺については、大野丘北塔にあてる説と、葛城寺にあてる説があった。
前者は、「大野丘」が「甘樫丘」に比定されることや、塔以外の堂の建立記事がみられないことから、敏達14年(585)2月15日条にある蘇我馬子が建てた「大野丘北塔」に比定するものである。
しかし、発掘調査の結果、この塔の造営年代が7世紀後半と判明したため、この説は成立しなくなった。
一方、後者は、『上宮聖徳法王帝説』に「葛木寺、葛木臣に賜う」とあり、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』に聖徳太子建立の寺に「葛城尼寺」をあげている。『聖徳太子傳暦』にも「葛木寺また妙安寺という。蘇我葛木臣に賜う」とある。また桜井が「葛城寺の前にあり。豊浦寺の西にあり」(光仁即位前紀条)とあることが根拠とされる。
発掘調査では川原寺式瓦(銘歯紋縁複弁蓮華紋)を葺く7世紀後半の塔だけで、西と北には関連する仏堂や回廊は確認されていないので伽藍配置は明確ではない。ただ、7世紀中頃前後の掘立柱建物が確認されており、さらに7世紀前半の古い段階の花組・雪組・奥山廃寺式(角端点珠素弁蓮華文)・圏線状外縁素弁十一弁蓮華文瓦も一定量出土しているので、この時期の小規模な堂があった可能性がある(奈文研1975・1976a)。

大和田中廃寺

2002/04/29撮影:
○蘇我氏系田中氏の氏寺として建立されたとされる。
現地にある法満寺附近が田中宮・田中廃寺の推定地とされるも、詳細あるいは遺構は不詳。
1990年(病院建設に伴う事前調査)からの数次の発掘調査で、伽藍中心は「弁天の森」付近とする説が有力と思われる。(病院の西南隅に、発掘成果を伝える碑があると云う。・・・未見)
  田中廃寺跡付近:病院改装現場
2008/01/08撮影:
○塔心礎とされる礎石が法満寺に残存する。但し大きさが小さいあるいは心礎とする明確な根拠が無いなどで心礎かどうかは不明とされる。
現状の大きさ(実測):大きさは80×50cm、形16cm×深さ7cmの円孔を穿つ。
 田中廃寺心礎1     田中廃寺心礎2     田中廃寺心礎3
○「飛鳥時代寺院址の研究」:
心礎は1/3を割られているが、径2尺3寸の円形柱座を造出し、中央には径6寸×2寸5分の孔を穿つ。但し心礎としては小さく、心礎と断定はできない見解を採る。
 伝田中廃寺心礎     伝田中廃寺心礎実測図
2022/05/22撮影:
 田中廃寺心礎4     田中廃寺心礎5
 天王薮南の巨石:法満寺の北西すぐに天王薮と云う高まり(人工ではなく自然の岡と思われるが不明)がありその端に巨石がある。法満寺住職談では法満寺北東一帯は田中宮跡とされ、この巨石は東側から引かれてきたという。
2022/06/17追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
10.田中廃寺
田中町法満寺付近が寺跡と想定される。
1990年法満寺西方約100mの地点で発掘調査が行われ、寺の区画施設などが見つかり、その結果調査地点の南にある「弁天の森」と呼ばれる土壇が金堂跡と目されるに至る。
しかし、未だ伽藍配置を特定するには至らず。
 ※弁天の森は法満寺の西方約100m附近にある。未見であるが、ここに厳島社(弁財天)の小祠がある。ここは土壇状を呈している。
田中廃寺は出土瓦から見て、7世紀中頃に創建されたものと見て良い。
なお、田中正敬はこの田中廃寺と平城京右京四条四坊にある平松廃寺との同笵関係を指摘し、田中臣の氏寺たる田中廃寺が平城京遷都にともなって移建された可能性を述べている。(→後述)
2022/11/14追加:
○GoogleMap より
 辨天の森:土壇とも思われる不整形な土壇がある。弁財天祠、小さいながら磐座などが土壇上にある。(未見)
○2022/05/22法満寺より入手した複写物(元の書籍名は不明)
・法満寺:
 附近から飛鳥期の瓦が出土。庭の礎石は1/3を欠くが、径67.8cmの円形造出があり、中央に円孔が穿ってある。
田中廃寺跡は舒明天皇田中宮の旧跡に擬せられるも、当時の皇居に瓦の使用は考え難いから、宮跡とは思われない。
石田博士(茂作であろう)は稲目宿禰の後裔である田中氏の氏寺に擬す。
法満寺西160mほどに小祠を祀った18m四方の土壇があり、小詞前に手水鉢があり、円柱座の加工のある礎石に水舟を穿ったものである。昨年調査したが所在不明であった。
○2022/05/22法満寺より入手した複写物(「田中宮跡・田中廃寺」2017年橿原市教育委員会ルーフレット)
 田中宮は舒明8年(636)舒明天皇が飛鳥岡本宮の焼失後、百濟宮に遷るまでの間、仮宮としてこの地に構えたと云われ、その後寺院(田中廃寺)が建立されたとも考えられる。
是迄の周辺の発掘調査で、総柱の建物や四面に廂を持つ大型建物、回廊と思われる柱穴が確認されている。
瓦の他に、日本最古と考えられる梵鐘の鋳型の一部、坩堝、鉄・銅の破片なども発見されている。(橿原市博物館展示)
また、藤原京の造営に伴い、2町四方に収まるように、寺域の西部分は縮小されたことが判明している。
しかしながら、田中廃寺の伽藍配置は不明のままである。
○2020年奈良県埋蔵文化財調査センタープレス発表
平松廃寺
 平松廃寺は平松3・5丁目に所在する、平城京の条坊復原では右京五条四坊十二坪にあたる。
昭和12年に発見され、所在地名から平松廃寺と名付けられる。出土する軒瓦の年代から7世紀後半の創建寺院とみられて来た。
出土した8世紀の瓦の中で、田中廃寺との同笵瓦があり、本廃寺は田中廃寺の後身寺寺院ではないかという説が云われてきた。
 今回(2016年)、右京四条四坊十二坪の北東部で調査が行われ、遺構としては奈良前半の整地痕跡や奈良期の溝を確認しただけであるが、溝から多量の8世紀の瓦類が出土する。
その中で、7世紀後半の軒瓦が2種出土し、2種とも橿原市教育委員会に持参し、実物同士付き合わせた照合作業の結果、2種とも田中廃寺創建瓦と同笵と判明する。
このことから、平松廃寺の前身寺院が田中廃寺であることが確実となる。
今回の展示では、田中廃寺との同笵瓦の他、過去の平松廃寺の調査で出土した軒瓦も展示する。
なお、 平松廃寺からは、平城宮の第一次大極殿でも使われた黒みを帯びた「黒瓦」と呼ばる瓦も出土する。
また、「黒瓦」の中には、平城京薬師寺や飛鳥本薬師寺と同笵の軒丸瓦(「複弁八弁蓮華文」)も出土する。これらのことは、平松廃寺が官寺扱いであった可能性を示唆するとも思われる。
2022/11/10追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
田中廃寺(法満寺か)
 山田道の北方の平地部に位置する。
橿原市田中町の法満寺境内に礎石があり、周辺から瓦が出土することから、法満寺周辺に寺跡が推定されている。
地名から造営氏族は田中臣とみられ、舒明朝の田中宮も近辺に想定される。
 法満寺西方にある「弁天の森」が金堂基壇と推定されているが、伽藍配置等は明らかではない。
ただし、寺域は藤原京条坊施工に合わせて、変更されていることが判明している(橿原市1993・竹田1995)。
出土瓦から見る限り、山田寺式瓦や重弧文軒平瓦の7世紀中頃に創建されたとみられ、藤原京造営に伴って、寺域が縮小し、奈良時代後半までは、建物があったと推定されている。
 

