| 年 |
月 |
出来事 |
1591年
(天正19年) |
1月 |
秀吉を補佐してきた豊臣秀長(秀吉の弟、大和・紀伊・和泉・河内、大納言)病死。*wiki |
|
2月 |
千利休、秀吉の命により自害。 |
| |
8月 |
秀吉、翌年の朝鮮出兵を発表。諸将に肥前名護屋城の造営を命じる。*2 |
| |
12月 |
豊臣秀次(秀吉の甥)が関白となる。 |
1592年
(文禄元年) |
1月 |
秀吉、3月からの朝鮮出兵を諸将に命じる。*2 |
| |
|
秀吉、琉球を島津氏の与力とする。*2 |
| |
3月 |
秀吉、大軍を朝鮮半島におくる;文禄の役 はじまる。*2 |
| |
4月 |
肥後の小西行長ら第一軍が釜山に到着。 |
| |
|
秀吉、肥後 名護屋城に到着。*2 |
| |
5月 |
小西行長、加藤清正(第二軍)らが朝鮮王国の首都 漢城を攻略。 |
| |
6月 |
小西行長、黒田長政らが平壌を攻める。*2 |
| |
7月 |
日本水軍、朝鮮 李舜臣の水軍に大敗。*1 |
| |
|
加藤清正軍、朝鮮の2王子を捕らえる。*1 |
| |
|
下旬 加藤清正軍は朝鮮半島から豆満江を渡って満州(オランカイ)へと侵攻し、女真族と戦う。女真族の襲撃に苦しんでいた咸鏡道の朝鮮人3,000人が加藤清正軍に加わる。その後、女真からの報復攻撃に悩まされ、撤退して東へ向かい、鍾城、穏城、慶源、慶興を占領、豆満江の河口のソスポに達した。オランカイ侵攻は明への進攻ルートを探す目的があった*wiki |
| |
9月 |
小西行長、明の沈惟敬と会い講和を結ぶ(50日間の休戦)。*2 |
1593年
(文禄2年) |
1月 |
小西行長、明の李如松の攻撃を受け平壌を脱出。*2 |
| |
|
秀吉、蠣崎慶広に蝦夷地の全権を認める。*1 |
| |
3月 |
15日 黒田孝高、指揮系統の乱れた現地諸将を統括するため秀吉から軍奉行に任じられ、兵糧奉行の浅野長政と共に再び渡海。*wiki |
| |
4月 |
小西行長、加藤清正らが沈惟敬と会い、講和使節の派遣を約束。日明双方が敵側の降伏を報告。 |
| |
|
小西行長らが漢城から釜山まで撤退。 |
| |
5月 |
21日 黒田孝高、秀吉が画策した晋州城攻略計画に反対し、秀吉を直接説得するため東莱城より名護屋城へ帰国。この行動に秀吉は激怒し、謁見を許されなかった。*wiki |
| |
6月 |
豊臣秀吉、明の使節に和平7か条を提示(文禄の役 終結)。*2 |
| |
8月 |
秀吉側室 淀君、秀頼を出産。*1 |
| |
11月 |
秀吉、台湾に入貢を促す。*1 |