Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 1584年 クロニクル「豊臣秀吉 天下統一」  

1582年(12月) gya_l_bg.gif (1060 バイト)   gya_r_bg.gif (1063 バイト) 1587年

秀吉、柴田勝家を滅ぼすが、織田信雄・徳川家康と対立。



 織田信雄と信孝の対立は、信雄方についた羽柴秀吉が賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、信雄側の勝利となる。勝家は妻となったお市の方とともに敗死、信孝は信雄から自害に追い込まれる。しかし、大坂城を築城し、次第に織田信長の後継者になろうとする秀吉と信雄は対立するようになる。秀吉と勝家が対立している間に、徳川家康は武田氏の旧領甲斐・信濃を配下に収め、大大名となる。信雄は徳川家康を頼り、秀吉と家康は小牧・長久手の戦いに突入。羽柴秀吉方では、池田恒興や森長可らが討ち死にするなど苦戦し、秀吉は家康と和睦をする。

 年 月  出来事 
1583年
(天正11年)
2月  上杉景勝、秀吉の仲介により、織田政権と和睦。
4月  賤ケ岳の戦い;羽柴秀吉、柴田勝家を破る。勝家・夫人お市(信長妹)、越前国北庄城で自害。
     上杉景勝、賤ヶ岳の戦いでは秀吉の求めに応じて、越中国への侵攻を開始した。しかし、柴田方に与した佐々成政と睨み合いになり動けず、景勝の家臣須田満親も同年中には、魚津城から信濃海津城(松代城)へ退転した。
     秀吉、加賀に進み前田利家、佐々成政らを帰順させる。*2
  5月  織田信雄、尾張で柴田勝家側に立った織田信孝を自害させる。*2
  8月  秀吉、大坂城築城を開始(1585年完成)。
  この年  旧武田領の甲斐・信濃・上野(一部)をめぐり、徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈する。依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃(北信濃四郡は上杉領)・駿河・遠江・三河(碧海郡(矢作川以西)を除く)の5か国を領有する大大名へとのし上がった。
1584年
(天正12年)
3月  徳川家康、尾張の清洲城で織田信雄と会い、羽柴秀吉と敵対する。*2
4月  小牧・長久手の戦い;徳川家康・織田信雄、羽柴秀吉を破る。
     秀吉に与した上杉景勝、佐々家臣の丹羽権平から宮崎城を奪還する。
     この戦いでは、秀吉の甥の三好信吉(後の羽柴秀次)が失態により、秀吉に叱責されたが、その後の紀伊・四国への遠征では羽柴長秀が秀次と共に従軍し、長秀は秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力した。またこの頃、「長秀」の名乗りを、「秀長」に改めている。
     秀吉側の織田家家臣池田恒興、森長可が討ち死。
  6月  ポルトガル船、平戸に来航。
  12月  秀吉、家康と和睦。


資料   『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 *1 『日本史年表・地図』 (吉川弘文館)
 *2 『日本の合戦年表』 (地人館編著 朝日新聞出版)


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