大和久米寺

 大和久米寺多宝塔・塔跡
 

軽寺跡・厩坂寺跡・石川精舎跡
  軽寺跡<大軽町法輪寺付近、あるいはウラン坊(浦坊)廃寺に比定される>
  厩坂寺跡<丈六北・南遣跡、藤原京南西地区の土壇、あるいは飛鳥久米寺に比定される>
  石川精舎跡<ウラン坊(浦坊)廃寺、あるいは石川町本明寺に比定される>
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

2022/06/03追加:
○「U遺跡の位置と環境」大協潔<「軽池北遺跡発掘調査報告」軽池北遺跡調査会、1977.3 所収> より
 軽池北遺跡航空写真     周辺の遺構
1.見瀬丸山古墳:6世紀最大の前方後円墳(全長約310m、後円部径約155m、前方部幅約220mを測る。)
被葬者については、欽明天皇と堅塩媛を合葬した桧隈坂合陵あるいは宣化天皇・身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)にあてる説がある。
2.法輪寺周辺:軽寺跡に比定される。
法輪寺は見瀬丸山古墳北方の台地上に位置し、現在は本堂が一棟残るのみである。この本堂下には東西約25m、南北約20m、高さ約1.5mの土壇があり、また本堂の北西にも長方形の土壇状のたかまりがある。これらの二つの上壇周辺からは、飛鳥期末から奈良・平安・鎌倉期にかけての古瓦が出上して、飛鳥期創建の寺院跡と考えられている。
石田茂作は本堂下の上壇を金堂跡、本堂北西の上壇を講堂跡にあて、金堂の西に塔を配する法隆寺式伽藍配置と推定している。
保井芳太郎は本堂の南、民家一戸を隔てた位置に男治末年まで存在した妙観寺跡から円形の造り出しをもつ礎石13個が出上したことを伝え、これを塔あるいは金堂跡とし、本堂下の上壇を講堂跡とも考えられるとしているが、本堂北西の土壇については言及がない。
現状では法輸寺周辺に約100m×75mの南北に細長い平坦地が認められ、本堂下の上壇を金堂跡とし、その南と北に塔と講堂を配する四天王寺式伽藍配置を推定することも可能である。
伽藍配置などについては今後の本格的調査に俟つ点が多い。
ところで、この寺院跡については諸説とも一致して軽寺跡に比定している。
軽寺については「日本書紀」朱鳥元年(686)に松隈寺、大窪寺とともに30年を限って封百戸を施入された記事がみえ、また『御堂関白記」には寛弘4年(1007)に藤原道長の一行が金峯山詣での折りに軽寺に宿した記事がある。
さらに延久2年(1070)の『興福寺雑役免坪付帳」には、その寺田の所在が記載されている。
福山敏男はこのほかに『統遍照発揮性霊集補閥鋤」巻第十の「故鰭僧正勤操大徳影讃井序」の一節にみえる「駕龍寺」を軽寺のこととし、同じく「遍照発揮性霊集」第二に収める「大和州益田池碑銘井序」の「龍寺Jを「駕龍寺」を略したものと解釈し、平安初期に築かれた益田池東方に軽寺があったとする。
さらに『御堂関白記』の日程記事を引き、道長が南都大安寺から中ツ道沿いの井外堂(現天理市西井戸町付近)を経て軽寺に宿し、翌日以降董坂寺、観覚寺を経て金峯山に至る行程から軽寺を益田池東方の下ツ道沿いにあったものとし、位置関係から法輪寺を軽寺跡とする。このほかの説もおおむねこの範囲を出るものではない。
3.ウラン坊廃寺:石川精舎あるいは厩坂寺に比定される。
石川町の北方、推定山田道に面する水田一帯は字ウラン坊と呼ばれている。
最近までこのウラン坊の西寄りの道路上に花曲岩製の唐居敷が放置されていたが、道路拡幅時以降所在不明となる。
このほかに円形の造り出しを持つ礎石6個が大正7年にこのウラン坊から発見されたと伝え、また周辺から複弁蓮華文軒丸瓦や重弧文軒平瓦が出上することも知られている。
寺域の範囲などについては不明な点が多いが、7世紀後半に建立された寺院跡と考えられる。
保井芳太郎はこの寺院跡を石川結合跡に、福山敏男は厩坂寺跡に比定している。
 このうち石川精舎跡については『日本書紀』などに敏達13年(588)蘇我馬子が百済使床深臣の持てる弥勒石仏と佐伯連の有する仏像を石川宅に安置したのをその始まりとしたと伝える。
保井氏はこの石川精舎の所在を石川町宇ウラン坊付近とするが、飛鳥時代に遡る古瓦の出上をみない点から断定を避けている。
これに対して、佐藤小吉は石川宅の所在を河内国石川郡にあて、石川精舎ウラン坊所在説には否定的である。
厩坂寺の沿革については、『興福寺縁起』『興福寺伽聴縁起』などによれば天智2年(663)創建の山階寺を天武元年(673年)高市郡厩坂に移したものとし、さらに和銅3年(710)平城遷都にともない春日の地に移り興福寺と称したと伝える。この高市郡厩坂が軽坂と同地とすれば、やはり厩坂寺も軽の地に所在したと考えられ、福山氏はウラン坊廃寺と軽寺を除いては天武朝の瓦を出土する遺跡が軽周辺に認められないことから、ウラン坊廃寺を厩坂寺にあてている。
ウラン坊から出土する古瓦は、川原寺や紀寺跡から出土するものとほぼ同時代と考えられ、今のところそれ以前のものも以降のものも知られていない。このことは厩坂寺が天武元年から和銅年間まで存続したという記事に符合しウラン坊廃寺を厩坂寺跡とする説に有利である。
しかし平城遷都にともなって旧京から諸寺が移る場合、その多くは旧京における瓦を再用していることが近年知られつつある。興福寺食堂の調査では、7世紀後半に遡る瓦が数種類出土しており、そのうち第6型式とされるものは厩坂寺に用いられていたものと推定されている。しかしこの瓦はウラン坊廃寺では知られていなく、むしろ久米寺などに同絶のものが知られていて、なお多角的な検討が必要であると考えられる。
4.丈六北・南遣跡;厩坂寺に比定する説もある。
下ツ道と推定山田道交点西方の丈六台地から多数の掘立柱柱根と礎石が発見されている。
丈六北遺跡では、昭和15年に直径30cm前後の掘立柱多数が検出されている。
工事中の調査であるため建物の配置、年代などは明瞭にされなかったが、相当大規模な遺構の一部と考えられ、舒明天皇の厩坂宮跡の一部とする説もある。
道路を隔てた丈六南遺跡からは昭和31年に礎石9個がやはり工事中に発見された。これらのうち3個は中央に柄穴をもち、ほかのものは上面を平らにしたものであったという。
その柱間は約1.8mを測るが、建物の性格は切らかでない。周辺から古瓦・蓮華文鬼板や土器などが出上したと伝え、これを厩坂寺跡に比定する説もある。
5.藤原京南西地区(橿原市石川町282番地)
この遺跡は下ツ道と推定山田道交点の東方約100mにあたり昭和48年秋に住宅建設に先立って調査がおこなわれた。
調査地は軽池北遺跡の西方を南北にのびる谷の出口付近にあたり、13世紀前半頃に形成された旧河道が検出されている。遺物には弥生時代後期から13世紀に及が土器をはじめ、7世紀後半の瓦、土馬、銅銭などがあり12〜13世紀の瓦器、土師器が主体を占める。それらのうち「延末J「延末女」「義切房」「薬師」「□□神王」「不知姓御子」の名称を付した絵皿が注目される。
以上あげた他にも平安期から中世にかけての上器が数ケ所で出土している。しかし、いずれもその遺構の性格は切らかでない。平安期以降の軽周辺については、不切な点がなお多い。
2022/06/03追加:
○「飛鳥・藤原京の謎を掘る」千田稔・金子裕之、文英堂、2000.3 より
厩坂寺の比定地については
 ウラン坊(浦坊)廃寺の他、
 昭和15年に多数の掘立柱建物跡が見つかった橿原市久米町の丈六北遺跡、
 昭和31年に礎石などが見つかった丈六南遺跡を厩坂寺
  とする説があることを紹介する。


浦坊(ウラン坊)廃寺(石川廃寺)

2022/06/26追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
20.浦坊(ウラン坊)廃寺(石川廃寺)
 保井芳太郎は、石川精舎の跡を「大和志」が挙げる石川町本明寺付近である説を退け、浦坊廃寺を石川精舎跡とした。
ウラン坊廃寺は字ウラン坊にあり、1918年夏に礎石6個や古瓦が出土する。礎石は径15cmほどの円孔を持つものや径450cmあるいは60cmの円柱座を造り出したものであったようだが、現存せず。
「日本書紀」敏達13年(584)に「馬子宿禰、亦、石川の宅にして、佛殿を修治つくる、佛法の初、これよりおこれり」とある。
この石川の宅の佛殿を本邦最初の佛寺とするが、まさにその石川廃寺の有力地である。ただ、周辺で行われた発掘調査でが寺の存在を示す遺構の発見はなく、実態は不明のままである。


丈六南遺跡

2022/06/26追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
21丈六南遺跡
 昭和11年に開始された橿原神宮周辺整備事業でここが土取り場となり、その工事中に多数の柱根が発見される。
昭和31年にはここから礎石が発掘される。礎石は約1.8m間隔で東西に並び、礎石上面には枘孔を有するものもあった。
礎石は大小不同で、時代は明らかでない。
その後は、新しい史料も発見もなく、まったく実態は不明である。
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
丈六南遺跡
 下ッ道と山田道の交差点にあたる軽衢の南西に位置する遺跡である。
1936年の橿原神宮周辺整備に伴う土取りで、多数の柱根が発見された。
また1956年には、1.8m間隔で礎石が並んでいた(末永1961・藪内1993)とされるが、伽藍配置などは明確ではない。
ここでは雪組のほか、平城宮式軒丸瓦が出土している。


厩坂寺跡

2022/06/03追加:
上記のウラン坊(浦坊)跡、丈六北・南遣跡の他、藤原京南西地区の土壇、飛鳥久米寺などが厩坂寺跡と比定される。
◇ウラン坊(浦坊)跡、丈六北・南遣跡については上記を参照。
◇藤原京南西地区の土壇:
○各種Webサイト;
舒明天皇厩坂宮推定地とされる土壇を厩坂寺跡とするサイトが多くみられる。
上記の<○「U遺跡の位置と環境」大協潔>中の「5.藤原京南西地区(橿原市石川町282番地)」に相当する位置と思われる。
しかし、どういう根拠でこの位置を厩坂宮・厩坂寺跡とするのかは分からない。
※「厩坂」は『日本書紀』によれば軽坂の上に建てられた厩に起源をおく地名で軽坂と厩坂は同地に存在したことが知られる。
厩坂には舒明天皇の「厩坂官」や藤原氏の氏寺である興福寺の前身「厩坂寺」が造られたと伝えられている。
というような一文もあり、「日本書紀」の記述が推定の根拠なのであろうか。
 Google航空写真
◇飛鳥久米寺説:
瓦から見る古寺の歴史-飛鳥〜奈良時代の30点/帝塚山大学付属博物館で特別展(2020年12月) より
 ※久米寺を厩坂寺と比定
久米寺(橿原市)出土の瓦は、大きな円点を並べた連珠文が特徴。同じ瓦は興福寺(奈良市)でも出ていて、久米寺を興福寺の前身・厩坂寺と推定する根拠となっている。
 久米寺出土瓦:帝塚山大学蔵、興福寺の前身・厩坂寺と推定する根拠である。
 → 飛鳥久米寺

大和石川・石川精舎跡

2022/06/03追加:
○日本大百科全書(ニッポニカ) より
石川精舎:
日本最古の寺院といわれる。奈良県橿原(かしはら)市石川町に遺跡がある。
『日本書紀』によると、敏達天皇13年(584)百済から帰朝した鹿深臣(かふかのおみ)と佐伯連(さえきのむらじ)が2体の仏像を持ち帰ったが、これを得た蘇我馬子は自邸の東方に仏殿をつくって善信尼ら三尼に供養させる。後に馬子は石川の宅に仏殿をつくり二尊像を移し、仏法の初めとしたとある。これが石川精舎である。
○精選版日本国語大辞典  より
敏達天皇13年(584)蘇我馬子が石川の自宅に仏像を安置したというのが日本最初の寺。現在の奈良県橿原市石川町の浄土宗本明寺の地とされる。
○石川町本明寺の案内札
次のように記す。
「石川精舎。今本明寺と称す。敏達天皇13年、蘇我馬子、百済より貢するところの仏像を請い受け、己が石川の宅に於いてこれを安置す。仏法の初まりは茲より作れりという。」
石川精舎跡(本明寺)
○「日本歴史地名大系第30巻 奈良県の地名」 より
石川精舎については、『大和志』に「石川廃精舎、石川村古址、今有本明寺及石浮屠高丈余許」とあり、現石川町の浄土宗本明寺の地をその跡と伝える。
しかし、同寺付近には古瓦の出土もないことから、他にこれを求めるべきであるともいわれている。
同町小字ウラン坊とする説や、河内国石川(現大阪府羽曳野市・柏原市付近)の地に求める説もある。
○本明寺略歴
本明寺は石川精舎の跡に建てたと伝える由緒を持ち、境内に土垣が残り巨大な五輪塔(鎌倉期)がある。
五輪塔は蘇我馬子の塔と伝えられ、高さ2.3m。
五輪塔は『越智家譜伝』によると、大永3年(1523)久米寺石川の合戦に討死した32人の追善供養の為に越智家栄が建てたとあるという。
五輪塔は、もとは久米町イモアライ地蔵境内にあったといわれ、越智氏の先祖を守るために置いてあったものを移すという。
 ※いもあらい地蔵尊は久米仙人が墜落したというところで、大和久米寺の「いもあらい地蔵尊」の項にあり。
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。
2022/05/22撮影:
石川精舎跡に建立されたという本明寺は、高台に位置し、遠方より遠望すると相当な平坦地になり、伽藍建立の適地のように見える。
 石川本明寺1     石川本明寺2:本堂向かって左手に黒っぽい五輪塔(馬子の墓と云う)が写る。
 石川本明寺本堂     石川本明寺境内

大和軽・軽寺

2022/06/03追加:
○「飛鳥池出土の寺名木簡について」伊藤敬太等、竹内亮(「南都仏教 79号」南都佛教研究会 2000 所収) より
軽寺跡とされる遺構には現在法輪寺本堂が1棟建つのみである。本堂下には25×20m高さ1.5mの土壇を残す。本堂北西にも長方形の土壇を残す。伽藍配置は不明。
かって法輪寺南に妙観寺があり、そこから多数の礎石が出土したから、妙観寺跡を塔跡、法輪寺本堂を金堂とする四天王寺式伽藍が想定される。(大脇潔説)あるいは現法輪寺西側隆起を塔跡とし法隆寺式伽藍配置も想定される。(石田茂作説)
2022/06/17追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
9.軽寺
軽寺は駕籠寺または加留寺とも書き、あるいは大軽寺ともいう。寺号は法輪寺か。
「日本書紀」朱鳥元年(686)檜隈寺・大窪寺とともに封戸百戸を30年に限り与えられるという記事が初出である。その後の沿革は不明。
寛弘4年(1007)藤原道長が軽寺に宿泊(「御堂関白記」)
「和州旧跡幽考」(江戸期)では「軽寺縁起」(年代不詳)を引いて、加留大臣玄理が唐から持ち帰った薬師如来を本尊として建立したとする。ただ加留大臣玄理を高向玄理とすれば、玄理が帰国したのは舒明12年(640)であるから、年代が合わない。
その後、平安・鎌倉期にかけては、「諸寺雑記」に見え、講堂に釋迦や観音像があり、三重塔と回廊が残っていたという。
 寺名から考えて、「軽」を氏名とする氏族の建立とするのが妥当だろう。だとすれば、軽部臣・軽我孫・軽忌寸の三氏族が存在する。
軽寺跡は、推定金堂と講堂の土壇が残り、金堂の西に塔を並べる法隆寺式伽藍が想定される。
2022/11/10日追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。
2022/05/22撮影:
軽寺跡と想定される法輪寺は、圓山古墳の北に位置し、現在は法輪寺と北西に春日明神がある。また境内は應神天皇「軽島豊明宮跡」と伝承されるが、何が根拠かは分からない。
法輪寺境内に金堂及び講堂(あるいは塔)と推定される土壇を残す(明確には分からない)のみで、土壇の位置や地形から法隆寺式とも、塔跡を別に求め、四天王寺式伽藍ともいう。
 軽法輪寺入口     軽法輪寺本堂     軽法輪寺高まり
 島豊明宮跡石碑     軽春日明神1     軽春日明神2     軽春日明神3
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
軽寺(法輪寺)
 下ッ道と山田道の交差点にあたる軽衢の南東に位置する寺院である。現在も法輪寺が所在している。
 朱鳥元年(686)8月21日条には、檜隈寺・大窪寺とともに封百戸を30年間に限って与える記事があるのが初出で、この時期に軽寺があったことがわかる。また、飛鳥池木簡にも「軽寺」とある(伊藤ほか2000)。
その後、平安時代の寛弘4年(1007)に藤原道長が軽寺に宿した記事があり、平安時代から鎌倉時代の軽寺は、『諸寺雑記』に講堂に釈迦・観音像があり、塔と回廊が残っていたことがわかる。
土壇の残存状況や地形からみて、法隆寺式伽藍配置が推定されている。この軽寺の造営氏族としては、寺名から推測して、軽部臣や軽我孫・軽忌寸が推定されるが、軽忌寸の可能性が高い。出土瓦から、軽寺式(素弁八弁蓮華文)が創建瓦と考えられ、7世紀中頃と推定されるが、各堂塔の造営時期は明確ではない(大脇2005)。
なお、寺域では北面大垣が確認されている(橿原市1999)
 

大和定林寺(立部寺)<史跡>

○2008/01/08撮影:
 聖徳太子建立46寺の一寺とされる。 その創建や寺史については全く分からない。
しかし、現在の定林寺の西、字奥の堂の春日社境内に塔跡の土壇や礎石などの建築遺構が残る。
昭和27年石田茂作らの発掘調査の結果、塔の心礎が確認され、さらに出土品から、飛鳥朝創建であると確認される。
昭和28年の発掘調査では、塔跡・廻廊跡の発掘が行われ、心礎は花崗岩で、地下六尺七寸(2m)にあり、大きさは九尺三寸(2.8m)×五尺八寸(1.8m)で径二尺七寸(82cm)、深さ三寸(9cm)の円形柱座を掘り込んだものと判明する。 しかし寺院跡はかなり削平され、全貌の確認は困難であったが、諸学説では法起寺式と云う伽藍配置が有力である。古代定林寺は鎌倉時代に焼亡したと推定される。
 塔  土 壇1     塔土壇・礎石      塔  礎 石
○2008/01/22追加:
定林寺の西の丘上の狭い地域に塔土壇(西側)と堂宇土壇(北側、元春日明神社殿跡、金堂跡か講堂跡か良く分からない)の2個の土壇を残す。塔土壇には数個の礎石を残す。
◆以下は昭和28年地下から心礎が発掘される前の論考である。
2013/11/23追加:
明治38年高橋健自の報告(「考古界雑誌」四ノ一)がある。・・・未見(「続明日香村史 上巻」2006年 より)
2009/03/08追加:
○「奈良県史蹟勝地調査会報告書 第3回」奈良県史蹟勝地調査会、1977(原本大正5年) より
委員は天沼俊一、寺址には元春日社の拝殿・社殿等在りしが、近年他に移し同時に跡地は全部開墾せられて畑地となれり。余は明治41年遺跡を踏査せる際、礎石4個を認めたるが、【高市郡史蹟概覧】によると、講堂址は土壇明らかにして礎石4個、金堂址は規模不明なるも礎石及び土壇の一部、塔址は礎2個及び土壇殆どを存せしと云う。礎石は今同所脇本元吉方庭内に4個を存す、外に心礎の残欠と認めらるる石の破片を蔵せり。
 定林寺塔心柱礎の一部・・・この復原図が正しいとすれば、その形状からこの石製品は心礎ではなく、石製露盤(残欠)であろう。
 大和定林寺堂礎石
○「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作、昭和3年/昭和19年刊:
高さ約4尺、一辺約24尺の方形土壇がある。発掘により5個の礎石が認められた。
側柱礎石は円形柱座を持ち、地覆座のあるものもある。基壇は二重基壇で上成基壇は凝灰岩を壇上積にした方11.0mの基壇で、下成基壇は板石を立て並べており方12.6m四方となる。塔一辺は約5.8m(塔間)である。
 立部寺塔跡実測図
中央礎石は掘り出されているが、その残片と思われる礎石が高市村脇本英雄氏の庭にある。
円形刳り込みの一部と見られるが、復元すると、一辺4尺5寸の方形切石で、四周に巾2寸高さ3分の縁を持ち、中央に径2尺8寸高さ3分の円形穴を持つものと推定される。
 推定立部寺心礎残欠実測図・・・ただし、 昭和28年に心礎は塔跡から発掘され、従ってこの残片は心礎ではない 。
  大きさ(一辺133cm、円穴径58cm)や形状から石製露盤(残欠)であろう。
◆以下は昭和28年地下から心礎が発掘された後の論考である。
2013/10/26追加:
○「橘寺・定林寺の発掘」石田茂作(「近畿日本叢書 第3冊 飛鳥」近畿日本鉄道、1964 より
昭和28年発掘調査の成果を加味したものである。
 定林寺址調査実測図:「昭和3年調査と28年調査を1図に収む」とある 。
○「定林寺の調査」(「飛鳥・藤原宮発掘調査概報 8」、1978 所収) より
 定林寺伽藍実測図
○「日本の木造塔跡」昭和57年(1982):
昭和28年の発掘調査で、地下2mで心礎が発掘される。大きさは2.8×1.7mで、径82×深さ9cmの円穴がある。側柱礎は5個残存、いずれも柱座を造り出す。
基壇下層は板石を並べた石積で一辺12.7m、上層は壇上積基壇で一辺11.2mの二重基壇であった。高さは合わせて97cm、塔一辺は5.7mと推定。講堂跡は判明するも金堂跡は不明と云う。
○「大和の古代寺院跡をめぐる」網干善教、学生社、2006 より
高橋健自の「古刹の遺址−定林寺」(考古界 第4篇3号」考古学会、明治37年/1904 所収)では、伽藍配置は法隆寺式と想定する。
上述の昭和3年石田茂作の「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作、昭和19年刊では、金堂跡は不明ながら講堂跡・塔跡からみて、法隆寺式伽藍配とする。塔跡には5個の礎石が遺存し、塔1間6尺3寸(1.9m)塔一辺は19尺(5.9m)あるとする。
昭和28年石田茂作は、上述のように、地下塔心礎を発掘する。
昭和52年一部の発掘調査が行われ、奈良国立文化財研究所の 「定林寺の調査」(「飛鳥・藤原宮発掘調査概報 8」、1978 所収)では、従来講堂跡とされた土壇は総体として乱雑に土が盛られたもので、版築などは認められず、上面には礎石抜取痕跡があり、一部乱石積基壇はみられるものの、到底飛鳥創建当時のものとは思われず、鎌倉期以降の土壇であろうとの見解が示される。
○2017/03/09撮影:
上掲「立部寺塔跡実測図」(石田茂作)を文字入れして、再度掲載。
※発掘されたという心礎は埋め戻され見ることはできない。図にある心礎抜取痕附近の石材破片4個及び側柱礎3と4との間の石材破片2個は現在地表には見えない。(既に紛失か?)
 定林寺塔土壇2:北東から撮影、土壇上向かって左の礎石は側柱礎5、右の礎石は側柱礎1      定林寺塔土壇3:東より撮影
 定林寺塔礎石1:手前は側柱礎1、奥は側柱礎2      定林寺塔礎石2:手前から、側柱礎2、3、4
 定林寺塔側柱礎1     定林寺塔側柱礎2     定林寺塔側柱礎3     定林寺塔側柱礎4     定林寺塔側柱礎5
 定林寺心礎抜取痕
 定林寺講堂跡1
 定林寺講堂跡2:石階と土壇上の基礎(いずれもRC造)は近代の春日明神のものであろう。春日明神は東50mの地に移転。
 定林寺本堂     定林寺庫裡
2022/06/14追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
6.立部寺
 「明一伝」及び「七代記」に「定林寺 世人名為立部寺」とある。そして両者ともに、立部寺を厩戸王子造立8ヶ寺の一つとする。
「七代記」は「太子伝古今目録抄」によれば、宝亀2年(771)の作。僧明一も奈良末期の東大寺僧であり、このころには立部寺=厩戸王子建立説が流布していたようである。
ただ、「上宮聖徳法王帝説」に記載する太子建立7ヶ寺には数えられていない。やや下った「聖徳太子伝暦」では7ヶ寺の一つとする。
康和3年(1101)の「定林寺妙安寺所司等解」には妙安寺(葛木寺)と共に法隆寺末とある。
大脇潔は、岩本正二の見解を引いて、立部寺を「平田忌寸」の氏寺とする。
 立部寺跡は立部集落の西にある丘陵頂部の狭い平坦地にある。遺跡の北側は西に下る狭い谷となり、この谷の西方北側には東から野口王塚古墳(天武持統)、鬼の雪隠・俎板、カナ塚古墳、梅山古墳(欣明陵)が並ぶ。
遺蹟には、塔及び回廊の基壇と礎石、さらに北面回廊の中心に基壇と礎石が残る。これまでに、塔と回廊、堂の基壇一部が調査された。塔と回廊は創建当時のものだが、基壇は鎌倉期に再建されたもの。
塔跡は、基壇面下約2mに、2.8×1.8mの心礎があり、附近から石造露盤の断片や塑像片が見つかっている。
高橋健自・石田茂作以来、塔の東北にある基壇を講堂跡としているが、鎌倉期再建基壇が創建基壇を踏襲しているならば、講堂とするには基壇長が短い。石田がその建築規模を三間四面に復元したことや基壇が高いことから金堂の可能性が高い。すると伽藍配置は石田のいうような法隆寺式ではなく、やや特異な配置となろう。
2022/06/14追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
6.立部寺
 「明一伝」及び「七代記」に「定林寺 世人名為立部寺」とある。そして両者ともに、立部寺を厩戸王子造立8ヶ寺の一つとする。
「七代記」は「太子伝古今目録抄」によれば、宝亀2年(771)の作。僧明一も奈良末期の東大寺僧であり、このころには立部寺=厩戸王子建立説が流布していたようである。
ただ、「上宮聖徳法王帝説」に記載する太子建立7ヶ寺には数えられていない。やや下った「聖徳太子伝暦」では7ヶ寺の一つとする。
康和3年(1101)の「定林寺妙安寺所司等解」には妙安寺(葛木寺)と共に法隆寺末とある。
大脇潔は、岩本正二の見解を引いて、立部寺を「平田忌寸」の氏寺とする。
 立部寺跡は立部集落の西にある丘陵頂部の狭い平坦地にある。遺跡の北側は西に下る狭い谷となり、この谷の西方北側には東から野口王塚古墳(天武持統)、鬼の雪隠・俎板、カナ塚古墳、梅山古墳(欣明陵)が並ぶ。
遺蹟には、塔及び回廊の基壇と礎石、さらに北面回廊の中心に基壇と礎石が残る。これまでに、塔と回廊、堂の基壇一部が調査された。塔と回廊は創建当時のものだが、基壇は鎌倉期に再建されたもの。
塔跡は、基壇面下約2mに、2.8×1.8mの心礎があり、附近から石造露盤の断片や塑像片が見つかっている。
高橋健自・石田茂作以来、塔の東北にある基壇を講堂跡としているが、鎌倉期再建基壇が創建基壇を踏襲しているならば、講堂とするには基壇長が短い。石田がその建築規模を三間四面に復元したことや基壇が高いことから金堂の可能性が高い。すると伽藍配置は石田のいうような法隆寺式ではなく、やや特異な配置となろう。
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
立部寺(定林寺)
 立部寺(定林寺)は飛鳥南方の独立丘陵上に位置している。
現在は史跡として維持管理がなされているが、昭和60年代まで春日神社が伽藍中心部に建っていた。
その後、神社はやや東に下った位置に遷った。集落は丘陵の東方に広がっており、丘陵の北・西・南の谷筋は水田が良好に広がっている。
 立部寺(定林寺)の創建については明確ではなく、『聖徳太子伝暦』や『太子伝私記』は、太子建立の七カ寺の一つとしてあげているが、他の記録には一切現われない。その造営氏族には平田忌寸の名前があがる。また、飛鳥池遺跡出土「寺名木簡」に「立部(寺)」がある(伊藤2000)。
 発掘調査は部分的ではあるが、塔・推定講堂・回廊の一部を確認している。
ただし、鎌倉期の改修や調査面積が狭いこともあり、塔を除いて、飛鳥時代の伽藍は明らかとはなっていないが、回廊の北面に金堂がとりつき、回廊打ちの西半に塔があるが、東半については不明。
また、伽藍の正面が明確ではなく、地形からは東面することも考えられる。
これらの堂塔の造営順序は明確ではないが、出土した瓦からある程度の寺の変遷は追うことができる。
 創建瓦は飛鳥寺と同じ花組で、定林寺の創建を7世紀初頭と推定できる。
また、川原寺式・藤原宮式の軒瓦が出土することから7世紀後半〜末に次の建物が造営、あるいは伽藍の修理がなされたと考えられる(奈文研1978)

定林寺石造露盤
定林寺には石造露盤の残欠が遺される。
一片は脇本氏邸にもう一片は定林寺庫裏沓脱石に転用されているようである。
  → 大和定林寺露盤

大和檜隈寺(檜前寺)

2002/04/29撮影:
○倭漢氏の氏寺とされ、創建は飛鳥期に遡るとされる。
「・・山陵志云、聖徳太子伝記曰、檜隈寺者欽明天皇宗廟也、今檜隈村道昭寺、蓋其遺構矣、・・」
・発掘調査の結果、南門の北に塔、東に金堂、西に講堂の伽藍配置を採るとされた。
塔土壇および礎石が残り、土壇の中心に地下式心礎がある。(発掘調査で発掘)
 ※現在、この心礎は埋戻され見ることは出来ない。代わりに複製心礎が塔跡すぐ南に置かれる。
また、土壇中央には平安期の十三重塔(一部欠・重文)が建立され現存する。
 大和檜隈寺塔跡1     大和檜隈寺塔跡2     大和檜隈寺塔跡3     大和檜隈寺塔跡4
 大和檜隈寺塔跡5     大和檜隈寺塔跡6     大和檜隈寺塔跡7
○「日本の木造塔跡」:
心礎は地下80cmの所にあり、径1.8mの大きさで、中央に径100cm、深さ16cmの柱穴があり、さらに中央に径12cm、深さ9cmの舎利孔を持つ。舎利孔の周りに環状溝があり、そこから1本の放射状溝が出、柱孔の径に沿う環状溝と合わされ、心礎を刳りぬいて、外部に達している。(巨勢寺心礎と同一の形状)
側柱礎は自然石で11個残存、四天柱礎は全部残る。塔一辺7.6m、基壇一辺12m余。
 2011/05/29追加:
  大和檜隈寺心礎32
○塔跡には土壇と四天柱礎全部と側柱礎11個(自然石)とが残る。塔の一辺は7.7m、基壇の一辺は約12mとされる。本来の寺名は道興寺と称したと思われる。
2007/02/07追加;
○「大和の古塔」
「山城清水寺縁起」(同族の坂上田村麻呂建立)では「道興寺 字口寺云々。右大和国高市郡檜前郷」とある。
 檜隈寺塔址実測図
2007/07/01追加:
○「飛鳥発掘物語」
昭和45年、十三重石塔の修理で発掘調査を実施、柱穴部分に高さ約20cmの四耳壷(しじこ)を発見、中に青白磁合子があり、さらにその中に卵形のガラス容器が入っていた。四耳壷は中世のもので、おそらく舎利容器を再埋蔵した時のものと思われ、ガラス容器が本来の舎利容器であろう。
なお心礎の廻りには柱穴の肩から35cmのところで円形に瓦を積んでいた。要するに径170cmの穴のように瓦は積まれていた。地下式心礎から地上式へと変遷する過渡期の様相とも推測される。
2008/01/08撮影:
講堂(7間×4間)跡は土壇と礎石を残す。講堂基壇は瓦積基壇(昭和56年発掘調査)
※南門跡は土壇を残す、金堂跡土壇はほぼ全壊と思われる。
 大和檜隈寺心礎1     大和檜隈寺心礎2     大和檜隈寺心礎3     大和檜隈寺心礎4
 大和檜隈寺心礎5     大和檜隈寺心礎6     大和檜隈寺心礎7:心礎は複製
 大和檜隈寺塔基壇     大和檜隈寺塔礎石     大和檜隈寺十三重石塔
 大和檜隈寺講堂跡1    大和檜隈寺講堂跡2     大和檜隈寺講堂跡基壇
2008/02/28:
○「橿原考古学研究所」にて以下を確認
『塔土壇の南に露出して置かれている心礎は「複製品」であり、心礎は土壇中央部にあり、埋め戻されている。』
2009/03/08追加:
○「奈良県史蹟勝地調査会報告書 第3回」奈良県史蹟勝地調査会、1977(原本大正5年) より
 委員は天沼俊一、塔跡は礎石13個を存す、四天柱礎は大部土中に埋まる、心柱礎は見ることを得ず、西側礎石の門のそれに代えたるをもって除く。堂の礎石は5個を存す。塔の南方に門の址あり。礎石抜取穴がある。余が数年前この位置にて見たる礎は、今社務所前の築山の装飾材に転用のほか、神社境内各所に都合3個ある。この礎石は中央に円形の凸面あり。(塔及び堂の礎石は自然石)
書誌の述べる処を総合すると、古代この地には檜前寺が建立され、また於美阿志神社の僧舎(神宮寺)が道興寺と号す、但し道興寺が檜隈寺の後身かどうかは不明、道興寺は明治30年前後に廃寺と云う、また於美阿志神社の位置も以前とは相違する。
 廃檜隈寺址実測図1:社務所前、庚申祠横、拝殿後中央、塔跡の◎が門礎のある位置であろう。
 廃檜隈寺址実測図2     廃檜隈寺塔址実測図
2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
心礎は2.0×1.67m、径95cm深さ17cmの柱穴があり、中央に径42cm深さ31cmの枘孔を穿ち、さらに径11cm深さ9cmの舎利孔をあける。舎利孔上段は薄い蓋受孔がある。(※法量の記載がなく法量は不明)
2011/05/29追加:
○「佛教考古學論攷」 より
 大和檜隈寺心礎31
○2017/03/09撮影:奈文研/飛鳥資料館
 桧隈寺出土瓦
2022/06/17追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
7.檜隈寺
 「日本書紀」朱鳥元年(686)軽寺・大窪寺とともに封戸百戸を30年に限り与えられるという記事が最も古い。
「清水寺縁起」(永正14年/1517)では、寺号は道興寺だったようである。そして阿智王が渡来した時高市郡檜隈に賜った土地に寺院を建立したという。
阿智王は後漢霊帝の曾孫といい、東漢直の祖という。
これと同様の伝承が「続日本紀」の坂上大忌寸苅田麻呂の伝奏に記録される。
なお、苅田麻呂の子息が田村麻呂で、田村麻呂が清水寺の創建者である故に「清水寺縁起」に載るのだろう。
通説のとおり、檜隈寺は東漢直の本拠地に建てられた彼らの氏寺であったと見てよい。
 1969〜70年に基壇上の十三重石塔(重文)の解体修理に伴う発掘調査が行われ、心礎が調査される。その後、1979年から5次にわたる発掘調査が行われる。
結果、地形に応じた伽藍配置であるが、南から金堂、塔、講堂が並び、金堂と講堂が南北の廻廊でつながり、西に面した回廊に中門が開く。塔だけがこの回廊の中にあるが、金堂・講堂の中軸線から東に外れた位置にあり、一直線には並ばない。但し、この伽藍は7世紀後半以降に造営されたものと推定され、7世紀初め頃の創建時の伽藍配置は明らかではない。
 金堂は三間四面の建物で二重基壇(下は玉石敷、上部は玉石組か)、講堂は五間四面の建物で瓦積基壇、塔は基壇一辺12m以上、心礎は舎利孔蓋受けを含めて3段の彫り込みがあり、一段目下端に排水管が設けてある。心礎の上、四天柱礎の内側には瓦積がある。
廻廊は金堂と講堂に連結され塔を取り囲む構造と推定される。
中門は塔の西方に3×2間の門を推定したが、遺構の状態が悪く、明確ではない。
 檜隈寺発掘図     檜隈寺伽藍図     檜隈寺講堂瓦積基壇
上記は何れも、2008/01/08現地説明板を撮影したもの
 檜隈寺金堂基壇 :「大和の古代寺院跡をめぐる」
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
檜隈寺(道興寺)
 檜隈寺は南北に延びる尾根上にあり、現在、伽藍地には東漢氏の阿知使主を祭神とする於美阿志神社の社殿がある。
社殿の南東には平安時代後期の十三重石塔が塔跡の上に建てられている。
檜隈寺の創建に関する記録はみられないが、「檜隈寺・軽寺・大窪寺に各百戸を封ず。30年を限る」(朱鳥元年(686)8月21日条)という記事があり、この頃には檜隈寺が存在していたことがわかる。
その伽藍配置は西面回廊に中門があり、南面に金堂、北面に講堂が接続する。中門を入った回廊内の正面には塔が配置されていると推定されている。
 発掘調査では金堂所用瓦が、7世紀後半の檜隈寺式(幅線紋縁複弁蓮華紋軒丸瓦)・重孤紋軒平瓦、塔・講堂が藤原宮式軒丸瓦・右偏行唐草紋軒平瓦であることが判明している。
しかし、伽藍地や講堂基壇内からは7世紀前半に遡る花組・火炎文単弁蓮華文・山田寺式瓦が出土しており、この頃まで遡る仏堂があった可能性があり、さらに北魏様式の光背断片も出土している。(飛鳥資料館1983・奈文研1980・1981b・1982a・1983・1987・花谷2000a・2003)。
 

大和呉原寺(竹林寺)

2022/06/17追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
 13.呉原寺
 栗原寺(くりはらてら)ともいう、
寺号は竹林寺。呉原の地名は渡来の呉人を住まわせたからという。(「古事記」「日本書紀」)
康平元年(1058)の「大和国竹林寺解案」では興福寺別院竹林寺は高市郡呉原にありという。
保延5年(1139)の「大和国竹林寺別當譲状案」や「清水寺縁起」では崇峻あるいは敏達の時、坂上大直駒子創建という。
駒子とは坂上系図に云う駒子直らしいが、崇峻や敏達の代の建立は信じられない。
堂塔の遺構は未だ明確ではないが、出土瓦から7世紀中期の創建に遡る可能性があり、7世紀末か8世紀初頭に何らかの造替が行われたと思われる。
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
呉原寺(竹林寺)
 呉原寺は、檜隈寺の東方の丘陵上にある。伽藍の位置については明確ではないが、丘陵部上に平坦面がいくつかみられ、堂塔が分散的に配置されていたと推定される。
 呉原寺の創建については、保延5年(1139)の『大和国竹林寺別当譲状』には崇峻元年(591)に坂上大直駒子が建立したとされる。
また、『清水寺縁起』では敏達天皇のために坂上大直駒子が建立したとする。
いずれにしても「竹林寺」は呉原寺の後身寺院か法号と考えられ、渡来系の東漢氏の氏寺ということになる。
記録に現われる初出は、康平元年(1058)の『大和国竹林寺解案』において呉原寺西大門という地名が残されているのみと記されている。
 発掘調査では伽藍そのものを確認していないが、礎石の遺存や瓦の出土から、おおよその位置が推定されている。
出土する瓦で最も古いのは、子葉に火炎文紋単弁蓮華文瓦があることから、7世紀中頃に創建されたものと考えられるが、先の記録とはややズレがある。
次に8世紀初頭と後半の軒瓦が出土し、この頃にも伽藍の造営が続いていたか、改修が施されていたことが推測される。
推定寺域の西端ちかくには7世紀末から8世紀中頃の土器を出土する溝が検出されており、土器構成からみて日常生活にかかわるものが多い。
よって食堂院や僧房などが近在に推測されている(網干1977・橿考研2000)
 

大和桙削寺

2022/06/28追加:
○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
32.桙削寺(ほこぬきでら)
「日本書紀」皇極3年(644)「大臣(蘇我蝦夷)、長直をして、大丹穂山(おおにほやま)に桙削寺を造らしむ」とある。
「日本霊異記」上巻縁第26には、持統の代、多羅(百濟僧)が高市郡法器山寺に住まい・・とある。
福山敏男は桙削寺と法器山寺が同じであり、現在の小島寺がその後身であり、もとはその東方、現在の高取町大字上小島字法花谷に所在したと考証する。
○各種Webサイト
桙削寺伝承地
高取町丹生谷とする説(高市郡志科)と、明日香村入谷という説(大和上代寺院志)とがある。
興福寺官務牒疏に「在二同(高市)郡丹生谷一僧宇二十八坊」とし、地理志料には「今在二入谷村一、古称二丹生谷荘一、見二吉水院文書一」とある。
中世に28坊というのは「興福寺官務牒疏」というから、椿井政隆の行動範囲の広さに驚く。椿井政隆はどのような動機で高市郡丹生谷に桙削寺を求めたのであろうか。
2026/01/13追加:
○「初期寺院の創建−7世紀前半における仏教寺院の導入」相原嘉之(「明日香村文化財調査研究紀要 19」明日香村教育委員会文化財課、2020 所収) より
桙削寺(小島寺?):ほこぬきてら
 桙削寺は、皇極3年(644)11月条「大臣、長直をして、大丹穂山に、桙削寺を造らしむ」とあるが、その場所は特定できていない。
福山敏男は、桙削寺と法器山寺が同じとして、現在の小島寺がその後身であり、もとはその東方の高取町大字上小島字法花谷付近と推定されている。
 


飛鳥以外の大和の塔跡


2006年以前作成:2026/01/13更新:ホームページ日本の塔婆